1980年代学校的世界

1980年代学校的世界


1.前置き

2.とある一日

3.「 学校を考える -- 『不登校』という現象を通して--『私』の不登校 」

4.子どもの「表出」

5.書評『不登校新聞』について

前置き


わたしは小学校を1980年に入り、中学校を1989年に卒業しています。80年代をほぼ義務教育期間として過ごしていたことに気づき、このタイトルをつけました。
80年代について思ったことが中心ですが、それを書いたのは90年代以降になっているので、純粋に「80年代」を切り取っているわけではなりのですが、私の学校に対する思考のスタンス、それは「80年代」に培われてしまった、その枠組みのなかにあるということを、最近つくづく感じます。だから、これは現在の教育に対する批判とは微妙に違う、過去を記述するという目論見なのです。それは私自身の「振り返り」の作業であると同時に、まさに何かを証言することが出来たら、とおもいます。未来は変えることは出来ても、過去を変えることは出来ないからです。



とある一日

敷きっぱなしの布団にまた倒れこむように身体を投げ出す。制服を着たままなので、プリーツスカートは皺だらけになってゆく。もっとグチャグチャになってしまえばいいと思う。どうせ学校に行かないのだから、行けないのだから。

部屋の中は私ひとりだ。両親は共働きで朝早くから家を出ている。だから私が学校にまたこのところ行っていないことは知らないはずだ。でも担任がまた母の仕事場に私のことで電話するだろう。そして私がいつものように母に詰めよられるのは時間の問題なのだ。私は何を言われても何も答えられない。母に私の気持ちが分かるのだろうか。私自身、この自分の気持ちが分からなくなっているのに。

これでも行こうとは思っている。けれど玄関までも行けなかった。

いっそ本当の病気、内臓のどこかが悪かったりという原因があって、こんな状態になってしまっているのだったらどんなにいいだろうと思う。そうでなければ精神病というレッテルでも私に貼りついているならば誰も私を責めはしないだろう。

心身共に健康であれば学校に行くのは当然なこと、正常な状態で学校に行かないのは罪悪なのだと私は思っていたし、少なくともそう教えられてきたのだ。
 だから私は自分に対して何故学校に行けないのかという問いかけができない。何か必然的な理由づけがほしい。十把ひとからげの「登校拒否」という言葉にいいようもない程嫌悪を感じている「登校拒否」のイメージというと、暗い子、問題児、弱い人間、勉強嫌い、怠惰・・・等々。

けれど今の私は正に暗く、問題児で、布団にうずくまっていることしか出来ない弱い人間なのだ。「登校拒否児」という言葉が今では私の肩にずっしりとくいこんでいる。

あの四角い教室という名の部屋で私は一日の大半を過ごさなければならない。クラスという名のもとに寄せ集められた同い齢というだけが共通点の人々とともに。

あの四角い部屋に一旦入ると、私がありのままの私でいることはゆるされずクラスの一員として同化しなければいけない。同じ方向に座り、皆と同じ勉強をし、似合おうが似合うまいが制服を身につけ、更にはそこで出会う人々とは適当に上手にやってゆく能力を養わなければいけないのだ。

違う、そんな風に思ってはいけない。私が駄目な人間だから、学校に行けないのだ。私には忍耐力も協調性もないのだ。社会に出てもきっと挫折だ。甘ったれ。弱虫。人間のクズ。全て自分にあてはまってしまう。

いろいろな人を憎み、嫌った私。けれど今私はこの自分が、他ならぬ自分自身が一番醜く汚いと思う。

いつのまに眠ってしまったのだろう。目が覚めたら昼の十二時だった。ノロノロと習慣と惰性のみで食べ出すごはん。全て同じ味に感じる。こんな人間がごはんを食べていいのかと思う。

死んでしまおうか、結局いつもここに行き着く。学校でも家族の中でもお荷物の私にサヨナラしたい。世の中の誰をも好きになれない自分はいない方がいいのだ。

いいかげん決着をつけなければ、と思って包丁を握る。包丁ってこんなに重いものだったろうか。右手で握って左手首に押しあててみる。強くあててゆくと血が段々にじみ出てきて手首のしわを赤く染める。もっと強くあてれば死ぬ -- そう思ったとたんに首筋に、全身に寒気がして、包丁を持つ手の力が抜けてゆく。

こわかった・・・まずそう思った。そうして次第に情けなくなってきた。小心者の私は生きることはもちろん死を選ぶことすら出来ない。ただこうやってうずくまっていることしか出来ない。

窓から差し込む日差しは初夏のものだ。私は背中でその日差しを受けている。まるで私をあざ笑うかのような白々した光 -- 。

We're afraid of the everyone,afraid of the sun ---- Isolation.
(Jレノン アイソレーション[孤独])

-- 眠ってしまおう。眠ることで何の解決になるわけでもないけれど、疲れてしまった。束の間でも私が解放されるのは眠りの中だけなのだから。

私は誰かの胸にしずむこむように、眠りの闇に落ちていった。
『子どもたちが語る登校拒否』1993年 世織書房より転載http://village.infoweb.ne.jp/~fwgi4541/(世織書房の一社員さんが作っていらっしゃる非公式HP)


「学校を考える -- 『不登校』という現象を通して--『私』の不登校 」

 (0) 「私」のアウトライン
 私の不登校について話す前にまず私の友人の話をしたいと思います。  私が中学三年のころに、転校生としてやってきたその人と、友人になったのですが、そのひとはしばらくして学校に来なくなりました。彼女は「経済的・身体的な理由ではない長期欠席」でした。私はその頃その人について「弱い人」だとか怠けてるとか思ったことはあまりないと記憶しています。その子をその不登校をしているということで嫌った覚えはないのに、実際に価値観を迫られるような「不登校」を私自身がしたそのさいに、なぜ、あんなにも動揺し、自分のことを弱い人間だと思ったのか、と苦々しく感じます。
 結局私は彼女のことを「他人事」としてしか捉えていなかったのだと、自分の学校に対する価値観の問題としては捉えていなかった。わたしとその不登校ということはどこか別な事として、捉えていたのかも知れません。
 その子にプリントなどを届けようとして行ったその先が、修道女たちのすんでいる「修道院」でした。いろいろな事情から彼女はそこに住んでいたわけですが、わたしはシスターたちと会うことがとても楽しみになっていました。そこのお菓子に惹かれていたというせいもありますが、それ以上に学校以外で私の話を聴いてくれる人というのになかなかあったことがなかったからだと思いますし、学校でも家庭でもないその空間に惹かれていたのだと思います。学校以外の「不思議」な場所として、彼女にプリントを持ってくるという以外にもちょくちょく遊びにいくようになりました。その後友人がその修道院を去ったあとも、私はそこの人々と交流を続け、学校に本格的に行かなくなり、自分自身やその他対外的なことの価値観のゆらいでいるとき、宗教という側面を全面に出すことなくわたしの話を聞いてくれたのでした。カウンセリングとしての役割をシスターに担っていただいていたのだと思います。
 わたしは、もう、中学二年のころから学校に行ったり、行かなかったり、を繰り返していたのですが、本格的な、つまり自分の学校やその他のことに対する「価値観」を迫られるような不登校をしたのは高校一年の時です。その年の九月にいったん「休学届」を、その翌年の三月には「退学届」を提出しました。その間に、六月から通っていた(先程言ったシスターではない、いわゆる専門のカウンセラーのところにも行っていました)カウンセラーの人に紹介を受けた知的障害の人の通う作業所(畑仕事を中心とした)にボランティアとして通いはじめ、結局二年間ほど、そこの作業所にお世話になっていました。ボランティアというより、私の方がケアされていたという気持ちが今でも強いので、お世話になって、という表現がふさわしいです。そこのスタッフの一人が不登校の経験をしていたという人がいて、その人が通信制の高校を卒業していたということもあって、退学届けを出した一月後の四月に、通信制高校に入学しました。そのころは大検ということは考えてませんでした。なぜなら、そのころは大学に行くための高校と言うことではなく、ただ、高卒の資格が欲しいというのではなく、高校の勉強がしたい、と思ったからです。そこには、いろいろな人がおり、大人の方の勉強熱心さにおどろき、そのことからわたしも「勉強」というものに対する「能動的なありかた」を学べたと思います。
 通信制高校はとにかく自分の時間があるところなので、地域の公民館で開催される講演会に主婦の方にまじって参加したり、先ほどのボランティアや、看護助手のアルバイトをしたりしました。あとこの頃になると、大学で勉強したいという意志が生まれ、週に二回ほどの大学受験のための塾に行ったりしていました。それからは、多少の紆余曲折はありますが、とりあえず今に至っていると言ってよいでしょう。
 さて、それではこれから実際に私が不登校をしたうちで、何を感じ何を迫られたのかという話をしてゆきたいと思います。

 (1)不登校を語る際に「私」にこだわる理由
 私自身が、不登校(もしくは「登校拒否」)をしたときに辛かったことの一つは、不登校をしている人間ということで、一定の枠にはめられて自分が見られるのではないのかというおそれでした。しかも、その不登校をしていることで「悪人」、怠け者というレッテルを貼られてしまうことを恐れていました。先程は為したように、友人のことではそんなことは思っていなかったはず、なのに。私自身の価値観がそのような価値観の枠組みに縛られて身動きがとれなくなってしまっていたことがもっとも問題だったと思います。
 マスメディアなど、教育をめぐる言説はともすると「こども」「高校生」などと言葉で区分けすることで、その子どもなり高校生なりを 「十把ひとからげ」に括る視点がつきまとっているように私には感じられます。「不登校」という言葉もまたそれをしている人をすべてひとくくりにし、個々の豊かな生、苦しみ、喜び、を感じる一人の人として生きているという事実を見えにくくさせてしまうようです。
 そこで、わたしは、「私」の不登校、すなわち「私」性にこだわることによって、まず、人は不登校をしているか、していないかという視点でみるような「枠」を取り外すことができたら、と考えています。実際、不登校をしている人は様々な個性を持っています。その枠を取り外すということがとりもなおさず、不登校をすることが良い、だとか悪いだとか言うだけの価値規準で考えることから一旦は抜け出すことが出来るのではないかと私は思っています。
 そして、まず不登校ということが誰のどんな問題であるかということが、このことについて話す上でとりあえずは大事であると思います。というのは、不登校にかこつけて、(あとでマス・メディアのところでも話そうと思いますが)違うことを主張してしまうケースもあるからです。わたしは、この問題の現場性というものから離れる言動をしたくはないと考えています。まず、わたしは実際の本人の立場として不登校はどのような、問題であったかということを、話していこうと思います。(わたしが十八の時に書いた作文に目を通しつつ、話を聞いていただければより理解がしやすいと思い、参考資料として配布させてもらいました)

(2)不登校する子どものなかで内面化する「学校」の価値

a.「不登校」であることへの極端なおびえ、嫌悪

 さきほど、私自身が、不登校(もしくは「登校拒否」)をしたときに辛かったことの一つは、不登校をしている人間ということで、一定の枠にはめられて自分が見られるのではないのかというおそれでした。しかも、その不登校をしていることで「悪人」、怠け者というレッテルを貼られてしまうことを恐れていた、といいました。ある意味で、最も不登校を「悪」と捉えてしまう傾向がみられるのは本人の心の中だともいえます。そう、不登校が「悪」と思うからこそ、「悪」ではない、「病」であったらいいと思いもしました。実際に病に苦しむ方に失礼であると思いながらも、病という、ひとから認められる「居場所」、自分の状態が「こうである」と表現できる言葉があることがうらやましかったのです。しかし、わたしのからだが「行くべきである」という気持ちを無視するように動けなくなることは事実でした。
 実際学校に行かなくなる、いや行けなくなるまで、自分の意志のなかで葛藤が生じると言うことは、「行きたくない」という気持ちと同じくらい「行かなければいけない」という気持ちが根深くあるからです。これが、もちろん「行きたい」というきもちではなくあくまで、義務のような気持ちです。が、とにかくその「すべきである」という気持ちも強かったのは本当です。
 とにかく、行かなければならないと思っている場所に行きたくない、という自分の気持ちを見つめることは、本当に勇気がいるとしか、いいようがないです。なぜなら、自分の居場所は、そこしかないと思っているのに、その居場所にすら自分がいられないということは、自分の生きているなかでの居場所がない、という発想につながるからなのです。「行きたくない」という主張、または、「なぜ学校とは行かなければならないのか」という問いが、そのときなぜ出来なかったのかということを次にはなしたいと思います。
  b.自分の主張を訴えるための「前提」がない
     「問う」ということは当然、問いを聞く相手というものの存在を考えなければいけないと思います。というのは子どもが問うその相手というのは大抵子どもと同等の立場のものではなく、力が上の相手であるからです。その相手に問うということは、なにか「力」のいることで、その力というものが子ども自身だけで、生み出す方法というものが、あるのかどうか、それは私にはまだ良く分かりません。
 そしてもうひとつ、問うということは、意味があり、それは無視されるべきものではないのだ、という価値観が浸透してなければ、子どもからの「問い」というものは生まれ得ないのではないでしょうか。問いが生まれ、そしてそれが表現できるまでになるということは、まさに教育の賜物のような気がしてなりません。
 ここで、さらに具体的な話をしたいと思います。
 私は、高校受験の三ヶ月まえほど母に進路の話をするときに「定時制に行きたい。普通高校にはあまり行きたくない」と話しました。
 母親はそれに対して、ほんとに「何いってるの」という調子でまともにとりあってもらえなかった覚えがあり、わたしもそれ以上言葉を続けることが出来なかったという記憶があります。母は決して悪気があって私の話を聞こうとしなかったわけではなく、ただ、そのような投げかけというものが彼女の中で、まったく信じられないものだったからでした。これはのちに母親自身がそのように私に話してくれました(学校の先生にはそのようなことを言うことすらできませんでした。それは、先生にそのようなことを問う密接な関係が築けなかったからで、その当時、私はそのような先生のあり方を、恨む気持ちはありませんでした。目立った部分もないそれこそ”普通”の私に興味がないのが当たり前だろうという価値観を私自身がもっていたことにその原因があると思われます)。
 私のまわりでそのように「問う」ことの意味というものを考えているひとがいなかったように思えます。少なくとも私にそれを教えてくれたひとはいませんでした。それでも別に悪いとは思いません。それをそのいままさに不登校に直面している人の親、教師を責めたてても何の解決にもならないからです。ただ、そのように「問い」の切れ端を投げかける相手が現れた場合、どうすることが必要なのかをかんがえることはしなければならないのではないかといまのわたしは思います。ただ、それが問いであったということを気づくことができない、そういう事態がまずは起き、それをどうすればよいのか、わたしにはまだ、その答えが出ません。
   さらに問いというものがなぜ、軽視されてきたのか、また問うことそのものの意味をまず把握し、そしてどの様に教育していくのかということもこれからの課題なのではないかと私は考えています。
   
c.問うことの出来ない「学校」の持つ意味

 わたしは、小学校から中学校の半ばまでピアノや水泳などを習っていました。それは、すごく私にとっては楽しいものでした。というのはどちらも「好き」なことだったからです。いま、なぜ問うことの出来ない「学校」の持つ意味、を話すにあたって、このようなピアノやスイミングスクールの話をするのかといえば、わたしはなぜ、ここの居場所を自分の居場所として大事に出来なかったのか、なぜ、学校に居場所を見つけようと悪戦苦闘し、その結果ピアノやスイミングを好きであったにも関わらずやめてしまったのか、がとても気になっているからです。それはこの(1)のところで言いましたように、価値観の問題がひとつあります。私の場合、学校にいるということがものすごく労力を使うことで、スイミングやピアノに段々まわすパワーがなくなってしまったのです。なんでそんなに学校にあわせなければならない、と強迫的に考えていたかと言えば、「好き」なことをするというのはこの人生において意味がない、嫌いなことを耐えてやることで始めて「力」があるのだ、といういま思うと驚くほどストイックな精神構造だったと思います。さらに学校というものが家庭や、他の習い事などの「居場所」よりも「大事」ななにか特別な場所なのだと思っていたのでした。
 嫌いな学校に無理矢理行くことと自分の価値観との「折り合い」をそこでなんとかつけていたのだと思います。皆さんも感じているかもしれませんが、わたしはわりと「価値」ということいこだわりを持っていた性格だと思います。そこが不登校をする人間にありがちな神経質なところだ、といわれてしまうかもしれません。じつは、不登校をしている人間は、なぜ不登校をするのかといえば、やっぱりそのひとの性格にも原因があるというのはある側面において真実です。ただ、その際にその性格が即「悪い」ものであること、そして「不登校」という行動が即「悪」であるという枠組みを取り去った上で言うのであれば、の話です。なぜなら、学校に行っている人であっても神経質であったりこだわりを持っている人がいるわけで、それが「不登校」をしたというその事実がまずはじめにあって、そこから神経質であったり、性格の短所がことさらクローズアップされ循環論法のように「不登校」の原因として語られるというのは、非常におかしいと感じているからです。

 (3)「不登校」(登校拒否)する人間に与えられる位置のなさ
  a.なぜ、ここまで(死をかんがえるまで)追いつめられていくのか?

 不登校をすると(とくに十年以上昔に不登校をしている場合、親のせい、本人のせいといった見解が主流であった時代)かなり追いつめられて、死を意識するひとも多いとおもいます。   このことは通信制の高校に進学したときクラスメートと話したことの一つでした。彼女は「失恋なんかどうってことないよ、このくるしみに比べれば」といっていたのがとても印象的で、私も後にそれは確かだ、と思いました。不登校になる、ということは生きていく「前提」の根源がなくなる、そのような、足許の崩れ落ちる感覚なのです。
 不登校に関しては「行きたくても行けない」という表現がよく使われます 。でも私の思うのは「行きたくない」気持ちがまず厳然としてあるということです。少なくとも私の場合はそうでした。ただ「行きたくない」を自分の気持ちではないとして無視をすると、先程申しましたように、あたかも身体がそれを忠実に私に知らせてくれる役割を果たすかのように、体がついていけなくなるのです。だから「行きたくても行けない」というより「ほんとは行きたくないけど、行かなければいけないところなので、行くべきと考えてるから、行きたい。しかしもはや体が動かない」という表現が私にとっては適切です。ただこの行きたくない自分というものが象徴する生き方は、とても恐ろしいものと思ってしまったのです。そのような生き方はこの社会に生きていくことのできない「破滅」的なものと思う、まっとうな生き方の出来ない自分には何のパワーもないと思う、学校に「行けなくなる」くらいだから何をしても駄目だと思う、自分と学校をとりまく人間が愛せない、そう考えてしまうことによって、死にひかれていったのだと思います。しかし、そのような学校至上主義的価値観はいったいどこで身につけたのか?ということが問題になっていきます。それがこれからの論点となります。
 
b.周囲との関係

 私の場合、友達間のイジメや齟齬というものは、私自身の性格が穏やか、円満な性格ではなかったと思うし、いつでもつきまとうものでした。もちろんそれも辛かったですがけれど、それはわたしにとって本格的な不登校というものにはつながりませんでした。ただ、中学の時は、「年間欠席五十日をすぎると、教育委員会に報告するか、職員会議にかかるか、なにかが起こる」ということを聞いたことがあったので、それを数えながら休むという、子どもではありました。しかし、そのときなぜ本格的な不登校をしなかったかと言えば、先程言った「ストイックな精神構造」のおかげ、学校に行くことが自分のためになる(それがどういった、ためになるのかは考えもせずに!)と思いこんでいたからでした。
 不登校をするきっかけとしては、私が母の高校の卒業生の人達が書いた文集をよんだことでした。
 ひとことでいうとかれらはとても「自由」な(それはただ、明るい青春をおくるといったものではなく、暗さのようなものを抱え、それをわりと全面に出してしまうようなタイプでもその学校には居場所があったという意味の「自由さ」なのですが。しかしその高校はやはりいわゆる進学校でした)高校生活を送ってきたということをそれぞれの筆致でかかれており、それが私のいままでの学校生活、そしてそれほど進学校ではない私の高校とはあまりにもかけ離れていたのでした。
 しかもその人達はいまは世間に居場所のある大人としての生活をしているということを知った時点で、わたしの「学校」に行かねばというきもちのなにかが前より薄れてしまったのでした。自分の受けた苦しみはいままでは「必要なもの」「意味のあるもの」と思いこんでいたことが、なにか崩れてしまったように感じたからです。しかしそこからが先程言ったような、私の本当の気持ちと「すべきである」、という義務の気持ちとの葛藤の始まりでもあったのでした。しかしというべきか、やはり、というべきか、そのような「自由」な高校生活をおくった私の母は、わたしのそのような学校に行きたくないという気持ちを最初はなかなか理解は出来ませんでした。むしろわたしがあまりにも追いつめられた様子でいるのを見て「死ぬよりはましだから」とりあえず学校に行けとは言葉で言わなくなりました。(ちなみに父親は最初から最後まで何も言いませんでした。いまでもきっと私の不登校ということはなんだったのかわかっていないかもしれません。)高校の先生は、最初から最後まで理解できなかったようです。わたしも、そのころはまだ、自分の気持ちを整理できるほどの力もなかったので、ともかく無事、休学、そして退学ができればよいとしか、考えられませんでした。実際、彼らは「悪気」がなく、一生懸命だったし、彼らに対してあまり何かを言うことが当時はできませんでした。<話しても話さなくてもよい。時間がなければ省略>余談ですが、(友達との関係の話を少ししたいと思います)私は退学届を出した、最後の日、あの恐ろしくて入れなかったはずの教室に入り
、 「高校をこれでやめます」
とクラスメートに宣言がなぜかできたのでした。それは、なにか反抗心のような気持ちだったのか、「退学の挨拶をする不登校の学生」という奇妙な行動をとることで、一括りにされる「不登校」の枠をとりたかったのかもしれません。そしてかれらはなぜか私に色紙と時計をおくってくれたのでした。わたしはなぜか、それがすごく奇妙に思え、彼らを嫌う気持ちはありませんでしたが、私とはどこか違う世界に住んでいるような気が、改めてしてしまいました。あまりにも言葉が違う世界に住んでるのではないか、私のあの頃を知ったら、そんな呑気なことできるのかな、とすこし意地悪なきもちになってしまったのでした。
 話を戻しますと、つまり「悪気」がないからこそ、私の「違う生き方」というものに気がつくことが出来ていない、また違う価値観があるということに気がつくことが出来ない、なにもかも俗に言う「無意識」で私を自分の物差しで測っていたという感じでした。本当に悪気はなく。だからこそ、私も「あなたが悪い」といえない。それにその彼らの抱いている価値観が私にとっては「違う」といえない。また「社会が悪い」ということも、それは結局自分の性格の悪さを人のせいにするのではないかと思ってそれもできませんでした。  自分も悪い部分もあると同時に私だけの責任だけではない部分が決してあるのだ、と思い、反発ができるようになったのは、入った高校の一年生の秋に一旦、休学届けを出して以降で、しかもその矛先はすべての責任が母親にあるとでも言うかのように、母親にまずは向けられてしまったのでした。少なくとも、母親にあるのなら、父親にもまたある筈なのに。しかしその後は母親、父親だけの問題ではない、(それは畑さんがはなしていただけるとおもいますが)その不登校をとりまき、そしてその根っこにある社会の価値観とそれを受け取る個人の問題として考えるようになっていきました。
 そして実際に不登校の社会的な差別がある、そして差別意識が個人のうちに巣くってる、とおもうのは逆に今であったりもします。(わたしもきっとそうだったのでしょう)というのは、わたしは通信制高校にその後進学し、それを説明するとき不登校であったことにも触れたりしてあまり人に隠していません。すると、そのときは何も言わなくても、たとえば私は卒業するときに大学の教授に(しかも数人に)酒の席で「栗田さん、大学院でも不登校にならないでくださいね」と彼らはあくまで冗談のつもりでいっていました。わたしはちなみに大学では不登校はべつにしていないし、彼らは私の不登校の様子を知らないにも関わらず、です。わたしはそのとき、「なんで不登校をしちゃいけないの」と思い、返事はしませんでした。あと「あなたみたいに明るい不登校はいいけど、暗い不登校はいけない」といった人もいます。確かに不登校にはさまざまな多様性があるのは事実ですが、良い不登校、悪い不登校がそのときの「暗さ」「引きこもりの度合い」で決まると言うところにはなにか、私を苦しませた「価値観」が潜んでいるような気がしました。それはある種の決めつけ、明るい子どもらしい子どもがいいと言ったような、ところがあるのではないかと、思いました。
 あと「立ち直った」という言い方も何だかピンときませんし、苦労をしていたと言われるのも(それは親子ともども)、ピンときませんし。とりあえず、先に進ませていただきます。

     c.マス・メディア

  別に「逸脱」をしたくて、不登校をしたわけではなかったのですが、しかし、マスメディアにおいては不登校も逸脱行為、問題行為であり、野放しにしておけば大変なことになるといった書かれ方がされていたりします。それによって「私は大変なことをしている問題児なのだ」とマスメディアの価値観がまさに自分のものとなってしまう、まさに「不登校フォビア」となってしまいました。(ここで参考資料(新聞)を見てもらう)
マスメディアがいま、実際不登校をしている子どもの人生を力づけてくれる言葉というものが、どう生まれてくるか。そして不登校を語っているようで、じつは違うことを語っているような言説が多く、(さらに参考資料を見せる)それをすべてなくせ、とはいえないですが、ただ不登校をしている子どもにとって、それがどういう影響を与えるのか、力になるのかどうか、という視点がもう少し欲しいと思ったことは事実です。


(3) いま思うこと -- ここで私の語ることの意味
 わたしは、「不登校」を経験しました。しかし「不登校」が私のアイデンティティの全てではありません。そこに、凝り固まるのは学校と言うところでしか結局自分の居場所が見いだせない過去の私と大差ないように思え、むしろ心理学・教育学とは違ったところに身を置きたい、もっといろいろな言葉で自分を語れるようになりたいと思って哲学を選んだのでした。まず、私がこのように公の席でみずからの不登校を語り、自分である程度納得のいく言葉を紡ぎ出すためには時間が必要で、そのため十年近い年月が必要だったのでした。それがまず「今」わたしが不登校を語る理由の一つです。
 あと、この前の日曜日に、学校に行かない子と親の会というところに行って来ました。わたしは、やはり「不登校」というところで苦しむ、そのおかあさん(お父さんも若干名いましたが)たちとは、違う立場であり、わたしはもはや自分がその現場にいた時代からはある程度隔たってしまった(自分が親になるかも知れない未来にはどうなるかは分かりませんが)ということは強く感じました。
 いいかえれば、不登校をしていた「私」とはもはやいまの私ではないともいえるでしょう。不登校をしていた「私」は私の中の他者なのです。その他者をみつめ、その他者の言葉を紡ぐことが、実際の他者を見つめるということに、しかもそれは自我の延長と言うことではなく、他人そのものとして見つめるということにつながればいいと思っているのです。ただ、いままで話してきたことは本当に私の個人の話で、それがどこまで、他人との繋がることのできるものとなるか、「私」を大事にすることが、そこにこだわることが、他人の「不登校」を理解することがほんとうに出来るのかという問題もあります。  ただ、私は高みから語りたくない、当事者というところから少し抜け出し、しかしその最も近くにいる私ではない私<他者>を常に意識するという「不安定さ」こそが、なにかの、それは現場にとっても思想にとっても「力」となるものなのではないか、と思っています。 ただ、それがどうして力になるのか、また果たしてわたしが考えるように力となりうるのかということは、十分に考えていかなければならないと思います。
そしてそのこの場合の他者とは標題に上げたように子どもという言葉で表現したいと思います。子どもといっても実際のこどもではなく、ここでは、シンボリックなものして使っています。子どもとは言葉を出せない、自分の表現をもてない存在を象徴した言葉です。大人としての私とその子どもは「対等な」関係ではないのですが、しかしその子どもなくして大人の言葉も生まれない、その意味では一方的な関係でもないのです。その言葉が出なかった私とそこから言葉を持つ私との関係性をこれから考えてゆきたいと思っています。
  サン・テグジュペリの『星の王子さま』のなかの有名な言葉を最後に引用したいとおもいます。
「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなはいくらもいない。)」
 このような言葉は当然本当に子どもであった頃に心に響くのではなく、大人のための言葉であるとは思います。言葉を持たない、それゆえに簡単に自分の中から消え失せることもあろう、<子ども>が私の中でどう生き続けるのか、生き続けることが出来るのか、問われているような気がするのです。

*1998年7月「臨床哲学研究会」にて発表した内容をまとめたものである。

子どもの「表出」


1.不登校「特殊と普遍」
 不登校をしている子どもを単純に一括りにする見方には抵抗を強く感じます。だが不登校を個別の特別な子どもの問題としてだけ語れるものなのかどうかもまた疑問です。不登校をただ、「個人的体験」として括るのではなく、「個人」を出発点とするところからでしか語れない領域が存在するのではないか、と考えています。
 ちなみに私自身のちに、通信制高校で出会った友人や、不登校の子供たちの集まるキャンプに出席したりする(それは今年の夏のことなのですが)など、実際に「不登校」という行動をとった人々に会う機会を多くもつことになりました。不登校をしたという状況を共有したある種の戦友のような「通じ合えている」という部分と個々の性格の「差異」を同時に常に感じます。そこにも不登校の普遍と個別が現れているというのは少し穿った見方でしょうか。最も多様で個別的と思われる不登校の子どもの「表出」について考えてゆく際に、この二つの視点(特殊と普遍)を常に念頭に置いて論を進めてゆきたいと思います。

2.苦しみ--感情--を表すこと
何の取り柄もなく人に好かれないなら死んじまえ
悪いことは言わない
生きたところで負け犬
だらだらと生き続けるより思い切りよく燃え尽きよう
生きるなんてどうせくだらない

『山田花子自殺直前日記』より

 ある感情を表すことできるということは、その感情に対する「正当化」がなされているからではないだろうか、と考えています。その「正当化」とはまず誰が誰に対して行うことなのか、ということがまず問題となるでしょう。通常考えやすいのは、その感情を誰かに表現するときに、その相手に感情を受け止めてもらうこと、その相手からの承認を求め、他人から正当化されたい気持ちが働くというのは、理解されやすいことと思います。逆に言えば「自分が感じていること」はひとから認められないので「感じてはいけない感情」として、それを他人に表現することを自ら禁じる、ということは想像がつきやすいことです。第一回の臨床哲学研究会のさいにも、「本当の気持ち」と「義務として学校に行かなければならない気持ち」とに分かれて葛藤が生じたということを書いているが、これは少し素朴な言い回しではなかったのか、と思う節も出てきました。
  しかし、この感情の「正当化」というものはその主語は果たして「他人」だけなのでしょうか。つまり自分で自分の感情を抑圧するということはある「他人」の目を(この場合は親や先生や友達を)常に意識したものなのでしょうか。
 つまり自分で自分の感情を「正当化」できない、という場合にはそれを他人に「表現」することが不可能になるだけではなく、感情そのものを自分で感じることが不可能であるということに地滑り的につながっては行かないのでしょうか。たとえば、不登校という事例に即して考えたとき「学校に行きたくない」という感情より「自然に」「死にたい」ということが生き生きと「感じられる」場合があります。今「思えること」として上記の(『山田花子自殺直前日記』の一節なのですが)ようなことを語れば普通人からは決して「認められない」ものです。このようなことを(不登校という場合だけでなく)「本気で」語れば語るほど人からは「甘えている」とみなされる危険があります。口でこれなら言えそうなことでも、今度は他人からの承認が得られない。学校に行きたくない、と学校に嫌悪をつまり学校が嫌であるという苦しみを感じることが出来る前に「これ以上生きていたくない」と思ってしまう子どもはますます追いつめられてゆくということが考えられます。「感じていること」を表すこともできず、さりとて自分で「感じられないこと」を表現するということは不可能であるという状態においてまさになんとも言えぬ「鬱々」としたものが残るだけである、といえるのではないでしょうか。
 感情が感じられないということが、実際に言葉として自分の感情を表現することを妨げさせている一因になっているのではないか、という仮説をたてて次に話を進めたいと思います。
 
3.「苦しみ」を「感じる」ということ

「学校にも行けない奴がこれからどうやって生きてゆけばいいんだろうって自分を最低な人間のように思って、何度も死のうと思ったが結局死ねなくて、死ぬことすら出来ないなんて・・・とまた落ち込んで。今考えるととても怖い話だ。学校に行けないから死ぬなんて。でも学校がすべてって感じできちゃっていたからしかたなかったと思う」『子供たちが語る登校拒否』より

苦しみを表現するには苦しみを「感じる」ことが必要なのではないか、と言いました。それならば「苦しみ」を感じるとはどういうことなのでしょうか。この一見素朴ないとなみに、非常に多大な労力を使わなければならない状況があります。「苦しい」のだけれど、自分の苦しみの正当性が見いだせず「感じること」を失ってゆくということ。不登校をする子どもが苦しむことすら許されないと感じてしまうのはどういうわけなのでしょうか。人がそもそも感情を「感じる」とはどういうことなのでしょうか。学校に行きたくない、と思うより先に「生きていたくない」と先に思ってしまう子どもがいるということから、「感じる」ということにすら、ある種の規範、バイアスが染み込んではいないだろうか、と思います。
  そのバイアスとはいったい何なのでしょうか。それは看護婦さんが笑顔を要求されるような、他人からの要請からうまれる「抑圧」なのか。またはそれは幼少期の「トラウマ」からの抑圧という「物語」を信じればよいのでしょうか
 ここで、考えたいのは「感じていること」と他人からの要請によって「感じなければいけないこと(または感じてはいけないこと)」と二分割できるような枠組みのみで感情の表現について考えることができるかどうかということである。この「感じること」そのものの段階からある種の規範というものはないのでしょうか。
  感情というものは「自然」なもので、これに逆らうことは偽りの自分を演じることだ、という考え方があります。しかし、この感情というものはそんなに「自然」なものなのか、という問題提起をしたいのです。
 はたして「本当」の感情というものがあるのかどうか、それすらわからなくなる状況に追い込まれていくとはどういう事なのか、を考えてゆきたいのです。
 不登校の場合、その感情のありかが見えぬまま、ある日身体的な「痛み」へと追い込まれてゆく時があります。身体レベルから身動きがとれなくなってしまうのです。
それはヴェイユの言う「不幸」の概念に似たものとなっているのではないでしょうか。ヴェイユのいうところの、不幸とは、感情ではなく状況なのだと言えると思っているのですが、これ以上、この不幸の概念についての話はするのは止めて、次に話を移したいと思います。

「不幸はたましいの奥ふかくに自分自身へのさげすみと嫌悪と反発と罪悪感と汚辱感とを刻みつける」
「不幸の攻撃に襲われたものは・・・自分たちの身に起こった事柄を言い表すに足る言葉はあり得ない」
(S.ヴェイユ)

4.感情を感じる瞬間
先程お話しした感情の「バイアス」とは何か?という疑問は常にあります。私の場合不登校の根本的な「理由」というものをくっきりと描くことが、いまでも出来ません。学校の先生や友人や、ましてや、家族が理由というのでもありません。非常に漠然としたアノニムな、「佇まいとしての学校」に後ろから羽交い締めされたような、対象の見えないものへの心の動揺であったような気がします。それゆえ、自分が何にどのように感じているか、ということも分からなかった、とも言えるのかもしれない。感情が分からなかった、と今まで話を続けてきたのだが、分からない必要があったともいえるのかもしれません。対象がないということと、「感じることができる」というのは、連動しているとも考えます。
 苦しみを感じられる瞬間、(それは言葉に出来ることとほぼ同義としてここではいってしまうのですが)は、本当に学校が嫌だ、と思った瞬間なのですが、それはどこか、解放感に似たものがありました。苦しいのだと感じほぼ同時に言葉に出来た瞬間苦しくないという、パラドクスが生じていました。しかし、それにしてもどのようにして苦しみを「感じられるのか」ということはこのわたしの発表の中では謎のままとなってしまっています。
   すくなくとも感情とはただ、自然にあるものとは、考えがたい。感情の向くその先が「対象化」されることも、その感情を「感じる」一つの機縁となるのかもしれない、と考えます。(つまり、この場合では学校が嫌であるという、その「学校」を指すのですが)感情とは、自然にあるというより作り出されてゆくものなのだろうか、と漠然と考えもします。それが「誰に」そして「どの様に」なのかという問いは、その「子ども」の感情の表出される(更に他人に表現してゆく)その過程においては答えは見えないものなのかもしれません。ただいえるのは、感情は個人の問題でありながら個人を超える問題として、子どもがその中に生きているまわりの他人や社会への言及がなされるべきなのかもしれない、ということです。

おわりに
 不登校の問題における個別と普遍という問題は、「当事者」からの視点としては、常に七月の発表から「個別」にこだわる、という視点で、そこから垣間見える普遍性を考察してきたつもりでした。二回目で山田先生のおっしゃった(それは学校の先生に対する親の会で取っている態度として説明されたものなのですが)「ほっといてほしい」という態度そのままに、親や先生といった立場が象徴している外の世界を排除したようなあり方に見えたかもしれません。しかし、その親も先生も手出しできない領域をあえてしめすことによって、「子ども」という「不安定」でありつつしかし、この世界に生きている存在をアピールすること、(それを結局大人になった私が説明しているのですから根本的な矛盾をはらんでいるのかもしれませんが)さらにはその子どもである「当事者」の立場からの「個」でもない「普遍」でもない、という天の邪鬼な視点へのこだわりが理解していただけたらありがたいと思っています。
*1998年12月「臨床哲学研究会」にて発表した内容をまとめたものである。

書評『不登校新聞』について
     
 『不登校新聞』-- この名前を最初に聞いて人々はどのような印象を持つだろうか。しかも、それがミニコミ紙ではなく、全国ネットの新聞となって登場したということについて。  別に何の感慨も抱かない、という人ももちろんあるだろう。「不登校」という事柄にかんして、興味がないということそのものは責められる性質のものではない。  ただ、不登校と新聞というメディアが結びついていったその背景、思いというものに想いを馳せる瞬間があってもよいのではないか、とも考える。  「不登校」というものは常に、誰かから(それは文部省や医者や、教師などに)定義されてきたものであり、その眼差しから、生まれた言葉だけが、マスメディアや、さらにそこから個々の人々に語られてきたものだった。  そこから、自分たちの言葉で語ろうとするときのその言葉の力を信じ、言葉が人を解放することを信じるひとつの表れがこの『不登校新聞』なのだと思う。 基本的に学校に対する態度としては「学校に行かなくてもよい」という意見人を中心としてつくられた新聞であると窺える。「学校に戻す」という言い方に見られる単一的な発想はない。ただ「学校に行ってはいけない」とか「学校なんてどうでもよい」という論調にとられがちの側面も持っているようだ。「学校へ行っても行かなくても」良いのではないか、というしなやかさの基盤が、この社会や個々の心の中のどこにあるかを見極める姿勢を大事にしてほしい。  実際の新聞の構成は、教育に関わるトピック(少年事件や裁判について)の独自性、またその視点に独自性がある。たとえば創刊号(5/1)では'96年1月に起きた金属バットで長男を殺した実父に対する実刑判決について一面で取り上げられ、(これを一面で取り上げる大新聞はすくないであろう)最近の号では「子どもの人権オンブズマン制度を導入」が見出しとなって踊っている。ただ、題字や若者のページ、インフォメーション欄などの「型」は従来の新聞の作り方に似ている。「不登校新聞」といういわば、常に語られてきた立場のものが語り出すメディアとして、もう少し冒険心があってもよいと思う。たとえば、ある号では、すべて若者のページにしてしまうとか。また不登校新聞には不登校をしている本人、親、それをとりまく様々な立場の人々が関わっているはずである。そのそれぞれの立場の行き違い、葛藤などを丁寧に追うという非常に「個的」な(もちろんそれを記事にする際には最大限のデリカシーを必要とすることを痛切に感じるが)側面と「不登校」がこの私たちの生きている世界のあり方とどう関わっているのかというマクロな側面とがより際だつ記事の作り方をしていってほしいと願う。  私自身、「不登校」という経験を言葉にすることの難しさ、またそれがメディアというものによってある鋳型にはめられてきたことに、抵抗を感じてきたものの一人である。  しかし、そこで言葉そのものを放棄するのではなく、「新しい」言葉、既存のマス・メディアのあり方に乗らない「言葉」人を力づける「言葉」をその新聞の中で光らせて欲しい。  最後に教育について書いた、フェミニストで詩人のアドリエンヌ・リッチの言葉で締めくくりたい。それは不登校をしている(していた)人に、そして、この新聞に関わっているすべての人へのエールとして。  「私たちの言語そのものが私たちの社会の質によって毒されているという事実が意味するところは、学生に使いこなせる力を付けたいと思っている道具がいかなる種類のものなのかを、私たちは鋭く意識する必要があるということ、その道具がこれまでいかに彼らの不利になるように使われていたかを理解すること、そして彼らが言語をいつの日か、他者を沈黙させ無力にしておくために利用するようなことが絶対にないよう、出来るだけのことをすることなのである」(1998年11月20日個人的にメモしておいたもの)

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