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このページは事件概要&基本の入門ページです。面倒なら赤い文字と図版だけでも読んでください。
八甲田山雪中行軍とは・・・くわしくはWikipedia「八甲田雪中行軍遭難事件」をどうぞ他力本願
日露戦争のこと・・・雪中行軍のあとの日露戦争について
小説と映画が大ヒット!・・・「天はわれらを見放した!」が流行語
ブームが去って100年が過ぎて・・・映画「八甲田山」リリース、雪中行軍資料館リニューアルなど
雪中行軍目的地のいま・・・青森第5連隊がめざした「田代元湯」のいま

八甲田山雪中行軍とは

「八甲田山雪中行軍遭難事件」は本当にあったけど小説や映画とはちょと違います。
にちじ ことがら かいせつ
1902(明治35)年

1月20日 弘前第31連隊 雪中行軍スタート

お先にー!困った〜大隊長も行くんだって〜

青森第5連隊と弘前第31連隊の行軍ルート図

1月23日 青森第5連隊 雪中行軍スタート

よおい、どーん!ま、まってー!

青森第5連隊 210名の大人数編成
2泊3日間の計画
少佐が編成外で随行
199名が遭難死ほぼ全滅
弘前第31連隊 37名の少人数編成
11日間の長距離計画
指揮官はあくまで福島大尉
全員無事帰還

ホントは僕たち、八甲田山で
会う約束してないんだよねー。
え!?そうなの?

雪中行軍プラン表
弘前第31連隊 青森第5連隊(計画) 青森第5連隊(実際)
1月20日 弘前→小国
1月21日 小国→切明
1月22日 切明→銀山
1月23日 銀山→宇樽部 青森→田代 青森→平澤露営
1月24日 宇樽部→中里 田代→増沢 平澤→鳴沢露営
1月25日 中里→三本木 増沢→三本木 鳴沢→中ノ森露営
1月26日 三本木→増沢 中ノ森→
1月27日 増沢→田代 後藤伍長発見
1月28日 田茂木野→青森
1月29日 青森→浪岡
1月30日 浪岡→弘前
↑31連隊の計画の後半に自信がない・・・

1月26日 捜索活動を開始。あまりの悪天候にいったん引き返す。
1月27日 捜索活動を再開。後藤伍長を発見し、事態を知る。

5月28日 最後の遺体を収容

7月23日 凍死軍隊弔魂祭、歩兵第五連隊「遭難始末」発行

↑雪中行軍好き人間たちのバイブル
のちに新田次郎のベストセラー「八甲田山死の彷徨」の執筆動機になった。
1903(明治36)年
1月23日 雪中行軍遭難隊一周年祭
7月23日 幸畑墓地への埋葬式

みんな僕らに会いに青森に来てね八甲田牛がうまいよ〜
「八甲田山雪中行軍遭難事件」は、実際にあった事件です。新田次郎さんの小説『八甲田山死の彷徨』は、この事件をもとに書かれました。さらに映画『八甲田山』は新田次郎さんの小説が原作です。

1902年、日露戦争の2年前の事件です。

当時の世界は「帝国主義」の真っ盛り。

当時の日本は「鎖国」が終わったばかりで、世界に通じる産業は「絹生産」くらいの(野麦峠!)ささやかな国でした。

隣国のロシアはすごーい大国で、しかも南下政策を進めていました。極東の街にウラジオストック(東方を征服せよ)と名付けたほどです。コワイですね。

このままロシアに飲み込まれてしまうか。
ロシアと戦争して日本侵略をあきらめてもらうか。

「大国ロシア」と「戦争」して「勝た」なければ「日本が無くなって」しまう危機的状況の時代でした。

戦争せずに済まないかと手を尽くしましたが、どうにもならず、ついに日本はロシアとの戦争を覚悟して準備をすすめることになりました。

諸説ありますが、とにかくそんな時代だったのです。このあたりは司馬遼太郎さんの小説『坂の上の雲』がポピュラーです。

ロシアの南下を防ぐには中国か朝鮮半島が戦場になります。シベリアからの強烈な冷風が吹き荒れる土地での戦いです。そのためには耐寒訓練と研究が必要になりました。

当時は防寒服や暖房が不十分でした。・・・というより豪雪地域では雪が降ったら外に出ないで室内でじっと過ごすのが生きる知恵だったのです。

そんな時代の「雪中行軍」。

福島大尉(映画では「徳島」高倉健)は少人数編成。
神成大尉(映画では「神田」北大路欣也)は大人数編成で、八甲田山への雪中行軍を開始しました。


「八甲田で会うこと」を約束していた徳島大尉と神田大尉ですが史実では会う約束をしていません。それどころか面識もないかも・・・です。

←「雪中行軍プラン表」で分かりますが、計画通りに雪中行軍してたら弘前隊と青森隊は、八甲田山ですれ違い出来なかったのです。

青森隊は、いきなり八甲田山突入の短期プラン。
弘前隊は、さいごに八甲田山突入の長期プラン。
しかもこの日は日本最低気温の最悪な天候でした。


雪中行軍の結果は・・・。あまりにも違います。
青森隊は、210名のうち199名が亡くなりました。
弘前隊は、37名が全員無事帰還できました。

まるでドラマのような違いです。いくらドラマでもここまで極端にしないでしょう。でもこれが事実なのです。

青森隊の遭難事件は全国的に大々的に報道されました。そりゃそうだ

いっぽう、弘前隊の雪中行軍成功は報道されなくなりました。なぜかは諸説あります。弘前隊の雪中行軍に同行していた記者が沈黙してしまったこと、軍部が報道統制をとったなど・・・真実はわかりません。

この事件は海外でも報道されました。
こんな大規模な山岳遭難事件は世界ではじめてだったのです。同様に大規模な救助活動もはじめてでした。耐寒救出ノウハウがない状況での作業は、現在の我々が考える以上に困難を極めたはずです。

弘前隊が遭難(凍死)している青森を八甲田山中で見たかどうかの真相はまったく不明です。

事件直後は、「夜になると、凍死した兵士たちが軍靴をザックザックと響かせて連隊の門にやってくる」と噂がたちました。現代でも「夜に八甲田山中をドライブしていたカップルが兵士の霊を見て、あまりの恐怖に髪の毛が真っ白になってしまった」という噂があります。彼ららが何かに恨みがあってバケて出るとは思えませんが、こんな都市伝説ができてしまう何かがこの事件にはあるのでしょう。

日露戦争のこと

日露戦争では八甲田山から生還した二人の大尉が亡くなりました・・・。
にちじ ことがら かいせつ
1904(明治37)年
2月4日 御前会議で対露開戦を決定
2月10日 対露宣戦布告(日露戦争勃発)


10月 後藤伍長の銅像が建てられる
12月5日 203高地を占領
1905(明治38)年
1月2日 旅順陥落(水師営の会見は1月5日)

第八師団の進路地球儀のどこらへん?
↑こんなんでよいかしら?

1月25日 黒溝台会戦
1月27日 倉石一大尉戦死
1月28日 福島大尉戦死


1月29日 黒溝台を占領


3月9日 クロパトキン(ロシア総司令官)、ロシア全軍に退却命令
5月27日 日本海海戦


9月5日 日露講和条約(ポーツマス条約)調印
1906(明治39)年
7月23日 後藤伍長の銅像の除幕式
後藤伍長が待ってるよ銅像茶屋のそばがおいしいよ〜
1904年2月10日、日本はロシアへ宣戦布告しました。ついに日露戦争がはじまってしまいました。青森隊と弘前隊が所属する第八師団は予備軍(国内で待機)を命ぜられました。

明治37年6月に動員されたものの、大陸に上陸したのは10月。戦場では冬期作戦のにらみあいの準備がはじまっていました。日本軍総司令部は「厳冬期のロシア軍からの攻撃は無い」と判断したのです。当時は冬には戦争をしないのが一般的でした。

日本は、遼陽、沙河、旅順を奪取し勝ち進んでいましたが、人的・装備的な犠牲が大きく、どちらかというと癒しの時間がほしかったのです。

ロシア軍は攻めてきました。

ロシア軍の特性を考えない作戦と、ロシア軍の猛攻に、配置されたばかりの第八師団は窮地に陥りました。それでも援軍が来るまで、戦地の黒溝台で第八師団は、雨のようなロシアの砲弾を受けて「死守する」しかありませんでした。

1月27日、倉石一大尉(映画・小説では倉田大尉、加山雄三さんが演じた)が戦死しました。

第八師団長・立見中将が臨時軍指令官となり、本格的な攻撃をはじめましたが、1月28日、福島大尉(映画・小説では徳島大尉、高倉健さんが演じた)が戦死しました。

その日は八甲田山雪中行軍からちょうど2年後。
福島大尉は田茂木野に向けて歩いていた時で、倉石大尉は駒込川付近で救出を待っていた時です。

日本軍の夜襲攻撃が加えられ戦場は凄惨をつくした状況になりました。ところが、なぜか、むしろ優勢だったはずのロシア軍が退却したのです。

幾多の危機と不手際と犠牲の中で、黒溝台会戦は日本軍が勝利したのです。

やがて日露戦争が終結し、翌年、後藤伍長出席も出席して銅像の除幕式が行われました。後藤伍長の像は、第二次大戦中の「鉄供出」の対象にならずに、今でもわれらに何かを伝え続けています。

小説と映画が大ヒット!

事件から50年以上が過ぎて、新田次郎さんの小説と、映画が大ヒット!
にちじ ことがら かいせつ
1955(昭和30)年
9月 短編小説『吹雪の幻影』(のちの『八甲田山』)掲載(新田次郎/著)


1965(昭和40)年
6月 『陸奥の吹雪』発行(陸上自衛隊第五普通科連隊/編)


1970(昭和45)年
2月5日 小原忠三郎伍長(最後の生き証人) 亡くなる
9月1日 『吹雪の惨劇 第一部 発行』(小笠原弧酒/著)
9月25日 新田次郎さん、小笠原弧酒さんのガイドで青森取材


1971(昭和46)年
9月20日 『八甲田山死の彷徨』 発行(新田次郎/著)
「八甲田山死の彷徨」読んだ?
1974(昭和49)年
9月1日 『吹雪の惨劇 第二部』発行(小笠原弧酒/著)


1975(昭和50)年
6月 映画『八甲田山』撮影開始(以下、「八甲田山」と表記)


1977年(昭和52)年
6月18日 映画『八甲田山』全国ロードショー
管理人はこのころ「宇宙戦艦ヤマト」劇場版にムチュウだー!
1978年(昭和53)年
4月4日 TVドラマ『八甲田山』放送(TBSテレビ系)
6月23日 青森市幸畑に「八甲田山雪中行軍遭難資料館」が開館

1980年(昭和55)年
2月15日 新田次郎 亡くなる(67歳)


1982(昭和57)年
? 小笠原弧酒、収集した資料を売却すると発表


1984(昭和59)年
12月2日 森谷司郎監督 亡くなる(52歳)


1987(昭和62)年
1月 銅像茶屋に資料館「鹿鳴庵」できる


1989(平成元年)年
8月28日 小笠原弧酒 亡くなる(63歳)
事件から50年が過ぎ、二人の人物が登場します。
新田次郎(にった・じろう)と小笠原弧酒(おがさわら・こしゅ)です。

新田次郎さんは小説家。気象庁在籍中に直木賞を受け、退職してから時代小説、山岳を舞台にした小説を次々と発表し続けたベストセラー作家です。

新田次郎さんは偶然に手にした『遭難始末』をもとに短編小説『八甲田山』を書き上げました。そしていつか、この事件を題材にした長編小説を書くのだと思い続けていました。

人気小説家であるためその時間はなく、なかなか着手できないでいた頃、八甲田山雪中行軍遭難事件の最後の生存者・小原忠三郎さんの死を新聞で知りました。

小笠原弧酒さんは元新聞記者。小原忠三郎さんをはじめ関係者を自費を投じて取材していました。さらに自費で取材の成果の本を出版していました。

新田次郎さんは長編小説を書くことを決心し、小笠原弧酒さんに連絡をとりました。

小笠原弧酒さんの案内で現地をして、独自に資料を入手した新田次郎さんは、ついに長編小説『八甲田山死の彷徨』を書き上げました。

小説はベストセラー(売上げ部数不明)になり、さらに映画化が決定しました。

映画の製作費は当時では破格の7億円。撮影期間は3年間。豪華なキャスト、大規模な宣伝活動で映画「八甲田山」は公開されました。

多くの兵隊さんが凍死する映画なのに大ヒット。観客動員は新記録を更新しました。

北大路欣也さんが叫んだ「天はわれわれを見放した!」は流行語になりました。

国鉄(いまのJR)は青森・八甲田山への旅行キャンペーンを展開。映画を観ることと、映画の舞台を観光することが相乗する時代になってきたのです。

ついにテレビドラマ化までも決定し、まさに「八甲田山ブーム」と読んでよい状況だったのです。

小笠原弧酒さんにも研究者として光が当たりましたが、光を明るく反射することができず、文筆を中断し、資料売却で顰蹙を買い、ひそかに亡くなりました。

それよりも前に、新田次郎さん、森谷司郎監督も若いうちに亡くなり、世間からは「八甲田山ブーム」の記憶も消えてしまったのです。

「・・・・・・」

ブームが去って100年が過ぎて

事件から100年。ふりかえりつつ、あたらしいことをはじめる時になったよ。
にちじ ことがら かいせつ
1992(平成4)年
10月21日 『八甲田山』完全版(VHS,LD) 発売

2000(平成12)年
2月19(21?)日 『八甲田山』DVD 発売
4月 北大路キンコ、レンタルビデオで映画『八甲田山』観てマイブームに陥る

2002(平成14)年
6月23日 「八甲田雪中行軍遭難100周年慰霊式典」開催

2004(平成16)年
6月23日 『八甲田山』DVD特別愛蔵版 発売
7月23日 「八甲田山雪中行軍遭難資料館」リニューアル・オープン
ぜひ来てねリニューアル資料館の後藤伍長まっててやー。
映画公開から15年後、ファンの尽力がキッカケで、3分のカットシーンが加わった<完全版>の映画が青森で上映されました。

時代はデジタルになり、VHS→LD→DVDと、その時代の記憶媒体でリリースされるようになりました。

青森の資料館は老朽化し、資料のコンディションは悪化していました。100周年の式典を境に、管理体制の改善と、資料館の建て替えをすることになり、2004年に資料館がリニューアル・オープンされました。

現在でも、資料の補修、散乱した資料の収集など、多くの問題が残っています。

最新の通信網(インターネット)を得たわれわれが
何かを成し遂げなければ、30年前に「八甲田山ブーム」をつくった先輩たち、100年前に吹雪の八甲田山を歩いた先人たちに、遠く及ばない、オロカな世代に成り果ててしまうのではないでしょうか?