からし種2012年5月号
・・・「からし種」は、戸塚ルーテル教会が毎月出す冊子です・・・
      

 
      
  日曜日の礼拝  での
 清水牧師の説教

 信徒が説教中にとったメモ


 行事予定

 主日予定


 教会の歩み


  

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2012年4月1日、4月8日の説教録音
 (どなたでもお聞きになれます)


  教会行事の写真



2011年2月11日に行なわれました、宣教開始記念コンサートの写真をアップロードしました


新着情報 
2011年10月11日  幼稚園・園での生活と行事 のページをアップしました




戸塚ルーテル教会は
キリスト教放送局 日本FEBC
を支援しています。
ラジオ放送 AM1566kHz
インターネット放送 http://www.febcjp.com

日本FEBCへのリンク




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戸塚ルーテル教会は日本ルーテル教団に所属するプロテスタントの
キリスト教の教会で、神奈川県、横浜市、戸塚区の区役所の
隣と言っても良いほどの近くにあります。 (略地図)。
附属幼稚園は、同じ敷地内にあります。
戸塚ルーテル教会はキリスト教放送局FEBCを支援しています。
日本ルーテル教団の月報、教会だよりには、各教会の牧師や
教会員のメッセージ(主に教団内向け)が掲載されています。
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2011年2月、当教会にて市岡裕子先生をお招きして、宣教開始記念コンサートを行いました。(印刷用チラシA4





       
 巻頭の牧師の説教   

                       

 清水牧師の説教

主の復活日

            『そこでお目にかかれる』 マルコ16:1-8

 イエス様が十字架上で息を引き取られた時、その場に最後まで見守っていた人間たちを聖書は描いておりますが、ほとんどが女性たちだったように記されております。特にユダを除いた、ペトロを始めとする十一人の男の弟子たちは、誰もその場にはいませんでした。つい何日か前まで、『誰が一番偉いか』とか『誰が右の座に座るのか』とか、地位や力ばかりを問題として来た男たちは皆、逃げ去ってしまいました。そして、そういう地位や力の話題からは程遠いと思われた女性の弟子たちが、最後まで、十字架の死に至るまで、イエス様を見届けたのであります。そして今日、その女性の中から、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメが、イエス様の遺体に香料の油を塗るために墓に行ったという。普通ならば、しなければならない葬りの儀式の一つであります。しかし十字架刑という、最も重い刑罰を受けた人間です。誰も近づかなくても不思議ではない。更にはもう一つ大きな問題がありました。当時の墓は、横穴形式でしたので、墓の入り口には、大きな石で蓋がしてありました。とても三人ばかりの女性では、びくともしない、大きな石であったようです。三人が男だったら動かせたかも知れません。しかし彼女たちは出掛けて行く。全てが終わり、どうしようもない絶望感が襲っていてもおかしくはない。更には大きな石。それでも、無駄足になったとしても、彼女たちは、普通の葬りの儀式に行く。『ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかった』と聖書は記しております。ここの『目を上げて見る』と訳されている言葉は、二つの動詞が原文には使われております。ですからその二つの動詞にこだわって、私なりに直訳しますと、次のようになります。『顔を上げてもう一度よく目をこすって見ると』。ここに来るには来たけれども、どうせ香料の油を塗ることは出来ないだろう。下を向いて歩いて来たら、なんとなく石が脇に転がしてあるように見える。そこで『顔を上げてもう一度よく目をこすって見ると』ということでしょうか。そんな光景を色々と想像しますと、目先の事に下を向いて一喜一憂しながらも、それでも動いて顔を上げて気が付けば、その向こうに突破口が示されている、そんな生きざまを示されるのです。

 そして彼女たちが墓に入ると、恐らく天使でしょう、若者がいて、あの方は復活なさったと言う。この時の婦人たちの様子が、非常に印象的です。特に今日の最後の箇所の8節は、マルコ福音書独特のものが映し出されています。『婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである』。人間にはとうてい信じられない出来事に出会ってしまった。そんな計り知れない恐怖を味わった人間が、ありありと描かれているように思います。そして『だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである』で、福音書は終わっています。実は、本来のマルコ福音書は、ここまでしか書かれていなかったと言われます。お手元の聖書には、169節以下も記されてあります。来週の福音書の箇所にもなっている所です。しかしこの9節以下は、少し後になってから加筆されたものであって、元々はこの部分は無かったのではないかとも言われます。そう考えますと、むしろまたこの婦人たちの行動から、色々と暗示させられます。彼女たちの想像を絶する恐怖心は、むしろ当然であるように思います。ですから『だれにも何も言わなかった』というのも必然です。『福音を宣べ伝えよ』というのは、キリスト教会の使命であります。しかしその起点は、『だれにも何も言わなかった』というのです。ところが実際、宣べ伝えられ続けている。ですから今こうして、戸塚の地にも福音が語られているわけです。やはりここにもこの婦人たちを通して『だれにも何も言わなかった』という出来事の、その向こうが確かに示されているのです。計り知れない恐怖が襲った。だから『だれにも何も言わなかった』。恐怖心はもちろんある。そして、それ程の出来事だった。しかしその恐怖は、恐怖のままで終わらなかった。その向こうが示されている。そういう余韻をもって、マルコ福音書はここで筆を置いているのかも知れません。

 そんな婦人たちに、天使のような若者が語った言葉が、これもまた非常に印象的であります。『弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる、と』。この時の天使の言葉に、『弟子たちとペトロに』と、とりわけ『ペトロに』という言葉が付け加えられてあります。この事もマルコ福音書だけにしか記されていない言葉です。何か特別な意味がありそうです。そこで『かねて言われたとおり』という事ですから、この時以前に既にイエス様は『復活したらガリラヤへ行く』とおっしゃられていたわけです。その言葉はマルコ142728節に記されてあります。『イエスは弟子たちに言われた。あなたがたは皆わたしにつまずく。わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう、と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』。

 何故イエス様は、『ガリラヤへ行く』とおっしゃられたのだろうか。実はこの言葉を語った後に、ペトロはイエス様から、次のように予言されます。『あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう』。何故このような予言をされたのかと申しますと、イエス様が『あなたがたは皆わたしにつまずく』とおっしゃられて、その言葉にペトロが、特別に反応したらからです。『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』。鶏の事を聞いて更にペトロは言い切りました。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』。しかし実際には、ペトロはイエス様の予言通りのことをしてしまいました。こんなペトロとイエス様とのやり取りが、『ガリラヤへ行く』とかねて言われていたあの時にあった。だからこそ、今日のこの場面で『弟子たちとペトロに告げなさい』と、特別にペトロを付け加えて、天使は語ったのだと思うのです。この言葉を婦人たちから聞けば、ペトロはきっとまた即座に反応するはずだからです。ここに何故ガリラヤなのか、その理由が示されていると思うのです。

 ガリラヤはペトロたちが、かつて漁師として生活していた場所です。あのガリラヤ湖の辺で、漁師をしていたペトロは、網を捨てて、イエス様に従ったのです。従いながら、やはり様々な出会いや出来事がありました。そうやって、エルサレムまでやって来ました。それまでに、たくさんのイエス様の言葉や、イエス様の業にも触れて来た事でしょう。少しはまっとうな人間になったかも知れない。いい話を聞けば、いい業に触れれば、それなりにいい人間になれるかも知れない。しかしその奥深い所では、相変わらずかつての自分を引きずっていた。かつての自分とは、相変わらず人間の力を誇り、人間の力を頼りとし、地位や名誉や財産を頼りとしている自分。ペトロもそんな自分を捨て切れず、エルサレムまで来てしまった。そしてイエス様の十字架を見てしまった。同時に、イエス様の言葉通りに、イエス様を見捨てて逃げてしまった自分を見てしまったのです。そんな自分と、イエス様はあのガリラヤでもう一度お目にかかれると言う。だからあのガリラヤへ行けという。あのガリラヤはかつての自分が生きていた所だ。あそこに行けばかつての自分に出会うかも知れない。それは『かつて』であって、今は違う自分なのだ。しかしそれでも、あのガリラヤは、やはり自分が生きる所だ。自分の日常の生活が備えられている所だ。しかしただ一つ違う。そこにいるのは、かつての自分ではない。新しい自分なのだ。新しい自分として、本来生きるべき所で、もう一度生きて行く。だからそこで、復活されたイエス様に、お目にかかることが出来るのだ。ガリラヤだからこそ、かつての自分から、新しい今の自分に出会う事が出来るのだ。同時に復活のイエス様に出会うのだ。

 本来あるべき所で、本来あるべき自分が、本来あるべき賜物をもって生きる。そこに復活のイエス様がおられる。復活のイエス様を見るとは、そういう自分を生きる事ではないのか。だから、復活のイエス様を見る事は、この自分が見ることであって、他人がそこで見えるものではない。復活のイエス様は、見世物のように、やじ馬のような不特定多数の人間には、見るものではない。そういうふうに探し求めるものではないのではないか。そして、相変わらずあきらめや、絶望によって、下を向いてしまう自分がある。恐怖によって、黙って逃げてしまう自分があるかも知れない。しかし、復活のイエス様が、この私に向かってこの私のための『ガリラヤでお目にかかれる』という、その御言葉を備えられてあるならば、あの婦人たちのように、決して、あきらめと絶望だけに終わらない。恐怖で黙ったままには終わらない。その向こうが示されている。

 だからもう一度、顔を上げて、目をこするように私のための約束の御言葉によって、私の復活の主に出会い、新しい自分に生かされて行こうではありませんか。

 

復活後第2主日

          『わたしは漁に行く』 ヨハネ21:1-14

 毎週の礼拝の中で私たちは『主日の祈り』を祈ります。これはその日の礼拝のテーマを表すものであります。今日は『絶えることのない喜びを与えてください』と祈りました。イエス様が復活されたということは、『死んだものが生き返ったんだ。すごいなあ』だけで終わるものでは、もちろん有りません。そういうイエス様によって、そういうイエス様を、救い主と信じる私には、『絶えることのない喜び』が与えられるというのであります。しかしその『喜び』は、私たちが普通に考える『喜び』とは、少し違うのかも知れません。先週の礼拝のテーマを示す『主日の祈り』では、『復活の力を伝えさせてください』と祈りました。この『絶えることのない喜び』は、当然『復活の力』から来るものでありましょう。そして『復活の力』とは、先週の礼拝で与えられました、マルコ161718節に示されていると申し上げました。即ち『信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る』。 先週の礼拝後に、『手で蛇をつかみ』というこの『蛇』とは、何を指しているのでしょうかと、質問されました。『蛇』そのものに何か意味があるのかどうかは定かではありません。がしかし、少なくとも『蛇』と言いますと、私は何か『避けたい』という感情が湧いて来ます。そういう『何か避けたい』という感情が、変えられてしまう事ではないかと、その時は申し上げました。

 そしてまた、たまたまある方から、次のようなお話しを、先週聞きました。『次から次へと、困難な出来事が続いた時に、周りの人たちは、キリスト教を信じているあなたなのに、何でそんなに不幸が続くのかしらと言われました。でも私は、信仰が与えられているから、この困難な出来事の中に身を置いても、そこに生きていられるんです。信仰が与えられていなかったら、とてもじゃないけれども、生きていられなかったかも知れません』。私はこのお話しをお聞きして、キリスト教信仰の一つの核心が語られていると思いました。このお話しの中の周り人たちの、宗教感と申しますか信仰は、あえて表現したら『厄よけ信仰・厄払い信仰』と呼べるものではないでしょうか。信仰は厄よけの手段なんです。困難やいわゆる不幸の予防策として、信仰があるんです。ところが、このお話しの方の信仰は、乱暴な言い方かも知れませんが『厄受け信仰』という事でしょうか。信仰は困難やいわゆる不幸の予防策ではない。困難やいわゆる不幸に直面した時こそどう生きるのか、その生き方を示してくれるのが信仰なんです。ですから信仰生活を送る、前提が180度違うんです。片や信仰は、困難を予防したり排除する事を問題としているんです。ところが一方は、困難を丸ごと引き受けて行く生き方を問題としているんです。ですから冒頭の『手で蛇をつかむ』という事も、本来ならば多くは蛇は避けて通りたいものなのに、復活の力によって、避けるのではなく『つかむようになる』というのです。あるいは毒は、本来は避けて飲まないものなのに、『復活の力』によって、たとえ飲んだとしても、決して害を受けないから、避ける避けないという範疇のものではなくなる、というわけです。

 今日の福音書は、ティベリアス湖畔での出来事であります。これは別名ガリラヤ湖の事であります。二週間前のイースター礼拝の中で、復活されたイエス様は、弟子たちに向かって、『ガリラヤへ行け。そこでわたしに会うことになる』とおっしゃられました。今日のこの場面は、まさにそのガリラヤで弟子たちが、復活されたイエス様に出会う所であります。弟子たちの中のペトロやゼベダイの子たちは、かつてこのガリラヤ湖で漁をしていた時、イエス様に出会い、網を捨ててイエス様に従った者達です。網を捨てて従った生活は、三年ほどでありました。その三年間に彼らは、ガリラヤからエルサレムまで、イエス様と一緒に旅をし、最後はイエス様の十字架の死に直面させられたわけです。その時の彼らの旅は、イエス様と共にあるとは言え、相変わらず十字架という困難を避けるような、十字架を無きものとしてしまうような、そういう旅でありました。言わば困難や、いわゆる不幸が起こらないようにする、予防と防止の旅でありました。しかしイエス様は、そんな彼らを伴いながら、十字架を避ける生き方ではなく、受ける生き方を彼らに示されたのであります。もちろんそこで、単なる犠牲的精神に溢れた、殉教者の美談を示そうとするものではありません。何よりも復活の力によって、人間としての本当の生き方、罪の赦しによって造り変えられた、本来あるべき所に置かれる生き方、それを人間にもう一度可能として下さったのであります。

 弟子たちはあの貴重な三年というプロセスを経て、もう一度ガリラヤで、本来あるべき生き方に引き戻されたのです。見た目は同じ漁師として戻って来ました。しかしその命は、もはや自分のためにあるのではなく、与えて下さったお方のためにある命に生きる本来の生き方に造り変えられたのです。だからこそそこで、ご復活のイエス様に出会うのです。本来の漁師の仕事に生きようとする彼らです。そして夜通し漁をしましたが、何もとれませんでした。夜が明けた頃、岸辺にご復活のイエス様が立たれていました。聖書は『弟子たちは、それがイエス様だとは分からなかった』と記しております。夜明けなので、まだ薄暗かったから、イエス様だとは分からなかったのでしょうか。それとも、もはやそのお姿によって、イエス様だと知ることではないと、聖書は描いているかのようでもあります。あるいはそういう仕方でも、ご復活のイエス様は私たちと共に有る、ということでしょうか。いずれにしてもそのお姿というよりも、むしろイエス様の言葉と、その言葉によって引き起こされる出来事が、私たちにとってイエス様を確かなものとしている、そんなふうにも示されるのです。そんなふうにも、今日のこの場面が進められているように見えるからです。と申しますのも、この場面と全く同じ場面が、かつてあったのです。それはまさしく先程申し上げた、弟子のペトロたちが、網を捨ててイエス様に従うことになったあの場面です。

 それはルカ福音書51節以下に記されてあります。あの時イエス様から『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われたペトロは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした』と、まずやんわりと、イエス様の物言いに反発しています。その後、言われた通りに網を降ろしたところ、たくさんの魚が取れてしまったわけです。それでペトロは『わたしは罪深い者です』と悔い改めさせられてしまったわけです。ところが今日のこの場面では、『子たちよ、何か食べる物があるか』と問われ、彼らは『ありません』と答えています。それでイエス様から『網を打て』と言われた。しかしその時、かつてのような反発の言葉を、聖書は記しておりません。即座に彼らは網を打ったように今日の聖書は記しております。ここにまず、変えられた彼らの姿を見ることは出来ないでしょうか。反発の言葉はあったかも知れないが、聖書はそれを省いただけだ、とも考えられます。しかし私は無かったと思います。と申しますのも先程のイエス様の問いかけですが、今日の聖書は『子たちよ、何か食べる物があるか』と訳し出されています。しかしもう少し丁寧に訳すならば『子たちよ、あなたたちは何も食べ物は持っていないよね』となります。つまり彼らの手元には、何も食べ物は持っていないと言うことは、イエス様は重々ご存じだったわけです。しかしその問いかけには、『持っていないから残念』ではなくて、『持っていないよね。だから、持てるようにするね』という希望が読み取れる。少なくとも弟子たちはそういう希望を感じ取る事が出来たのではないか。それはまた彼ら自身も、そういう希望を感じ取れる事が出来る自分は、もはや、かつての自分とは違うものを、自分自身にも見て取っていたのではないか。食べる物はないでしょうねと問われ、ありませんと答えた。普通ならそれで全てが終わるところです。ところが続けざまに網を打てと言われ、その通りにする事が出来た。『網を打て』という言葉に、彼らは無駄ではない意味のある勢いのようなもの、そういう希望を感じ取ったのではないか。言われた通りにすると、たくさんの魚が取れた。夜通し苦労したけれども、その苦労は無駄でもなければ無意味でもない。その苦労がむしろ、ご復活のイエス様との出会いを果たさせたとも言えるのであります。

 この後弟子たちは、イエス様と朝食を共にします。その時の興味深い、弟子たちの様子を聖書は次のように伝えます。ヨハネ2112節『弟子たちはだれも、あなたはどなたですか、と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである』。やはり彼らは、かつてのガリラヤ湖での、最初のイエス様との出会いの時の自分と、今この時の自分との違いをはっきりと知る事が出来たのではないか。そしてこの一連の言葉と行いの出来事の中で、ご復活の主を『見る』というよりも、『知る』事が出来たのです。一つ一つの出来事が意味ある事を示された。そしてまた苦労が苦労のままに終わらない。何よりも復活の力を示される事を知らされたのです。

 今日のこの場面は、あの弟子たちとご復活のイエス様との出会いの場面ですが、同時にキリストの教会の礼拝を思い起こさせられます。主の言葉があり、主の食卓がある。もはや誰も『あなたはどなたですか』と問うはずもない。今やこれ以上の、主を知る出来事は、他にあるでしょうか。



        信徒が説教中にとったメモ

 主日礼拝中にとったメモより -91- (多分、主観が組み込まれてます!)

                   教会員S.O.

メモ2012-4-1〗自らの悪故に摩滅しようとする断末魔の都市の中で、都市のために自らの実務をして役立っていた人は、そのお人よしのために真っ先に都市の組織固めのためのスケープゴートとなる。スケープゴートにされた人たちは苦しみうめき、ある者はぼけてしまい、ある者は狂ってしまい、ある者は文字通り死んでしまい、ある者は何とか逃げ出そうとする。古代ユダヤの地で、ある者たちはは、自ら考え出す計略によって他者を殺してしまう力ある者たちとして都市を支配していたのだが、自分たちの神(人身御供を求める神)を冒涜する者として、ついに、イエス・キリストを計略にかけて殺そうと、いつもの様に計画を練り始めた。しかし、熱心に組織固めの活動を続けるうちに、いつしか、キリスト殺しの実行犯として、自ら自身が裁かれる者へと転落していった。また、ある者(マグダラのマリア)は十字架の死に向かうイエスのために、何か自分が出来る事を精一杯しようとして、高価な香油をイエスの頭上から大量にかけた。経済学的な合理性から見れば、マグダラのマリアの行動は愚かなものではあった。一方、イエスが逮捕されて十字架刑にあう直前、イエスはゲッセマネの園で最期の祈りをささげていたが、それに伴った、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人のイエスの弟子たちは、いいようのいない眠気に襲われて、眠ってしまった。さらに一方、イエスが逮捕されて引かれていく時に、「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについてきた。人々が捕らえようとすると、亜麻袋を捨てて、裸で逃げてしまった(マコ1451-52)」。この若者は、一説によれば、ヨハネによる福音書の著者ヨハネであるとも言われている。これら三人のイエスの弟子たちやヨハネは、人間の意志と理性とで耐えられる限界まで戦い抜いたのだが、イエスの十字架の出来事は、人間として耐えられる限界を超えており、これら四人の頭が発する命令を振り切って、これら四人の体が勝手に逃げ去ってしまったのだ。この体験の結果、これら四人のは、さもなくば見ることの決して無い、自分の心の奥底を、わが目で目撃するのに至ったのだ。また、一方、イエスの十字架刑を執行したローマの100人隊長は、ユダヤ人ではなく、聖書の知識も無かったが、一部始終を見たうえで「本当に、この人は神の子だった(マコ1539)」と告白した。これらイエスの十字架刑に立ち会った人々は、イエスを殺そうと計略をめぐらした人も、イエスに最後まで従おうとした人も、それぞれ極限にまで追い詰められて、ついに本音の言動を行なったのだ。現代を生きる私たちクリスチャンは、四旬節(受難節)の今の季節には、もし、自分が古代ユダヤのイエスの十字架の出来事に立ち会ったとしたら、どの人の様にふるまったのだろうか?と想起し、その結果として、本当の自分との出会いが備えられるのである。

メモ2012-4-8〗イエスが十字架死したあと、イエスを残して逃げ去った、ペトロをはじめとするイエスの弟子たちはがっくり・ぐったりしてしまい、もはや何も出来なかった。しかしイエスに付き従っていた婦人たちは健気にも弔いの儀式(イエスのなきがらに油を塗る)をするために、イエスのほおむられていた墓に向かった。ところがそこには天使が一人居て、“イエスは甦ってもうここには居ない。復活したイエスに会うためにガリラヤに向かうようペトロに告げなさい”と婦人たちに言った。もし婦人たちが“自分たちはイエスの仲間である”と明言すると、イエスを死に追いやったファリサイ派の人々から婦人たちも命を狙われる事となる。しかし、人間は神の摂理の中に生きており、イエスの言葉を否定したままで(真理を否定したままで)生きていく事も出来ない。婦人たちは恐れおののいて逃げ去り、「だれにも何も言わなかった(マコ168)」。一方、非常な困難な体験に出会って、自分の心の中の隅々までを、何か解決策が無いかと捜し求めていたペトロを初めとする弟子たちは、やがて自分たちが幼い日々を過ごしたなつかしいガリラヤの地での思い出にまで思い至っていた。“ガリラヤに行けば復活のイエスに出会える”という天使の言葉を伝え聞いたペトロの喜び。本来あるべきところで、本当の自分が本来のたまもので生きる事が、復活のイエスを見る事に繋がる。野次馬のような不特定多数の人々には、復活のイエスの姿は見えないのだ。私たちもこの世で出会う絶望に終わってしまうのではなく、わたしのための約束の言葉、“ガリラヤで復活のイエスに会える”、によって、新しい命に生かされていこうではありませんか。

 

 

 


行事予定

5 月 行 事 予 定

1();M.T,兄納骨式

5();からし種編集印刷発送作業

   6();ぶどうの会

   9();キリスト教を学ぶ会

   12();幼稚園保育参加日

   13();定期会員総会

   15();関東地区教職者会

   18();幼稚園親子遠足,幼稚園協会戸塚支部園長会

   19();湘南とつかYMCA運営委員会

   20();昇天主日,役員奉仕者就任式,定例役員会

   23();幼稚園お誕生会

   24();ルーテル学院評議員会

   25();H.K.兄納骨式,幼稚園年長組お芋苗植え遠足

   26();横浜YMCA総会

27();聖霊降臨日,神奈川分区会

   30();キリスト教を学ぶ会

   主日予定

月 主 日 予 定

   日 復活後第4主日        

       詩 編22:26-32    

       使徒言行録  8:26-40 

       1ヨハネ   3:18-24  

       ヨハネ   15: 1-10  

       説 教 『豊かに実を結ぶ』    

       教会讃155 374 470 256 575(21)

 

   13日 復活後第5主

       詩 編98

       使徒言行録 11:19-30

       1ヨハネ   4: 1-12

       ヨハネ   15:11-17

      説 教『あなたがたを友と呼ぶ』

      20 498(21) 345 438

 

20日 昇天主日           

       詩 編133          

          使徒言行録  1:15-26  

        1ヨハネ   4:13-21   

          ヨハネ   17:12-19  

          説 教 『真理によってささげられた者』 

111 346 324 259(14) 113    

 

 

27日 聖霊降臨日

       詩 編89:2-6

          エゼキエル 37: 1-14

        使徒言行録  2: 1-21

         ヨハネ   15:26-16:4a

            その方がわたしについて証しをなさる

122 116 378 250 118

 

 

今 月 の 聖 句

わたしがここにおります。

      わたしを遣わしてください。

                           <イザヤ6:8>

 



   教会の歩み



4月の教会の歩み

 

・1日()は受難主日でした。礼拝後は、定例の学び会が行われました。その後、ぶどうの会も開かれました。また新年度の教会学校の活動は、小学科以上がこの日から再開されました。

・2日()はキリスト教保育連盟神奈川部会役員会で牧師は清水丘教会にまいりました。

・4日()から新年度の聖書研究会が再開されました。

・5日()は戸塚小学校の入学式に牧師は出席しました。

・8日()はイースター礼拝でした。礼拝後は二階ぷれいるーむにて持ち寄りの祝会も行われました。

・9日()は幼稚園では2012年度第一学期始業式が行われました。

10()幼稚園では第63回入園式が行われました。

13()は幼稚園協会戸塚支部園長会が開かれました。

14()は教会学校イースターエッグ作りが午後2時より行われました。

15()は朝9時より、教会学校のイースター礼拝と、前日作ったイースターエッグのハントゲームが行われました。またこの日より幼稚科の新年度の活動も再開されました。また礼拝後は、定例の役員会が開かれました。

17()は午後7時より神学教育三者協議会のため、牧師は東京ルーテルセンターにまいりました。

22()は礼拝後、教会学校教師会が開かれました。また午後6時より宝蔵院会館にて故S,K,姉前夜式が、また翌23()午後1時より告別式が、それぞれ清水牧師により執り行われました。

25()は幼稚園では4月生まれのお誕生会した。また午後3時からは、日基教団清水丘教会にてキリスト教保育連盟神奈川部会新任教師歓迎会が行われました。

29()は礼拝後、定例の大掃除が行われました。

30()は大船ルーテル教会60周年記念式が午前11時より開かれ、当教会からは14名が出席しました。



  教会行事の写真


  以下は2010年4月3日戸塚ルーテル教会員有志による、納骨堂の芝張替えの写真です




   
     作業の様子

    

     
       張り替えられた芝の様子



   
     作業後のひとやすみ


         



     
        桜の花が満開でした



以下は2011年2月11日戸塚ルーテル教会宣教開始記念講コンサートの写真です

      

       市岡裕子さんがつらかった思い出を語ります


   





     

     子供の時、電話をかけた思い出






     

本場ニューヨークのハーレムから直輸入のゴスペルソング(アメージング・グレース)の熱演

   

     花束贈呈


     

     

     CDと著書の即売会とサイン会



外は寒く、雪が降ります

 

クルマにどんどん積もっていく雪

SennkyouKaishiKinennConcert2011_7

 





  以下は2010年2月11日戸塚ルーテル教会宣教開始記念講コンサートの写真です

  
   
礼拝堂でコンサート


  
     
岩淵由美子先生のトーク




     

     礼拝堂の様子




    

        

岩淵まこと先生のギター





     
     
     観客席の様子




  

2010年 4月4日戸塚ルーテル教会イースター祝会

   
    持ち寄り食事会

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