3-1.前事不忘、後事之師
中国侵略への道
3-2.日本軍や
八路軍の動き
準備中
3-3.証言
『三光作戦に参加した
日本軍人』
矢崎新二さんの講演より
三光と言う言葉
捕焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くす
事実を知ってほしい

全文を表示

三光作戦の実態

矢崎新二(1998年東京にて)

    焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くす

    「焼く」というと家を焼くということか、家を焼くというふうにお思いになるでしょうが、私だってそうです。我々が作戦行動なんかに行きますと普通の部落に泊まります。
    夜中にちょっとおかしな状況がありますと、この部落は敵性部落だと言うことで、朝部落を出発する時に軒先に火をつける。それをやっているだけではありません。日本軍が泊まった部落では必ず食事を作ります、そのためには必ず薪が必要です。農家のことですから木の根っこ等がいろいろあるのです、しかしそういうものは使いません。 すいさんは机、椅子、タンス、長持ち、そういったものを片っ端から使用します。それを炊爨用に使います、ひどい時になると農機具を焼いてしまったり、時には大車(ターチョ)といいまして牛で引く大きな車があります。京都の時代祭りで引くようなああいうガッチリした車です、これを壊して燃してしまいました。日本軍が行動すると毎晩それをやるわけです。全く焼き尽くすの被害以外の何物でもございません。ただ家を焼くだけではないわけです。そういう生活の手段一切を焼いてしまっている。これが私達の行った侵略行為です。
    労働力の確保、これもやりました。ちょうど私が中国を侵略した1942年の秋に人間狩り作戦というのが行われました。その時の命令が17歳から45歳までの男子は全部逮捕すべし。断髪の女性は逮捕すべし。逃げる者、反抗する者は射殺すべしという命令が出ました。それで山東半島を一斉に押し上げましてその中から片っ端から捕まえよう、これが強制連行という形でもってその中の人たちが日本に送られ、あるいは満州に送られました。
    私はその作戦中、ある部落に入って部落の一軒の家に行くとその庭先でお百姓さんが高粱殻を干す作業をしておりました。見つけると、私はダーっと飛び込みました、ダッダッダツーと張り倒したんです、お百姓さんはびっくりして地面に頭を擦り付けながら「私は百姓でございます。なにも悪いことをしておりません。」と言って動こうとしません。「来(ライ) 」来い、と怒鳴りつけ引き立てようとしました。
    その大きな声に驚いたのでしょう、家の中から奥さんと思われる人が飛び出してきました。凶悪な日本軍に連れて行かれるとどうなるかわからない、そう思った奥さんは家の中に飛び込んですぐ出てきまして、新しい“シエ”、布製の靴と、“ジャミー”と言いまして高粱の粉をのばして焼いた食料ですが、これを持ってきて、今、引き立てられようとするご主人の腰の方にしがみついておりました。
    私はそれをふんだくって投げつけました。そしてそれを踏み付けながら「貴様皇軍の前でいちゃいちゃしやがって」と奥さんを突き飛ばしました。凶悪な日本軍に引き立てられるとどうなるか分からない、その安否を気遣いながら、新しい靴と(主人が履いていた靴はもうべろんべろんに破れて指がとびだしておりました)、食料を持って来た。この奥さんにいちゃいちゃしやがってと…、このようにして奥さんを突き飛ばしてご主人を引っ張り出しました。
    たまたま、この作戦の中ですぐ隣におりました第5中隊中隊長は山本金吾と言いますが、八王子に帰られまして5年ほど前に亡くなられましたけれども、ここでもって断髪の女性を逮捕していました。中国では女性はみんな娘さんの時にはおさげにしております、結婚すると後ろに束ねます、断髪の女性というのは軍の関係者ということでございます。従って断髪の女性を逮捕する必要性が出てくる。その第5中隊の兵が集めた中に断髪の女性が赤ちゃんを抱いていたのです。2日目になったら当然乳も切れる、赤ん坊もわんわん泣きます。お母さんはむずかる子を一生懸命あやしながら皆に付いておりましたけれども、突然狂ったように隊列から離れました。その時中隊長は隣におりました当番兵にただ一言、「撃て」。当番兵はパーンと一発撃ちました。当然のことながら至近距離ですので、その母親と乳飲み子を血に塗りました、たった一発で。大地に飛び散った血潮の光景は、今日でも私の脳裡から離れません。
    これは小生のことです、このようなことが至る所で行われています。すでにご覧になったかもしれませんが、私どもが帰って来た後出版しました『三光』という本の中で神奈川県の大木仲二という軍曹が同じことを書いています。全く同じ状態です。ただ奥さんが持ってきたのが、私の場合は食料と靴でした。大木仲二の場合、奥さんが持ってきたのは食料であります。それは当然私と大木がやっていたことなのでして、至る所でそのようなことが行われていたということです。
    従って日本軍の行いました「焼き尽くす・奪い尽くす・殺し尽くす」という行為は日常茶飯事のように行われていたということです。このような行動を中国の方々は「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす“三光作戦”、“三光政策”と言っているのです。ですから、当時そのような言葉はありませんでした。“作戦”というのは大隊の作戦等で使います、18秋魯東作戦、18春太行作戦(註2)とかすべてそのように言っていて、三光作戦などという言葉はございませんでした。もちろん、日本軍が行ったそのようなすべての行為を中国の方々は「焼き尽くし・奪い尽くし・殺し尽くす」、3つの事件として日本軍の行った行為を「三光作戦」であったと。今そのような事実を否定し、あんなことはなかったと否定し、日本の教科書からそれを抹殺するような馬鹿者がいます。そのようなことを許すことはできません。
    それからもう一つ、略奪のことで申し上げたいと思います。それは私たちが19年(昭和)の9月に行いました小麦の収買作戦です。普通、略奪と言いますと、卵を取ったりナスとかキュウリを取ったりそして時には果物をかっぱらったり、そんなこと、これも略奪ですけれど、そんな単純なことではございません。
    われわれの行いました小麦の収買作戦というのは、お百姓さんが小麦の収穫を終わって全部それを刈り取って脱穀して積み上げる、そこを日本軍が、われわれが直接行って集めます。この作戦を行いましたのは、われわれの部隊の駐屯する山東省の東平という県城が中心でした。連日周辺部落を襲い、それで一軒一軒入って、そして積み上げてある小麦を袋に詰めてかっぱらってくる。ですから最初は、近くに朝行ってお昼に帰って、
    又午後から出かける。だんだん遠くなりますと、朝早く行って夜遅く帰ってくるという状況です。私ども機関銃中隊というのは直接集めません。われわれ日本軍のそのような行為を阻止しようとする八路軍、これを阻止するためにですね、大体部落の両側面に重機関銃を据えてこれに対置するわけです。一応、応援部隊なのです。
    ところが、そこで私は何か目ぼしいものはないかと思って歩いている、フラフラある家に入りました。しかしそこにすでに兵隊が小麦を集めておりました。60、70才くらいのお婆さんがさかんに何か言っとるのですね兵隊に。私が兵長でしたので、その兵隊は私の姿を見ると敬礼をしました。そのお婆さんは私がよっぽど偉いと思ったのでしょ
    う、いざるようにして訴えるのです。よく聞きましたら、家には病気の子供がいるんだ、
    したがってその子供の食べる分だけは残しておいてくれとこう言う。それは必死ですね。
    兵隊たちはそのお婆さんの態度に圧倒されるような形で手を休めていました。私はこれがシャクに障ったんです、手を休めているということが。いきなりお婆さんの肩をパット蹴っ飛ばしました「ウルサイナー、クソババアー」。兵隊二人はあわてて小麦を袋に詰めはじめました。私は前にある母屋の方に入りました。薄暗い部屋の中、奥の寝台に一人、6、7歳のいかにも病人と思われる男の子がぐっと体を起こしました。少年と私の目と会いました。その時、何とも言えぬいやな思いがしてそのまま戻ってしまいました。当時は何も考えませんでしたが、あの少年の生命はどうなったか、申し訳ない気持ちです。なお、この収買作戦には当時三井物産の支店長が参加しており、集めた小麦は物産の倉庫に納められました。
三光作戦と言う言葉 事実を知って惜しい
トップページ / 日中戦争とは何だったのか/ 三光作戦の実態(矢崎新二さんの講演より) / 焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くす