テキスト ボックス: 『五教章』の説く究極の真理(=円教・別教一乗)の内実
――般若教思想・唯識思想による解明――(島村 p)

(本稿は『善通寺教学振興会紀要』(第11号 平成17年12月)に掲載したものである)

 

 法蔵は『五教章』において、大乗教を判釈して、華厳経を基本とした別教一乗(円教)なる最高と称する教えを説いた。しかし、円教の内実は、法蔵が低きに置いた三乗と比べて、どのように勝れているのかは、必ずしも明確ではない。本稿は、この点を、『五教章』に限定してそこに説かれている内容を明らかにしようとするものである。尚、華厳思想全体に渉ってこれを検討するのは、現在の筆者の手にあまるので、他日を期したい。尚、「真如随縁」については、別稿に詳述したので本稿では取り扱わない。テキストは鎌田茂雄校訂本『華厳五教章』大蔵出版昭和54年5月によった。特記なき数字は同書のページを示す。引用文の 『華厳経』における典拠は主として同書に依った。

 

1.「十玄門」の検討

『五教章』は、現象界・個物世界の真実のあり方(=真如・法界縁起[1])を説明するのに、「十玄門」をもってする。それが、原理といえるものなのかどうかは、筆者には今のところ確定的理解にまで至っていないのであるが、それを理解する準備としても、その内容を以下に検討する。

A 総説

「十玄門」[2]とは、華厳教学の中心思想(木U510)をなす法界縁起の内容である。それは、現象界の全てを、10種類に分類し、それぞれが他の全てを互いに含んでいるものとし、その理由を「十玄」で説明しようとするものである。先ず、10種類(十義)に分類したのは、華厳経においては、10は全てを表すからであり[3]、具体的には、一切法を、教え(教)とその意味(義)、原理(理)と事物(事)、理解(解)と実践()、因と果、人と法、区別(分斉)と個物(境)・行者の境位、師の説く法とそれによって弟子が開発する智慧(以下略)、等として10対20句(268)に分類したもの(これら夫々の意味は鎌田X108109に平易に説明されている)で、いわば、五位百法、五位七十五法のミニ版とでも言うべきものである。分類それ自体は如何様にも可能であるから、各個別項目はそれ程重要な意味は無いであろう。ここで重要なのは、「此れ等の十門を首として、各々が一切の法を摂め入れるから、無尽が成立する」[4]108と記述されていることである。つまり、十のそれぞれが互いに含み合って、結果として一切法を相互に含んでいる、ということである。これは、般若経で云う・悟り・真如において虚妄分別が消滅したこと(筆者はこれを第一真理命題と呼称するー島村L参照)による・<個物が消滅した・平等一相無相なる空の公理[5]>を、そして唯識説における<境識倶泯なる真実性>(島村c参照)を、指していると考えられる。この空なる事態=境識倶泯なる事態(=真実性)、または俗諦(現象界・事)即勝義諦(法界・理)なる第二真理命題[6][7]、華厳では「事理無礙」(『探玄記』大正35214cでは「真妄交徹」と名づけ、澄観はこれを特に重視したKAV533535)と呼び、また個物Xと個物YZ・・との平等無差別なる事態であるところの・筆者の呼ぶ・第二真理命題の系1=『楞伽経』大正16509cに基づく。『釈摩訶衍論』にいう「雑乱」のこと)を「無尽[8]事事無礙法界[9]」(湯577)「無障礙法界」(K205)と呼んでいるのである。このように呼ぶのは、法蔵の華厳思想[10]が、第二真理命題(現象界=真如)における・現象界と真如のうちの、現象界・個物の側面を重視して真理を説明しようとするため、般若経のように<個物の消滅・無相(=空)という表現>を使用せずに、同じ事態を<個物・事Xと個物・事Y,Z・・との相即相入同体異体[11]=事事無礙(2455456)、として説く[12]>からなのである。この個物を消滅させずに個物Xと個物YZ・・との平等無差別なる事態を筆者は第二真理命題の系1(=『釈摩訶衍論』の「雑乱」)と呼称しているのである(島村L参照)。これを『五教章』245は「毛孔に刹海を容るる事有ることを得」245と表現する。

かかる事態を「一と多との関係」K213から論理的に説明することの試みであるところの・「十玄門」、を以下に見ていく。

 

B 各論

(1)同時具足相応門269

これは、以下の九門の総説であって、具体的には次の九門に示されるのだが、ここで如何なる事態を指しているのかは、イメージしにくい。先ず、「海印三昧2.1)に詳しく説明されるによりて炳然として・・顕現し269とあるのだから、当然悟り・真如における後得智なる世俗世間=個物、の成り立ちの説明である。悟り・真如においては、中観・唯識的にいえば、<虚妄分別が滅して、その結果個物が認識されず(第一真理命題)、全てが、時間・空間等の・個物の属性、を失っており、平等無差別なる一なる事態>(空の公理[13]=根本無分別智が成立している筈である。華厳では、この事態を後得智=一切種智、対象なる個物、の側から説明する。そこでは根本無分別智も成立しているのだから、平等なる空の公理に基づいて、<@全ての個物(=上記の十義)は他の一切を具足し自他の区別はなくなっており、A時間的始終も空間的前後の区別も成立せず[14](第七および第九定理)、B全体が一なるもの(一縁起)として同時に成立していることになる。さらにCこれを中観・唯識的に表現すれば、凡夫が有と意識している個物は、実は名前のみに過ぎず、自性あるものとしては存在しないのだから、そこに後得智(俗諦智)によって個物を仮設しても、それらが、互いに障礙したり、個物間の序列順番を保たないで、融通無碍であって混乱することはない>、ということになる。つぎの、第二門以下についても、それらは後得智によって仮設された個物の一種であるから、上記@〜Cの融通無碍なる事態が成り立っていると解釈されている。

KUは、以上の事態を示す例として「入法界品」の<善財が、普賢の一一の毛孔をみると、そこには皆、一切三千世界の全てがあり、過去未来の一切世界が見え、一切の衆生、一切の菩薩が見え、仏菩薩の言音を聞く>をあげる。分かりやすい例である。

2)一多相容不同門277

ここからが各論で、これは「一と多との全般的相互関係」を説いたものだが、実質的には(1)と同じ事態である。つまり、上記Aに記した十義(=一切法)のうちの一つは他の九義全体(=多と表現されている)を含み、その多はその一を含むとする。これを注11でみたように俗諦なる数字の例で説明し、1は、2,3・・を前提として成立し(これを12,3・・を含むと表現する)、2,3・・の多もまた1を前提として成り立っている(=1を含む)とする。教証[15]としては「一仏土をもって十方に満ち、十方を一に入るるに亦余なし」(『華厳経』大正9414b一部改変)を挙げる。これに対して中観・唯識では、これを<悟り・真如においては数・量が不成立(第十定理)>として説明できる。しかしこれに続く『五教章』の「[一と多とは]本質(体)−110−は同一ではない」277とする説明は問題である。はっきり言えば、中観・唯識立場から言えば誤りである。上記の、『華厳経』大正9414bの例は、第十定理で説明がつくが、最後の「[一と多とは]本質(体)は同一ではない」とする説明は中観・唯識的には俗諦の説明であって、悟り・真如の説明としては、そもそも一切は平等・無相であり、随って数・量が不成立なのだから(V172L.30~31V173L.46、『摂大乗論』の十一識―長尾a276―)「[一と多とは]本質(体)は同一である」はずである。湯、SKUはこれ(=同一ではない)を当然として、誤りとはみていない。筆者には、この後者が、法蔵・華厳思想の発見した新たな正しい原理とは到底思えない。

3)諸法相即自在門278281

これは注11及び下記2.3)で説明しているものと同一であって、「一即一切一切即一」「円融自在無礙」278、「円融法界無尽縁起」279、「一乗円極自在無礙法門279、「互為主伴」280のことで、筆者の言う第二真理命題系1・「雑乱」のことである[16]。即ち、悟り・真如においては一切が無相・空なのであるから<始めと終わりは同一>であり、「始めを得れば即ち終りを得、終りを窮めれば方に始を(きわ)279のであって、それ故、「一地に在り普く一切の諸地の功徳を摂」して279―『華厳経』(大正9395b)、楞伽経(大正16509c)―初発心の菩薩は即ち是れ仏278『華厳経』大正9-452であり、「[彼は]三世の仏境界と等しく、・・所化の衆生も皆悉く同等」[17]280『華厳経』大正9-452なのである。また「一念に[菩薩は]・・一切衆生と与に皆悉く同時同時に作仏[18]280第二真理命題系2)するのであり、「因果同体」280(悟り・真如における因果律が不成立なる第八定理)であり、「因陀羅微細九世一世等、普く諸位に通ずる」280時間の無なる第七定理)のである。

ここで重要なテーマである「一念[19]成仏」[20]に触れておく――既に鎌田U96以下、木U572以下で智儼の『一乗十玄門』における同趣旨の論述が詳細に論じられているので、これを参考にしつつ筆者の見解を以下に記す。木村博士に依れば『六十華厳経』における「一念」は、時間の「瞬間」の意味としての用例が多いという。第一にこの意味に由れば、「一念成仏」とは瞬間的に悟ってしまうという意味になる。これは、第二真理命題系1・「雑乱」によって説明される。即ち、悟り・真如が実現している事態に於いては、時間が成立していない(第七定理)のだから<始めと終わりは同一>である。従ってそれは「始めを得れば即ち終りを得、終りを窮めれば方に始を(きわ)む」279ことであるから、<始め=十信・初発心>において、一瞬のうちに悟ってしまう(=信満成仏・初発心時便成正覚)という意味となる。しかし、よく考えると、悟り・真如が実現していれば、そもそも<一瞬という時間そのものが成立していない>(時間の無なる第七定理)のだから、このような論述は単なる戯論であって、真如の記述ではない筈である。現に智儼自身が「此依俗諦念也」(『孔目章』大正45585c木U589)と説いている。但し、この念をsmRti(憶念 )と解すれば、「一念」は<一度だけ[仏・悟り・真如・教を]思うこと>となる。確かに、悟りという<仏教教理体系における・事態>は、仏教教理と関わって初めて設定されるものであるから、この意味の「一念」が必要であるということは、俗諦ではあるが論理整合的に成り立つようにも思える。しかし、勝義諦・悟り・真如・覚者においては、そもそも全ての行者は初めから仏として成立している(第二真理命題)のだから、厳密に言えば、この「一念」も不要であるはずである。智儼はこれを意識して、「無念疾得成仏『孔目章』大正45585c木U589)として説いたのではなかろうか。勿論かかる事態は、行者に悟り・真如が実現した時にその行者にのみ実現する事態であるから、智儼は「一人の成仏が一切の人の成仏(「一成即一切成」=<一人の行者が成仏すれば、[その覚者には、]一切衆生が覚者であるという事態が実現する>島村bに詳述―『五十要問答』大正45−519c〜520a木U584)」第二真理命題系2)と説いたと考えられる。

4)因陀羅[21]微細境界門286

<これは、下記の喩えによって説明する点が上記3と異なるが内容は同一である>286

「一微塵の中にそれぞれ数限りない仏がおられ、その仏たちがそこで説法しておられる。一微塵の中に、無量の仏刹、須弥山、金剛囲山、世間が、せばめられることなく現じている。一微塵の中に、三悪道・天・人・阿修羅の世界があり、それぞれ報いを受けている」『華厳経』大正9564a,「一切の仏国土の微塵に等しいほど多くの仏たちが、一つの毛孔に座し、その仏たちには皆、無量の菩薩たちがつきしたがい、それぞれ衆生のために普賢の行を説いている。また、無量の国土が一毛の中に存立している。仏たちは・・すべての世界を満たし、一切の毛孔に自在に現れている」『華厳経』9408a,等と説かれる。

5)微細相容安立門288

一念の中に、始終・同時・前後・順逆等の一切の法門を具し、・・同時に・・顕現する288、「菩薩は一念のなかに兜率天より神を母胎に降し、乃至舎利を通流し、・・諸衆生等、一念の中に皆悉く顕現す」289『華厳経』大正9666、「一塵の内に微細の国土あり、一切の塵等悉く中に住す」289『華厳経』9410と説明する。即ち時間の無なる第九定理と、小に大が入り、一に多が入る「雑乱」のことであろう(但し湯598は後者のみの意味とする)。3の一形態であろう。『五教章』は4は「何重にも重なり、隠れたり映じたりして互いに現れる」木118ことであるのに対し、5は全てが同時に「頭を並べて(=一斉に。『遊心法界記』大正45646b「像即水而湛然水即像而繁雜。歴然前後。終始難源。宛爾繁興寂然無相。齊頭頓現。隱顯難知。互入無羈。鎔融絶慮」)はっきりと現れる」(同)こと、とするが、両者に原理的差異があるとは思えない。

6)秘密隠顕倶成門290

「こちらで瞑想に入り、あちらで三昧から起ち、眼において瞑想(正受)に入り、見えるもの(色塵)において三昧から起つ」290118『華厳経』大正9438bc、「男子の身において瞑想に入り、女人の身において三昧から起つ」同『華厳経』大正9438、「一微塵において瞑想に入り、一切の微塵において三昧から起ち、一切の微塵において瞑想に入り、一毛端において三昧から起つ」同『華厳経』大正9439a、と<瞑想への入出が同時に秘かに行われること>である。「十方世界に・・往復し出入し衆生を度す」『華厳経』大正9−438、「十方世界の中において、一瞬一瞬(念念)に、正覚を成じ正法輪を転じ、涅槃に入り、現に舎利を分かって衆生を度することを示現す」291『華厳経』大正9434bc、と無時間なる第七定理、無空間なる第九定理、利他行・後得智としての第四真理命題のことと思われる。しかし、「秘密隠顕」というのだから、これに続いてあげられる「一銭と二、三・・銭の関係」の喩をみると、湯600が清凉の『玄談』をひいて、例えば<一人の男子が、同時に子・兄・夫でありうるが、親との関係においては子のみがれ、兄・夫たることはれてしまうこと>(KU244では金獅子における金と獅子との関係を挙げるがこの解釈も同趣旨、坂915の説明も同趣旨)としているように、こちらの解釈の方が妥当のように見える。しかし、この説明では注11でも触れたように、俗なる個物の関係の説明となってしまい、悟り・真如の記述とはいえないし、上の『華厳経』からの引用文も、このような俗諦の記述ではない。此れに関しては法蔵の立論は悟り・真如の説明としては成功していないのではなかろうか。

7)諸蔵純雑具徳門293

これは、新十玄では、広狭自在無礙門に改められているもので、KU245以下に詳しい説明があるが、湯、木、S、鎌田等をみても文意は分かりにくい。要すれば事事無礙のことであろう。即ち、<「人に注目すれば、一切の個物は人[と平等・不二]であること」(空の公理)を「純」と定義し、 [従って後得智により個物世界を現出しても、その個物レベルで見れば、「純=悟り・真如」なる事態においては]人以外の全ての個物は人に含まれている(=不二)ということになる。この事態を「雑」と定義している>(第二真理命題系1『釈摩訶衍論』はこれをヒントにして「雑乱」を案出したのかもしれない)。この純と雑の二面が「互いに妨げない点が「具徳」といわれる」(智儼の『一乗十玄門』における解釈―木U541

8)十世隔法異成門294

悟り・真如においては時間が不成立(第七定理)であるから、<一瞬(一念)の同一時点に諸法が集まり>(=同時)、一方、俗諦においては<九世に拡がっており>(=別異)、両者を通じてみれば、<同時・別異が離れずに具足して顕現している>鎌田295、と表現できる。かかる事態を『五教章』は十世[22]隔法異成門と名づけているのである。これを示す用例を『華厳経』から次のように引用する。「或いは長劫を以って短劫に入れ、短劫を以って長劫に入れ、或いは百千大劫を一念となし、或いは一念を百千大劫と為す。或いは過去劫を未来劫に入れ、未来劫を過去劫に入れる」『華厳経』大正9572。「一微塵の中に普く三世の一切の仏刹を現ず・・一微塵の中に三世の一切の仏の転法輪を建立す」601a[23]。要すれば、悟り・真如における時間の不成立なる第七定理のことである。これを、俗諦における<九世に拡がる>(=別異)と絡ませたため、「異成」としたのである。

9)唯心廻転善成門296

これについては、別稿の『華厳『五教章』における「真如随縁」の意味』で論じたので、ここでは論じない。問題のある記述であり、『探玄記』では削除されたものである。

10)託事顕法生解門297

『五教章』の原文は難解であるが、S276に簡明に記述されている。即ち、これによれば、「託事(事物に託す)」とは<比喩を用いること>で、「顕法(法を顕す)」とは、<比喩に用いられた事物そのものが、そのままで法界・真理を顕わしているということ>である。一切の事物は比喩として用いることが可能であるから、一切の事物は、そのまま真理・法界を表していることを意味する。これは俗諦即勝義諦なる第二真理命題そのものである。『五教章』は<三乗における比喩は真理の喩えとして或る事物を用いており、その事物は真理そのものではない>とする。確かに、当該の比喩されている個物そのものに限定して言えば、その通りかもしれぬが、「世間は涅槃と異ならず」『大智度論』大正25198a等、<あらゆる事物が真理そのもの>とする記述は、法蔵の謂う三乗に、極めて多く説かれているのが事実である(島村bのA資料に139例あげてある)。

 

『五教章』は事事無礙を説明するのに、上記に続いて「六相円融」をもってするが、これを説く目的(教興の意)は、「法界縁起、[即ち]無尽円融自在、相即無礙容持、因陀羅無窮、一切惑障一断一切断、一成一切成、一顕一切顕、普別具足、始終皆斉し、初発心時便成正覚、因果同時相即自在」307として第二真理命題系1説明することであると述べる。しかし、「六相円融」を説明するに際して、<全体(『五教章』があげる例は家)と構成部分(同椽、瓦等)との関係を説明する原理>としており、これでは『五教章』の意図(法界縁起、無尽円融自在、相即無礙容持、因陀羅等――これまで述べてきた真如の各種の内実―の説明)に反して現象界の事物・俗諦を説明するもの[24]となってしまっている。たとえそれが、後得智・一切種智の説明としても個物は俗諦の仮設なのであって、本稿は『五教章』に説かれる悟り・真如の解明を目的としたものであるから、俗諦の説明であるこの部分については今回は省略する。但し、悟り・真如における個物の無相・平等の解明を試みたものとの理解も可能と思われるので、その観点からの解明は、筆者には未だ十分な考察が進んでいないので、これに関しては『探玄記』の<「十玄門」の理論的根拠としての十種の理由>大正35−124a以下と併せて他日に論じることにする。尚、円融無礙・法性融通については坂920以下でも検討されているので、稿を改めて論じたい。

 

2.究極の真理(=円教・別乗一教)の内実を指し示すその他の術語とその解釈

最高真理を指していると見られるこのほかの術語は多くある(但し、内容説明は『五教章』自体には欠いている場合が多い)。主要なものは以下の通りである。

1)海印三昧51166,182191269――以下の説明の多くは『五教章』自体にはない―「劈頭の「今将に如来海印三昧一乗教義を釋せんに、略して十門を作る」と」して、「法蔵は、ここで一乗教義全体の一般的基盤として海印三昧をおさえている」木V92とされ、その内実に対する言及は無い。

@「原語も意味説明も一様ではない。・・仏の深い瞑想を表す語のひとつ。・・『華厳経』自体には・・数箇所に出てくるだけであり、いずれにも・・明確に規定されているわけでもない。・・「海印」の原語としても、sAgara-mudrA(海の印。海がもののすがたをはっきりと映し出すこと)とsAgara-samRddhi(海の富、あるいは海の栄え――『十地経』の場合・木V92)の二種が推定される。・・このように捉え、確定したのは、智儼―法蔵の師資なのである。」木3111

A一切の事物が鏡中における色像の如く、仏の心中に顕現するという深い禅定の境地。大海が普く諸事物を映し出すのに喩える。」52以下に詳しい説明あり。

B「仏陀の妄尽安住の大悟徹底の真智中には、宇宙のあらゆる真実相が、そのまま印現し、是れが同一乗の教義と名づけらるる・無礙無尽の真実相であって、之を海印三昧一時炳現の法とも云って居り、・・海印三昧の体は正しく仏陀大悟の真智で、この真智たるや、もと真如本覚の理体と無限無辺の智用とが、理智冥合して平等不二となったもので、この真智の上に炳現したものが無尽の真実相である」湯3637。『探玄記』四、「妄尽還源観」、「遊心法界記大正45646b以下」に詳述―湯37。 「海印とは・・海は深広無涯であり、印は印現であって、深広無涯の海は、風止み波静かに水清きときは、宇宙の万像・・が、一時に印現するように、無明の風止み、妄識の波生ぜず、清浄なる仏陀大悟の真智海には、無限の時間、無辺の空間における一切法が、皆一時に炳現すると云うのである」湯37(これと略同文は、法蔵『妄尽還源観』大正45637bcにある)。この他の・海印三昧に言及する各種の論は、鎌W43450に詳しい。

 

以上の記述は、大谷光真の研究(『印仏研』232)を踏まえた木村博士による木U489以下(長くなるので引用は避ける)での ・『華厳経』による詳しい解明[25]と略同一である。これを筆者なりに要点を整理すれば次のようになる。

@三昧であると同時に、そこに於いて実現する仏の悟り・真如のこと[26]木U493 『華厳経』大正9-627[27]626[28])、Aこの世界のあらゆるもの(個物)が三昧の中に、はっきりと姿を現すこと(同)、B衆生利益の為に、衆生を教化し衆生を度すはたらきであること(大正434c[29]574c[30]、Cつまり後得智なる一切種智であること(同)、である。ところで、悟り・真如(根本無分別智)においては、個物は無く(=無相なる空の公理)、作用も無い(第六定理)。これらは、俗諦の世界においてのみ認められるのであった(島村L参照)。また、仏のはたらきは、この俗諦世界においてのみ作用する。従って、上記の如き内実を持つ海印三昧とは、まさに大乗仏典一般に広く説かれている・十方世界に現在している仏・の働き・即ち利他行なる後得智(法界等流の説法[31])・一切種智のこと[32]と理解される。鎌田茂雄博士も、鎌W429で、<海印三昧を後得智のこと>と明言している[33]。ここで重要なことは、この後得智が三昧の中で働くということである。これは『円覚経』の説くところでもあるが(拙論『円覚経に説かれる真如の内実』参照)、これによれば<後得智とは、仏が三昧のままに衆生のために神通力によって法を説くこと>となるが(これは別稿に説いたように、『五教章』における真如随縁の内実の一つでもある)、かかる意味での後得智が 『華厳経』『円覚経』に特有のものなのか、通仏教のもの(仏は悟り・真如を実現した後には行住坐臥の全てにおいて禅定を離れないとの前提に立てば通仏教といえる。―「[釈迦牟尼は]心常に定に在りて、(すべ)て散乱なし」『涅槃経』大正12528b。)なのかは、今後の研究課題としたい。尚、このように理解された海印三昧と同一事態が,『勝天王般若経』では、<悟り・真如における真俗双運>として説かれているが、これに付いては別稿をもって近く発表の予定である。

 

2)性海果分是不可説64,183――以下の説明は『五教章』自体にはない。

@「果の領域としての真理そのもの」木7

A「遮那果人の悟るところで、真理の性源を究めるから「性」といい、その性の深広なること大海の如くであるから「海」という。如来円満の大果のこと。・・不可説である。」64

B「遮那仏大悟の境地であって、万有における本有不改の真実性を究明しており、その無限無辺なること、譬えば海の深広無涯の如くである。不可説のものである。・・果海は・・仏陀の自内証にて・・」湯43〜44と説明される。

以上要すれば、第二真理命題と離言なる第五定理のこと、また、上記湯次は、本有不改の真実性(=真如の実有なる第三真理命題)の事とするが、『五教章』自体にはこの記述はない。

3)主伴具足・無尽の仏法・事事無礙法界・一即一切一切即一748290,98153166,182192328359

@中心のものと随伴するものとが完全に具わり・・」木12 

A「一方が主となれば他方が伴となり、逆に他方が主となれば一方が伴となる如き関係が同時になりたっていること。即ち、主の中に従属するものがすべて含まれていることで、重重無尽の義をいう。」7576

鎌田はまた、「新十玄」の第十主伴円明具徳門の説明276においても、「存在しているいかなる個物も主となり、伴となり、主伴具足している」と、同趣旨を述べ、俗諦の記述の如きであるが、意図するところは悟り・真如における・<個物X=個物Y=Z・・なる事態>これを筆者は島村Lにおいて第二真理命題の系1と呼んだ)であり、これは後に『釈摩訶衍論』が、「雑乱」と呼んだものであろう。――以下本稿では、記述の簡便化のために「雑乱」を用いる

B湯次608609も同様と思われる。同170は「十宗判」の「円明具徳宗」の説明の「主伴具足無尽自在」を釈して、「事事無礙法界の法は、一多相即せる無尽縁起の法で・・主伴具足し無尽自在」としている。また「教起前後・称法の本教」の「主伴具足円通自在」を「法界無礙自在の義」とする。即ちいずれも「雑乱」のことである。

B亀川K104は、「法界縁起の真相は、一言にしていえば一切諸法の事と事が互いに主伴無尽となり相即相入して円融無礙たること・・それは現象の事法が即真如自体に外ならない」とし、つまりは第二真理命題及び「雑乱」のこととしている[34]

また、「新十玄」の第十主伴円明具徳門の説明K247では「主たる一法こそ全法界を占める現成の法である」とし、これを要すれば平等無相の空の公理の内実としての第二真理命題系1を説いているのである。

C斉藤S279は、「新十玄」の「第十主伴円明具徳門」は「諸法の無礙の相を示す」(亀谷KU261も同じくしその内容を、「一即一切、一切一即・・相即相入無礙自在」と説明する)と説明し、「雑乱」のこととして解釈している。D『五教章』83は「主伴具足することを明かすがゆえに無尽の仏法と云う。三乗の一相一寂等の法に同ぜず。」と説明する。文意は、一相一寂(=個物の滅・空の公理)とは異なって飽くまで各個物が、後得智において個別性を保ちつつ、それらが互いに不二平等である事を強調しているようである。おそらく、空の公理は個物の無に重点を置くのに対し、ここでは、第二真理命題の系1の個物に重点を置くからであろう。

D『五教章』328は「性(真理そのもの)海円明・法界縁起無礙自在・一即一切[35]、一切即一・主伴円融」と説く。即ち「雑乱」のことである。また、268の「十玄門」の「同時具足相応門」、および「諸法相即自在門」278のことでこれに「信満成仏」も含めている(「初発心の菩薩の一念の功徳深広にして辺際なし」大正9432c433a・湯584)。また、245では事事無礙法界を「相即相入同体異体」「大縁起陀羅尼法」(注11参照)として説明している。

 

以上要すれば、平等無相の空の公理と「雑乱」を個物の側に力点を置いて説明したものと言ってよいであろう。

 

4)該九世十世166時因陀羅186

@湯184は、この「教起前後・称法の本教」の所説の「該九世十世」を「十玄門」の「十世隔法異成門」のこととするが、「一塵の中に於いて三世の一切の仏事を建立す」(華厳経大正9601a166を引用するように、要すれば、無時間なる第七定理のことである。湯210は、無時間なる第七定理が成立する理由を見事に、『華厳旨帰』に「時に別体なし。法のうえに依って立つ。法既に融通す。時もまたしかなり」とあると指摘している(=『摂大乗論』の十一識のうちの時間が、凡夫の虚妄分別の似現にすぎぬから無である(長尾a27622)、とするに同じ)。尚、十世とは<過現未の中の各三世とそれらを統合する一世を加えたもの(3283)。無時間なる第七定理は以下の各所に説かれるが、398では「一切の時間はみな不確定である。何以故、諸劫は相入するから、即応するから、・・諸世界に行きわたるから、そこでそれぞれその場に応じて、[成仏するまでに]或いは一瞬間(=一念)とされ、或いは無量劫などとされる。しかし、いずれの場合も、時間的法則に相違しない」179とされる。

A『五教章』は「時因陀羅」を、「一切時を摂し・・前後際に通じて・・」186と説いており、これは無時間なる第七定理のことである。鎌田187は「重重無尽に他の一切の時と相即している「時」をいう」とする。尚、「十玄門」では「諸法相即自在門」281で「一念与百千劫無有異」と説明する。

 

5)因陀羅微細境界166,182194197

@湯184は、この「教起前後・称法の本教」の所説を「十玄門」の「因陀羅網境界門」即ち「無尽の義」とするが、要するに平等無相の空の公理または「雑乱」のことである。

A『五教章』は、これを「施設異相」の「事異」197において、「一一の塵中に皆、法界一切の差別の事を具足して、因陀羅微細成就せり」と説かれ、要するに「舎、林、地、山等の事、有るに随って皆是法門(=行、位、教義=密教の法身説法)」197なのである。

(6)巻舒自在166

@「舒れば則ち九世を該ね、巻けば則ち一時に在り。此れは巻即舒、舒又即巻なり。何以故。同一縁起の故に。無二相の故に」166と説かれているように、前半は、無時間なる第七定理のことで、後半は、悟り・真如における因果関係が不成立なる第八定理のこと(悟り・真如に於いては因果律が成立しないこと=同一縁起、無二相)と筆者は考える。

A但し、湯1867は、「巻即舒、舒又即巻」を無時間のこととするものの、「同一縁起」を「万法互いに相由り相成ずること」、「無二相」を「諸法無自性のこと」とする。しかしこれでは、後半部分は俗諦の記述となってしまうのではなかろうか。

B尚、悟り・真如における因果律の不成立については、『五教章』359「因果無二」「因果同体にして唯、一つの性」と説かれている。378にも「諸位及び仏地等相即」(「雑乱」)を「因果無二(第八定理)、始終無礙(第七定理)」として説いている。

(7)一処摂一切処187

「施設異相」の「処異」に「蓮華蔵世界海・・摂七処八会・・及び余の不可説不可説の世界海・・此の中に在り。一処に一切処を摂するを以っての故に。」とあるように、悟り・真如においては空間が無いという第九定理のことである。此の故に「仏はさとりの樹[の下]から動かずに、遍く六欲天に昇られた」55ということも「此の蓮華界は・・諸塵に周側(=遍満)する」(湯212)ことも可能なのである。また、「一世界を離れず、一座処を起たず(無空間なる第九真理命題)して、而も能く一切無量の身の所行を現ずる」382「一念の中に十方世界において(無空間なる第九定理)一時に成仏し(無時間なる第七定理)、法輪を転ずる(第四真理命題)」382と説かれる。

 

(8)遮那十身仏・・尽三世説189

215は「別教一乗の教主は、三世(器世間、衆生世間、智正覚世間―悟りの世界―)に融じて具足している法身で・・要するに、宇宙のあらゆる事法が教主(=密教の法身説法)であり、またあらゆる音声が説法であって、・・」と説明するように、これは、俗諦即勝義諦なる第二真理命題のことである。

(9)此の一方、一事一義一品一会を説く時、必十方一切世界を結通192

無空間なる第九定理のこと

(10)一一位中摂一切位193379

此れは『楞伽経』大正16509の「十地を初地となし、初地を八地となす」のことであって、後に『釈摩訶衍論』大正32−604cがこれを引用して「雑乱」(第二真理命題の系1と名づけたものそのものである(尚、『楞伽経』の引用は『五教章』自身377頓教の行位として引用される)。敢えて言えば、ここで、「各位が他のすべての位を含む」として、一歩進めたと言えるかも知れぬが、若干の程度の差であって原理的な差ではない。これは、次の「行異」194で「どの菩薩であれ(随一菩薩)、信等の六位(=十信、十住、十行、十回向、十地、仏地)を具す。一一位中の所有の定散等の差別の行相並びに一時に修す。――以上「雑乱」及び無明(菩薩)即仏なる第二真理命題――東方の一切世界の中にして常に定に入る(=仏の常定――これは島村Lでは定理として挙げなかったが、悟り・真如とは定において実現している事態を指すのだから、悟り・真如を実現した仏が常定であるのは当然のことなのである――)等、西方の世界の中に住して常に仏に供養する等の如し(無空間なる第九定理)。・・身を分かたず一時に皆遍満し、一念に皆遍修す(「雑乱」と無時間なる第七定理)。一行即一切行(「雑乱」)・・=因陀羅網」と詳説されている。此れは、「十玄門」でいえば、「一多相容不同門」277であろう――『五教章』では、「一仏土を以って十方に満ち、十方を一に入るるに亦た余無し。世界の本性も亦た壊せず。」(『華厳経』大正9414)のこととする(ここでの『五教章』の説明に問題があることは1.(2参照

11)「菩薩種姓甚深広大。法界虚空と等しい」359大正9−444c

法蔵は此れを解釈して、「菩薩の資質は・・因果無二であり―(6)参照―主体と器世間(依正)の全体に通じ、三世間(器・衆生・智正覚の三世間)を尽くし、一切の真理と事象、理解と実践などあらゆる教えの門を収めており、本来完成しており、已に成就しおわっている」と記す。つまり、一切の俗諦なる現象界(=菩薩)はそのままで悟り・真如である、とする第二真理命題のことである。

12)随得一位得一切位378

これは、前述の「雑乱」の「十信より乃し[十住・十行・十回向・十地]仏果に至るまで、六位平等」ゆえに、この中の一位を得れば一切位を得る」378(=「初を得る時に後を得ざることなし」383)とする。これが成立する理由として、悟り・真如における「@六相[円融門]――筆者はこれは俗諦と考える――、A主伴、B相入、C相即、D円融」を挙げるが、要するに空の公理、「雑乱」のことである。つまり、『華厳経』大正9432c〜441の「十信満心勝進分の上に一切の位及び仏地を得る」[36]−信満成仏のこと(310)−を引用し、「一一の位の上に於いて即ち是れ菩薩即仏なり」(第二真理命題、「雑乱」)とする。尚、これらの記述は当然のことながら、悟り・真如が実現した後の覚者によって悟られている・<悟り・真如なる事態の記述>であって、俗諦の凡夫が、十信を満たしたからといっても、未覚である限り<凡夫=菩薩=仏>なる事態が実現することは決して無いこと(=仏教教理は認識論的に理解すべきこと)に十分注意すべきである。このことを470「普賢の眼を以って一切衆生を見るに、皆已に究竟す」(六十華厳大正9624a、)を引用して強調している点は重要である。「十玄門」では「諸法相即自在門」278に該当し、また「初発心の菩薩は即ち是れ仏・・所化の衆生も皆悉く同等なり」280島村bでこれを第二真理命題として詳細に論じた)「一念に・・一切衆生と与に皆悉く同時同時に作仏す[37]280島村L第二真理命題の系2に相当しそこでは、悟り・真如においては、仏眼に無明即明なる第二真理命題が実現することと説明したが――八十華厳でも「[仏陀が正覚を成じた時、]十方のあらゆる衆生は一切同時に正覚を成じ・・」大正10240とあるーーここでは、空の公理、「雑乱」によって一得一切得として説明している)もここに入るとする。

13)行用皆遍法界382

信満成仏(=「雑乱」)すれば、衆生利益なる後得智のはたらき(行用)は、皆「法界に遍じ」、「能く一手を以って大千界を覆う(無空間なる第九定理)等・・大仏事を作し、衆生を饒益すること(第四真理命題)は説きつくすことができない」172『華厳経』大正9434c、「一世界を離れず、一座処を起たず(無空間なる第九真理命題)して、而も能く一切無量の身の所行を現ずる」382、「一念の中に十方世界において(無空間なる第九定理)一時に成仏し(無時間なる第七定理)、法輪を転ずる(第四真理命題)」382と説かれる。「施設異相」の「所依異」191において、後得智のはたらきとして説かれた・結果としての三乗教(仏の説法は通常は出定後に説かれるとされるが、華厳では(6)秘密隠顕倶成門見たように、出入同時である)は、円教より低位に置かれたのだが、ここでは、その後得智のはたらきそのものは、時間・空間を超えて作用するとしているのである。

14)仏果常等義480

三教に頻出する<真如の実有>(第三真理命題)のことである。

3。評価

『五教章』は「施設異相」の「所依異」191において、仏の後得智のはたらきの結果としての法界等流の三乗教と、その働きの本体そのもの・働きのプロセスそれ自体としての・海印三昧・所依の一乗別教とを区別し、後者をより高く位置づけた。

思うに、『五教章』の所説の中で、高く評価される点は、下記の二点である。

@「初発心時便成正覚・・衆生も同じ」を、わざわざ六十華厳を引用(1.3)、2.12))して、これを認識論的なる第二真理命題[38]であるとの解釈を示したこと(島村bに詳説

A特に、三乗教では、説かれていないと思われる・「普賢の眼を以って一切衆生を見るに、皆已に究竟す」(これは鎌田470(鎌田471注)=六十華厳大正9624aを引用して、第二真理命題系2を示した[39]こと(これに関連して、「一念成仏」を説いたものの、師の智儼が既に説いていた「無念成仏」を説かないことは、いかにも、もの足りない  

 

しかし、反面に

@現実の諸現象を重視したため能所識の滅なる第一真理命題を説かなかったこと

A後得智を低く位置づけた(191)ためか、これを仏の要件として位置づけなかったこと

B数・量の無(第十定理)を説かず、「一仏土をもって十方に満ち、十方を一に入るるに、亦余なし」(『華厳経』大正9414)を、意図に反して俗諦の説明としてしまったこと(11 1.B(2)――この外、『五教章』はそもそも悟り・真如とは如何なる事態であるのか、を説くものであるのにも拘わらず、数字の説明、同一人が子・兄・夫でもありうることの説明、「六相円融」等においても俗諦の説明を混入させている――

C悟り・真如における諸現象を「相即相入同体異体」「大縁起陀羅尼法」という縁起によって説明しようとする試みは、俗なる事物の相互関係をより深く説明することには成功している。しかしながら、始教である般若経が、<個物なき平等・無相なる事態>を無自性で説明したのと同様に、『五教章』においても、最高真理である事事無礙法界を、縁起無自性を根拠にして説明するにとどまったこと(前記注11

D同じ理由からか、悟り・真如における無作用なる第六定理を説かぬこと(但し、法蔵自身は『起信論義記』において、<真如にははたらきが無いこと>を明言している――別稿『華厳五教章における「真如随縁」の意味』参照)

等が指摘される。

 

しかも重要なことは、上記のように「普賢の眼を以って一切衆生を見るに、皆已に究竟す」六十華厳大正9624a同趣旨は八十華厳でも「[仏陀が正覚を成じた時、]十方のあらゆる衆生は一切同時に正覚を成じ・・」大正10240cとある)を引用して認識論的な第二真理命題系2を説いたこと(2.12))以外には、『五教章』が最高真理として説いた上述の各種の空の公理、第二真理命題等は、全て『五教章』のいう三乗経典に説かれているという事実である[40]

4. 結語

以上の検討の結果から、『五教章』は 『華厳経』の説く・一行者成仏便一切衆生成仏なる第二真理命題系2を説く以外には、三乗教に説かれる悟り・真如の内実以上の高度な内実を説くことはなかった、と言えそうである。また、三乗教においては、悟り・真如における俗諦即勝義諦なる第二真理命題の説明原理である・『摂大乗論』の二分依他性・如来蔵・『大乗起信論』における<中性の一心(真心)>(後には『円覚経』の説く円覚の内実、『釈摩訶衍論』の望別決断・眠士夫悟士夫の同一心相続)の案出に成功したものの、『五教章』においてはこれらを真如随縁(別稿に詳説)と規定した以外には、例えば、平等無相なる空の公理を説明する原理等が、『五経章』を見る限りにおいては、案出されたようには思えず[41]但し、前述の「六相円融」『探玄記』の「縁起相由」「法性融通」等の十由にはその可能性は十分ありそうであるが・・)、主として三乗教に説かれる俗諦即勝義諦なる第二真理命題およびその系1(=「雑乱」)を個物の側から詳しく説明するに止まっている。それにも拘らず円教をこのような最高位に位置づけた理由は、どこにあるのだろうか。

既に、鎌田43鎌田U146以下が説くところによれば、武周王朝の成立に伴って、それまでの唐朝で隆盛を誇った玄奘の法相宗にとってかわる新しい仏教思想の確立が何よりも必要とされていた。そこで、これに応えて、それまでに既に政治権力の完全な統制下にあった仏教[42]が、新しく華厳宗を立教開宗するためには、新王則天武后の認知が必要であった[43]。かかる状況は、現実世界を、いわば価値なき・凡夫の虚妄分別の似現、とみるそれまでに隆盛を見ていた唯識思想とは対照的な・現実重視の俗諦即勝義諦とする・杜順(557640)以来の華厳思想にとって、まさに好機に外ならなかった。

それは、現実の政治そのものである現象世界が、そのまま真実世界であるとする華厳思想(第二真理命題および後得智)によって――実は飽くまで、<悟り・真如においては(=海印三昧によりて炳然として・・顕現した事態としては、1.1)>という限定のもとにおいてなのであるのだが、それを無視すれば――、政治に最高価値を与えることでもあった[44]。そのためには、それまでに三乗教において既に確立されていた・本稿で繰り返し説いてきた・諸真理の内実[45]を、新しい装いを以ってあたかも新しい最高真理であるかのように提示する必要があった。そのために、十玄門、六相円融、真如随縁(二分依他性・

如来蔵の随縁とすれば誤解を生ずることはないが、『不増不減経』の<如来蔵を意味する・

法身>をわざわざ「真如」と言い換えて「真如随縁」とした)等の華厳教学の術語をもって 『華厳経』に依拠しつつ解説したのであった――ということになるのではなかろうか。

――――

鎌田U:鎌田茂雄『中国華厳思想史の研究』東大出版会1978年10月復刊

鎌田V:鎌田茂雄『中国仏教思想史研究』春秋社昭和44年3月

鎌田W:鎌田茂雄「華厳哲学の根本的立場」『華厳思想』法蔵館 昭和5712

鎌田X鎌田茂雄「法界縁起と存在論」『講座仏教思想』第一巻「存在論・時間論」理想社19744

木:木村清孝『華厳五経章』中央公論大乗仏典<中国・日本篇>7巻1989年6月 訳は適宜改変した。

木U:木村清孝『初期中国華厳思想の研究』春秋社昭和52年10月

木V:木村清孝「海印三昧考」『印度学仏教学研究』第五十一巻第二号平成153

:坂本幸男「法界縁起の歴史的形成」宮本正尊編『仏教の根本真理』三省堂昭和3111

島村a「『八千頌般若経』における能所・識別作用の止滅と空()の意味」豊山教学大会紀  要第31号 平成159

島村b:「初発心時便成正覚の論理構造と本覚思想」豊山教学大会紀要第32

島村c:「唯識思想における真理の意味」智山学報 第54輯 

島村n「般若心経の説く空の内実」『豊山教学大会紀要』第33

島村L大乗仏教の発見した真理の内実」印仏研第53巻、及びこれを大幅に加筆した拙論「般若心経の説く空の内実」『豊山教学大会紀要』第33号「附」

高:高崎直道訳 大乗仏典第12巻『如来蔵系経典』「智光明荘厳経」 中央公論社

長尾a:長尾雅人『摂大乗論 −和訳と注解』上下 インド古典叢書 講談社 昭和57

湯:湯次了栄『華厳五経章講義』昭和2年9月(昭和50年5月百華苑復刻版)

K:亀川教信『華厳学』百華苑昭和24年10月

K U:亀谷聖馨『華厳哲学研究』名教学会大正11年7月

M:坂本幸男「法界縁起の歴史的形成」宮本正尊編『仏教の根本原理』三省堂昭和31年所収

N:中村元「華厳経の思想的意義」『華厳思想』法蔵館 昭和5712

RGVratnagotravibhAga mahAyanottaratanntra-zAstra edited by E.H.Johnson  ri atguru ublications ndian ooksentre elhi 1997

T:玉城康四郎「華厳の性起について」『印度哲学と仏教の諸問題―宇井白寿博士還暦記念論文集』岩波昭和2612

V:『八千頌般若経』VaidyaBuddhist Sanskrit TextsNo.4 By The Mithila institute Darbhanga 1960

 

S:斉藤唯信・高島米峰『華厳五経章講話』丙午出版社昭和2年12月

 



[1] 法界縁起はここに説く「十玄門」の他に、澄観@事法界A理法界B理事無礙法界C事事無礙法界の四法界説(『法界玄鏡』大正45672c)が、簡にして理解しやすい。KAV537以下に各種法界縁起の詳しい説明がある。また、坂本幸男M891以下にも詳しい検討がなされている。

また、『探玄記』巻16性起法門、『華厳経問答』大正45610では、同一テーマを「性起」として第二真理命題を中心にして、真理を論じている。――玉城康四郎「華厳の性起について」281309

[2]「十玄門」が華厳思想史において、最初に形成されたのは、智儼の『華厳十玄門』においてである(KAV549)。

[3] 「十数を立てて首と為して以って無尽の義を顕す」269。木村博士に依れば、10を「満数」(『孔目章』大正45587b)として「無尽無量」(同582c)の意味を持たせたのは智儼である(KIU442

[4] 「此十門為首、能各総摂一切法、成無尽」268

[5] これをS236は「万差の諸法も若し其の本体に就いて観察するときは、皆各無差別平等の真如を以って体とする」と記す。公理・第一真理命題等の筆者の用いる呼称については島村L参照。

[6] このような<現象(事)即真如(理)なる事態が実は真如の内実である>、と理解されたのを、筆者は、俗諦(事)即勝義諦(理)・生死即涅槃なる第二真理命題と呼称する。詳しくは島村L参照。

[7] 414で、この事態を「生死の粗細のすがたを区別せず、全体として生死の患いを唯一の領域とみなし、信が完成した後に速やかにその[凡夫の身の]領域を[仏身=勝義諦・真理領域へと――湯355]転換する」木187と分かりやすく説明する。459では「真実に即して説けば、断つべき惑いはない。惑いはそれ自体、本来清浄であるから」木213と説明する。

[8] 法蔵は「無尽」の意味を、@本体に限界が無いことA一各各が一切を摂することB果徳を生み出すことが無限であること、と説く(『探玄記』大正35262a 木U1789)。――ここでの「雑乱」はAに相当。

[9] これをS237は「二者各其相状を異にすと雖も、既に理体を全うして顕れたるもの故、一現象の実体即ち万象の実体なり。・・体に多類なければ(=真如が一なること)、また体に離れざる万象も、また体に随って一現象中に帰在せざるべからず」、と平等無相なる空の公理および第二真理命題系1と同一事態なることを記す。K203は「「理は事に即し事は理に即する」ことが結局、事と事の無礙に即することの深い内面的基盤」とする。K208212に丁寧な説明があるので参照のこと。また、「事事無礙」は杜順『法界観門』の「周遍含容門」に相当する(「周遍含容は、即ち事事無礙なり」『華厳経疏』大正35515a鎌田X119)。

[10] 鎌田Uによれば、<法蔵は事事無礙を重視し澄観は理事無礙を重視した>とされる(同書524548)。

[11]「相即」とは、<個物は無自性空であり仮有>(=空・有)であるから[その自性の観点からは相互に差異は認められないこと(=即・平等)]245545「相入」とは、<個物が縁起する因に有力・無力(=力・無力)があることによって、個物と個物が相入(=同体、平等)すること>245545「同体異体」とは、<個物の属性が各各別で縁起するには他を待つ(=待縁)ことを異体>といい、<その諸縁が個物の因自身の中にあるため、他の縁を待たないことを同体>ということ(245546)で、つまり、異体としての個物相互が同体としてあること。具体例としては、254で『華厳経』大正9465aにより数字の1と10との関係(1は2,3・・10・・を前提とし、23・・も1を前提とする)を挙げる。これによって平等無相なる空の公理および第二真理命題系1を、表現しようと意図したのである。しかし、般若経の立場では<悟り・真如においては、そもそも個物が成立せず、したがって因果関係も成立しない>とする。これに対して、ここでの具体例としての<1と2,3・・10・・との関係>は、俗なるものとしての父と子の関係、と原理は全く同じである。このような、元来俗なる諸現象の縁起(これを大縁起陀羅尼法― 一つ一つの事象が他の全ての事象を摂め保って、限りない縁起世界を作り上げていること・木337―と呼んでいる―)を根拠付ける因果関係を以って個物の消滅した空及び第二真理命題系1を説明することが可能なのであろうか。父と子の関係は、俗なる個物間の相互依存関係を説明するだけで、悟り・真如における父即子としての両者の同一性までは説明できないのではなかろうか。現に、『五教章』は結局のところ相互依存関係(258)・無自性(259)を根拠にして(湯563は、<一によって十が成立するのだから、一は有体で十は無体であり、それ故に>との理解を根拠として)、「一即是十」が成立すると説明しているが、無自性を根拠に平等・無相を説明するのは、般若経が空を説明する場合と全同であって、般若経の場合と同様に十分に明晰な説明とはいえない(それ故筆者はこの、事物の一相・無相・平等なる事態を公理として位置づけた)。――踏み込んで説明すれば、般若経の場合は、<無自性=個物の幻影たること=万物の幻影性ゆえの、幻影である点においての・幻影なる個物相互の同一性=平等・無相=個物の消滅>、ということであろう。

尚、「一法と一切法の相即」を説く 『華厳経』の記述は大正9647c、423a,465a等(木U149)。

[12] 以上のように、般若経は、平等・無相を個物の無から説明するのに対して、『五教章』は個物の側から説明するために、『摂大乗論』の偈を借りて、空・有、[有]力・無力、待縁・不待縁によって「因の六義」を設定して、注11の相即相入同体異体を説明したのである。230以下 

[13] 『華厳経』の「平等・一相・無相」は大正9423a,465a等。

[14] ここで述べたように般若思想では個物の平等・無相なる空の公理から直接、時間=個物の平等・無相が導出されるが、木U254では、吉蔵が、無自性から時間=個物、の平等・無相を導出することを解明している。

[15]智儼『一乗十玄門』大正45517bは、教証としてこれに加えて 『華厳経』の「一切衆生身、悉入一身。於一身、出無量諸身」大正9607c、「一切諸世界、令一刹中。世界不積聚、亦復不離散」609bを一部改変して引用するー木U542.。尚大正10182aに「一切の国土が一つの国土に、また一つの国土が一切の国土にはいる」sarvakSetraikakSetraikakSetrasamavasaraNa----daZabhUmIZvara by Konndoo 20l.14 その他の用例が、N130133に説明されている。

[16]  『華厳経』の「一即一切一切即一」は大正9653bc。

[17] この衆生即仏とする第二真理命題については島村bに詳述

[18]智儼『孔目章』大正45586cの「一乗の法義[においては]一切衆生と共に成仏す。同時、同時―十回繰り返すーに成仏するなり」を引用したものーー鎌田U100

[19] 「念」の原語は、@kSaNa(刹那・瞬間)、Acitta(心)、B(anu-)smRti(憶念 )、Cadhimukti(信)である。ー木U579.

[20]法蔵の「一念成仏」智儼『一乗十玄門』を引き継いだものであるが、『宗鏡録』大正48-540b、522bにも引く継がれるーー鎌田U102

[21]木U537 『華厳経』における因陀羅網の用例を検討しているが、それに由れば、因陀羅は@後得智による一切の現象界の現前大正9545c、597c、781bc、A三昧海の完成・実践大正9756a、B菩提心大正9776c、の喩えであって、ここに記されている法蔵の説明とは異なる。但し木U538に由れば智儼『一乗十玄門』大正45516bは法蔵の記述と略同趣旨である。

 

[22]  過去未来現在の三世それぞれに過去未来現在の三世があり、これで九世となり、「しかもこの九世が

 即応し入り合うから、一つの総括的表現(九世が一念――九世を貫く統一者としての第十世――によって貫かれていること、五指と一拳との関係に同じーー坂917)ができる。・・これで十世となる。」木120この根拠は『探玄記』国一129(このほか『幻談』六巻42)。

[23] この他大正9634a,634ab451aにも同趣旨あり−KIU2546は更に吉蔵の記述を紹介する

[24] 木U311は、世親が、<五蘊・十八界・十二入などの「事」には六相の範疇は適用できない>大正26124c〜125aとしていたことを明らかにしている。

[25] 鎌田V403以下にも詳しく検討されているが、略同趣旨である。

[26] 「海印三昧は単なる定を意味するのではなく、・・定よりももっと深い定体そのものであり、それは自性清浄円明体を所依としている。」鎌田V422

[27] 「菩提は・・諸大海の如く一切衆生の類の色像を悉く顕現す。故に一切印と説く。・・無上菩提海に、法にしてわれざる無し」

[28] 「大海は一切衆生の色像の印為るが如し。是故大海説名為印。・・菩提亦復如是、一切衆生心念諸根、菩提中に現ず」

[29] 「無量の方便をもって衆生を化し・・無量劫に衆生を度す。・・海印三昧の勢力の故なり」

[30] 「四河流出し・・大海に入る。菩薩亦如是。菩薩より善根大願の水出て四摂法を以って衆生を満足し・・一切種智に至る」

[31] 今将に釈迦仏の海印三昧一乗教義を開かんとす」51

[32] 「此の一乗教の起こることは要ず仏の海印三昧の中に依りて出ず。三乗等が、仏の後得智に依りて出ずるに同ぜず」191として、『五教章』は海印三昧が後得智ではないことを強調するが、衆生を教化し衆生を度すはたらきであること(大正434c[32]574c[32])」と見る限り、後得智そのものとして理解せざるを得ない。最近の業績である木V9294は、『海印三昧論』の詳しい検討によって、そこでは、「仏教のすべてが海印三昧から現れでてくる」、「海印三昧の本質が、・・生死即涅槃・・・の真実をさとらせていく、四摂法に要約される利他の実践にほかならない」とされていることを明らかにしている。これは、まさにここで述べた・後得智のはたらきのことである。また、同92は、義湘が『一乗法界図』に関し、「釈迦如来の教綱の所摂たる三種世間(器世間・衆生世間・智正覚世間)は、海印三昧より槃出・現顕せるを表さんと欲するが故なり」と記述するのを「海印三昧が一切の存在の根拠、根源的存在とみなされている」と解釈(インド仏教では、これは成立しない)している。ただ、この記述は、一見するだけでは、後得智による<衆生利益のための一切種智>とも見えるので、今は筆者の軽率な判断を差し控えて、今後の課題としておきたい。尚、鎌W429も海印三昧を後得智のことと解している。また、『探玄記』大正35413aは、『華厳経』大正9626cの「大海印現の喩」(譬如大海。為一切衆生色像之印。是故大海説名為印)を「この菩提の中に機を減じて洞照する徳の喩」として、後得智であることを明らかにしている。

また『遊心法界記』の「以定亂雙融故。亦可三昧即華嚴。以理智如如故。如是自在無有障礙。或定或亂。或即或入。或智或理。或因或果。或一或異。性海實徳法爾圓明。應如理思絶於見也。此云何知。按華嚴經云。一切自在難思議華嚴三昧勢力故如是如是。廣如經辨。此解行為言名為華嚴三昧。如其據果亦名海印三昧」(大正45646)の記述もこれを支持している。

[33] 海印三昧が後得智であることは、『六十華厳』「性起品」の、後得智なる一切種知を説くところ大正9626cの以下の記述にも覗える。「譬えば、大海は一切衆生の色像之印を為す。是故、大海を説いて名づけて印と為すが如し。如來應供等正覺の菩提も亦復如是、一切衆生の心念と諸根とは、菩提の中に現じて而も所現無し。故に如来を説きて一切覚と為す。譬如大海。為一切衆生色像之印。是故大海説名為印。如來應供等正覺菩提。亦復如是。一切衆生心念諸根。現菩提中而無所現。故説如來為一切覺」。また、海印の偈文627cでは「仏刹と及び諸法と、諸根と心心の法と、一切虚妄の法とは、一の如来身に於いて此の法皆悉く現ず。佛刹及諸法 諸根心心法  一切虚妄法 於一佛身中  此法皆悉現」と記す。

[34] 法界縁起の内実は本稿全体に説かれる悟り・真如の内実のことであるから、第二真理命題と「雑乱」に限定されるものではなく、このほかに、無相なる空の公理、一行者成正覚便一切行者成正覚なる第二真理命題系2、悟り・真如の実有なる第三真理命題、後得智なる第四真理命題、離言なる第五定理、無時間なる第七定理、因果律の不成立なる第八定理、無空間なる第九定理、等ぬ豊富な内容をもっている点に注意

[35] 『華厳経』における「一即一切」の記述は大正9653bc(木U148)にあり。

[36] 木U219が指摘する「菩薩、初地に住して善く諸地行を知る。而して障礙あること無し。能く仏地に至る」 『華厳経』大正9548bも併せ考えるべきである。

[37] 澄観はこれを如来の三身の内の報身の「出現」の意味として、「如来が正覚を成ずる時、一切衆生も亦普く正覚を成時て全然疑惑するところがない」こととする。−『大疏鈔』50I299

 

[38] 鎌田U431は<法蔵の 華厳は天台の性悪説を説かない>とするが、俗諦即勝義諦なる第二真理命題は説かれているのであり、ここでの俗諦には悪も当然含まれるのであるから、悟り・真如においては悪即真如が成立しているのは法蔵にとっては当然のことであったはずである。鎌田U431も法蔵における・天台の性悪説の源流ともいうべき思想として『発菩提心章』の「具徳門の中には一法が法爾にして性h善悪なり」をあげている。

[39] 筆者は、長らく、華厳経以外に、第二真理命題系2を見出さなかった(早川博士は、大乗『涅槃経』(国訳一切経の涅槃部二の175)に第二真理命題系2の誤解を正している記述があるのを指摘された)が、最近『智光明荘厳経』の「自ら清浄であることによってAtma-vizuddhyA(=自分が悟ったことによって)、全ての衆生も清浄であるとsarva-sattva-vizuddhim了知するanugataH/。自己の清浄なることとyA ca Atma-vizuddhirsattva-vizuddhir、衆生の清浄なることyA ca 、これは不二でありadvatA eSA、二つに分けられないa-dvai-dhIkAro iti/。」高崎『宝性論』講談社125大正12247a 125 RG711214」高341と、『勝天王般若経』の「自心清淨にして能く一切有情の淨を見る」大正7938bcを見出した。

 

[40]  平等・無相なる空の公理――『八千頌般若経』に詳説されている(島村a参照)。

  俗諦即勝義諦なる第二真理命題――諸経論に説かれるものを島村bのA資料として139例をあげた。

  個物X=個物Y=Z・・なる第二真理命題系1――「十地を初地となし、初地を八地となす」楞伽経   (大正16509c)

  真如の実有なる第三真理命題――『八千頌般若経』V.135 l.15~22,『大品般若経』大正8101b、その他多数の用例を島村cに挙げた。

  離言真如なる第五定理――「如何なる法も、如何なる所でも、誰に対しても、仏陀によって説かれたことはない。」(中論2524)「法を説くものには、説もなく、示もなし。その法を聞くものにも、聞もなく得もなし」(『維摩詰所説経』大正14540a)、『大乗起信論』の離言真如

  無時間なる第七定理――「諸法実相の中には、三世は平等にして異なし」(『大智度論』国大()369 また『八千頌般若経』V。95.2628、 『摂大乗論』の十一識の無―長尾a22

  因果律の不成立なる第八定理――「第一義の中には因縁果報を説くべからず」(『大品般若』大正8397b、尚その他の用例については島村b488参照)

  無空間なる第九定理――『摂大乗論』の十一識のうちの「処識の無」(長尾a『摂大乗論』講談社22

  数・量の無なる第十定理―― 「無量ということは空(=悟り・真如)の同義語である」(『八千頌般若経』V.172.30

[41] 坂本M920以下に、<華厳教学においては、これを説明するのに、「縁起相由」「法性融通」等の十(大正35124a以下)をもって説明する>とし、存在論的「理」によって解説されているが、筆者には現在のところよく理解できていない。また、坂本「同体縁起思想の成立過程について」宮本『インド学仏教学論集』414、『探玄記』大正35124aの「十由」の縁起相由の説明、『探玄記』大正35124を考究しなくてはならない(小林實玄「法界縁起の研究 序説」『南都仏教』1919661920)が、前述の「六相円融」の解明を含めて筆者の今後の課題とする。

[42] 鎌田U110以下

[43] 尤も<智儼や法蔵の時代には、・・宗派意識をもって他宗に対したとは思われず、華厳宗という名称を最初に用いたのは澄観であると思もわれる>−鎌田U51

[44] 主伴は悟り・真如における「蓮華蔵世界観をあらわすものに外ならないが、仮に主を唐とし、伴を辺境諸国としたらどうであろうか。当時唐は世界的な国際国家であり、長安は中国第一の国際都市としてにぎわったという。」鎌田W447

[45] 鎌田U136によれば、法蔵は『五教止観』大正45511aで「一切法空にして、亳末も相あること無し、空に分別あること無し」としているように、無相なる空の公理、能所識の滅なる第一真理命題を正しく理解しているのであり、島村Lに述べた、大乗の悟り・真如の内実を殆どすべて三乗経によって理解していたと筆者は考えている。現に鎌田V273504年に書写された『勝鬘経義記』大正85-254cに「人法相即[無礙]」(第二真理命題)が記されていることを指摘し、法上には法蔵の四法界の原型とも云うべき二法界説があることを鎌田V2745が指摘し、さらに 南北朝時代には、無礙法界、法界縁起等の基礎的理解はすでになされていた、としている。最も早くは『八千頌般若経』に第二真理命題の記述が既に12例ある――島村n参照。