
『快楽電流』(注:書評ではなくメモです)
『百合祭』
『荒馬と女』
.『フランシスコ・X』
『ベツレヘムの星』
『私の仕事』
『自閉症の息子と共に』
『快楽電流』
新しい自由と豊かさ・・・まだ目に見えないものだけれど
異常に久しぶりの更新である。というか、自分にHPがあったことすら忘れていたというか。
今年もまたレズビアン&ゲイ映画祭に行ってきました。青山通り、骨董通りをうろうろしながら・・・。
それにしても一年ぶりにまた浜野佐知監督に会うことがあろうとは・・・・といっても知り合いではない。レズビアン&ゲイ映画祭にて彼女がトークセッションを去年に引き続き行ったからなのだが。
そのセッションをみていたらこのあいだのレズビアン&ゲイ映画祭で『百合祭』を見たときと、あまりに変わらぬ自分の状況があまりに不甲斐なくてなんだか涙が出てきてしまった。続いて二本の映画を見た。一本は赤ちゃんを作ろうとしているレズビアンカップルのドキュメンタリー、もう一本は自分がレズビアンもしくはゲイであると意識しカミングアウトをしたことをいろいろな人が語るアイスランドのインタビュー映画である。
正直、生きることにひととかかわることに苦しさをともないながらも真面目に向き合う、それも当たり前に向き合っていることがいいなあと思えた。レズビアンカップルとして子どもをつくり、家族をつくろうと奮闘している姿も、その苦悩が羨ましく思えた。カミングアウトの苦悩すら羨ましいなんて、よっぽどあたしはまずいところにいると思った。ひとを羨ましがるときはたいていやばいときだ。
生きていこうとする苦悩、ひととかかわろうとする苦悩、それらが羨ましい。なにせいまのあたしは・・・
などと八つ当たり&お門違いな感想を抱きながら、その会場内の図書館にふと立ち寄って、藤本由香里の『快楽電流』を借りる。
これが発売されたとき(1999年)にも友人に借りて読んだのだが、いまよんで改めて身につまされた。あたしの苦悩は結局ここにあるんだなあと思った。
己と向き合う意味でも、趣き深いので引用してみる。書評というより今回は己へのメモである。
これは私の友人の場合なのだが、彼女はもう十年近く、三角関係の立場におかれている。つまり恋人には本命の彼女がいて、結婚はしていないものの二人は半同棲関係にあるらしい。そして、ここが肝心な点なのだが、彼は本命の彼女とは性関係がなく、逆に彼女とは、かなり頻繁に定期的な性関係をもっている。彼は彼女とのセックスをかなり高く評価していて、実際にそう口にする。二人の間にはかなりの経済的な格差が存在するが、金銭的援助は一切受けておらず、一緒に食事をするときでさえ基本的にワリカンだという。
最初の頃はいつか逆転する可能性も・・・と思って関係を続けてきたが、これだけ長く付き合っていると、この関係の不公平さがしだいに頭をもたげてきた。それになにより、今のような関係を続けていると「お金をもらってはいないけど、なんだか自分が馴染みのソープ嬢かなんかになったような気がする」と彼女は言う。
「それでいっそのことお金でももらったほうが、却って割り切れてさっぱりするような気がしてきたのよね。もちろん、そんな要求を実際にしたりはしないけどさ。で、相手の男っていうのが、ぼくはお金や権力で女の人を自由にするのはよくないと思う。でも、相手の愛情につけ込むことは悪いとは思わない、って言うのよ。でも私に言わせればそんなもん、ちゃんとお金を払うほうがよっぽど誠実だって気がする。そんな話を女友達にしたらね、『それおかしいわよ、娼婦みたいな考え方よ』って言われちゃって。やっぱりヘンかしらね、私」
さて、ここで問題、もし実際に彼女がお金を受け取ることになったとしたら、それは、彼女が売春した事を意味するのだろうか?
(中略)
お金をもらうことで彼女は何を失うのか。
私は、彼女はその関係がまともな結婚へ通じるという可能性を売るのだと思う。つまりそれは、相手からの特別な顧慮を要求する権利であり、正式な恋人として扱われる権利である。そして、酷な言い方だが、じつは彼女は最初からそれをもっていなかったのだ。
(中略)
それでは<結婚制度>とはつまるところ一体何か。それは、「女が特定の男の庇護を受けること」である。その条件を満たして初めて彼女は、「まともな扱いを受けるに値する」女になる。言い換えれば、「特定の男の正式な庇護を受け」ていない女は、潜在的に売春婦だとみなされている、ということである。先に登場した彼女が抱いてたのもまさにこの感覚だった。そして、性関係をもてば当然期待できる男からの庇護・尊重を明確に放棄した証として売春婦には金銭が支払われるのだ。
(中略)
「私は売春婦とは違う」とは言いたくない。「売春婦はその尊厳をも売り渡している」という売春の潜在的な定義は、人々の心の中で書き換えられなければならない。「売春婦は、ただ性的なサービスを提供しているだけであって、尊敬される権利を売り渡しているわけではない。売春婦も、十分な愛と尊敬を受ける権利がある
いやあ、泣けてきましたねえ・・・・。
己の固有の苦悩なんてものは逆にあんまりなくって(それこそひきこもりだって、一見個人の苦悩と思えるものが、いかに社会的なものであるかを考えるだにびびる)構造ってもんがいかに個人のなかに縦横にはりめぐらされてるかってことの証左に思える。
それでは最後はまた引用で。
”特別な関係”というのは、決して形の上で<対>として選びあう事ではなく、いかに相手の独自性を認め、相手と向き合い、二人の中で共通する「何か」をつくっていくことができるかにかかっている。その「何か」がどんな形を取るかはそれぞれだろうが、それが、世間一般の"恋愛”概念の中で、切った張ったや嫉妬や攻防戦をいくら繰り返していても得られないことは確かである。
そして、本当にその「関係の独自性」を見つめられるようになったとき、女性は新しい自由を、男性は新しい豊かさを、手に入れられるのではないだろうか。
突然ですが、今回は私的・映画批評です。一号でいきなり書評を書いてその後続いていないように、今回もこれでまた終わってしまいそうですがよろしくお願いします。
この『荒馬と女』という映画は不思議な映画だ。クラーク・ゲーブル、モントゴメリー・クリフト、そしてマリリン・モンローと錚々たるスターが出演しているのにも関わらず、さらにはゲーブルとモンローにとっては最後の出演映画であるにも関わらず、この映画についてのはっきりしたコメント、映画評などにほとんど出くわしたことがないのだ(誰か知っている人がいたら教えてください)。『七年目の浮気』や『お熱いのがお好き』などモンローのコメディエンヌとしての才能が光る映画へのそれ相応の賛辞があることは構わないが、この映画に関してはなぜかファンを含めて沈黙を守っているような気がしてならない。
この『荒馬と女』は邦訳のタイトルで、原題は" The misfits"である。「不適応者たち」というのが直訳である。
しかしそんないわば「メジャー映画であるはずのマイナー」映画が、たまたま12年前の夏、わたしの故郷の映画館でリバイバルしていたのは、何の偶然だったのだろう。
高校を中退する前の学校に行かず(行けず)、家にもなるべくいたくないわたしの好きな場所の一つは映画館だった。薄暗い映画館のなかの10人足らずもいない観客のひとりとしてスクリーンの前に陣取り、噛みつくように見ていた。
とはいえ、そのときの感動は、極めて断片的なものだった。たとえば、
「こんな綺麗な人を見たことがない」とまず思ったこと。
そのときまで、テレビに出てくるアイドルなども含めて、人の外見に心惹かれ、感動したということがあまりなかったのだが、彼女の表情、からだつき、アルトのかすれた声、くるくると巻いた金髪、ひとつ、ひとつが「生きている」人間として迫ってきた。
これはつくりごとの映画の世界、それこそモンローは「つくられた女」として演じつづけたハリウッドの女優なのに。なのに、そのスクリーンのなかで動くからだは、何か生き生きとわたしを元気づけてくれるものだった。その理由のひとつとして、このあいだ中飯さんが取り上げていた「生きているはだか」という話しとも関係するけれどこの頃のマリリンはけっこうぷよぷよしていて、ビキニ姿のシーンがあるけれど、お腹のあたりなどは、「普通の人」のように肉がある程度ついていた。だけど、それもとても可愛らしくみえたのだ。
そんな綺麗というか可愛いというか、そんな存在が、広い砂漠をバックに、布を切り裂くような叫び声を挙げながら、怒鳴りつけるシーンがある。
「嘘吐き、殺し屋!!自由!?あんたたちの大事にしているものなんてくそくらえ!!無感覚人間!!馬が殺されるのをあんたたちは見たいだけなんだ!」
彼女に絡む三人のカウ・ボーイたちが、馬を残酷な仕方で捕らえる事に対する、怒りと叫びの表情。これも断片的に印象に残ったもののひとつだ。
ストーリーは、モンロー演ずる離婚した女性ロズリンと彼女を巡る3人の男たちの話である。この3人の男たちは、ロズリンをひとりの人間としてでなく「母のように、妻のように、娘のように、『俺を助けてくれる女』」として執拗に求めている男たちであり、そんな彼らに常に付き添うことを選んでしまうロズリンは、とうとう彼らの野生の馬のハンティングにまでついていってしまう。その馬が狩られるところを見た際に叫んだセリフがさきほどのものである。その叫びは、間違っても「愛らしい泣き方」などではない。虚飾めいたものは一切かなぐり捨てたような泣き声だった。とても「男を誘う」甘い涙などというものではない、己の全てを賭けた泣き顔と叫び声だった。
そして12年後。改めて今度はビデオで見る機会があった。
彼女は相変わらず美しくわたしの目に映った。しかし、最後のシーンで男たちに(この男たちがクラーク・ゲイブル、そしてモントゴメリー・クリフトその他なのだが)泣き叫ぶシーンのみならず、ひとつひとつの言葉がまさに発せられるべきところに発せられるような、そういうセリフで構成された映画だったのだ。
「知ることって、好き」「(ある男に向かって)あなたはなんて感じやすい人(sensitive man)なの?爆弾を自分で落としても、自分自身をあわれみ続けるだけなんだわ。」(センシティヴという言葉がこんな痛烈な悪口になるとは知らなかった)。
どうしてもマリリン・モンローの人生と重ねてみてしまうのだけれども、さきほどの泣き叫ぶシーンは「感情的」シーンでは実はかった。それが今回発見したことだ。つまり「泣いている」=「感情的」という枠組みが、いやもっといえば「感情」=「言葉では説明できない」と判断するこの世に流布されてるような「イメージ」は全然違う、ということだ。
「お金のため、そして仕事がないからだ」と馬を狩ることを止めようとするロズリンに男たちは説明する。「感情的ではなく、冷静に」説明する。しかし実はいわゆる「自由人」であることをやめさえすれば、実は仕事はある。そしてロズリンが映画の中「賭け」に勝つシーンがあるのだが、そのお金をロズリンは彼らに差し出そうとさえする。そしてその額は馬を狩って得られる額よりも高額ものだったのだ。結局男たちは「お金のため」でも「仕事がそれしかないから」でもなく、「プライド」と「馬を殺すことをしたい」というそれだけのために、野生の馬を狩ったのだった。
しかし彼らが決して口にしないもの、冷静に「嘘をついて」口にしなかったものは自分のプライドゆえに馬を殺した、ということだ。彼らは決してそこに、言葉をロゴスを見出そうとしない。
そして彼女はロゴスを、言葉を使って叫んだのだ。「嘘吐き!」と。
そのような「言葉」は彼女みずからを救い得るはずだった、とわたしは信じたい。
しかし、ひとつ気になることがある。というのもこの映画の最後はとても奇妙なものなのだ。クラーク・ゲイブルに別れを告げてたはずなのに、ゲイブルがマリリンに「憐れな」そして「優しい」言葉を二つ三つ交わしたすぐ直後に、マリリンは「彼の子どもを生みたいわ」と、言う。そしてマリリンはゲイブルに寄り添い「男と女が結ばれたハッピーエンド」として終わってしまうのである。
これはハリウッドを意識した商業的な意味から、このようなエンディングになったのだろうか。ある意味で「それだけのもの」だとわたしは信じたいけれど。
このマリリンの叫びとしての「言葉」「ロゴス」もある装置に吸いこまれるような・・・例えば、「誰かが傍にいなきゃだめだよ。ひとりでいるって結局寂しいだけだよ」などというつぶやきに全てが統合されるとき、多分わたしは言葉を捨てるだろう、哲学もしなくなるだろうと今は思う。それだけははっきりわかっていることだ。
ミニコミ"Oui-da"10号掲載 2001年6月
この本はフランシスコ・ザビエルという一人の宣教師を軸に、キリスト教と同時に鉄砲をはじめとした「商品」が日本に入ってきたという事実と、それら二つを日本人がどのように受け止めたかを描いた小説である。日本の、特に権力者が「鉄砲」を手に入れる道具として「キリスト教」をみなしていたその事実が、400年以上経った今の私たちに何を投げかけているのをこの小説は改めて問い質している。
「『私は地上に分裂をもたらすためにやってきた。息子は父にそむき、娘は母と対立し、隣人同士は敵対するようになるだろう。』その言葉に従い、宣教師たちは、家族や隣人を結びつける絆を断ち、他人同士を結びつけるようにした。」
フランシスコ・XのXは確かにザビエルの(Xavier)の頭文字だ。しかし、何故敢えてXの頭文字を用いたのかが、ここを読んでおぼろげながら見えてくる気がした。
というのも苗字とは、その人間の「家」を代表とする、いわば所属を表すものだが、このXという頭文字によって、彼の「所属」の問題を明らかにできるからだ。
フランシスコ・ザビエルは、スペインならびにフランス両国の支配を受けた地域、ピレネー山脈の麓、バスクに生まれた。スペインやフランスなどの国家への帰属意識は薄かっただろう。彼は死ぬ直前、周囲の人間には理解できない「バスク語」しか話せなくなったという。さらに彼はザビエル家を捨て、名誉も安寧も捨てイエズス会に入会した。いわば彼が所属しうるのはキリストの共同体のみ。キリストの頭文字はギリシア語ならばXだ。それでも通常のヨーロッパに住む人間であればそれは名誉なことだ。まさに彼がカトリック教会に列聖されたごとき名誉だろう。
しかし、彼は本当の意味で居場所がない、それゆえ他人同士と結びつかざるを得ない異邦人(エトランジェ)の経験をその宣教活動ゆえに余儀なくされる。それは単に故郷を離れたという意味ではない。商品、または資本という国家を超えた力を利用してフランシスコが宣教活動を進めていったからだ。それによってキリストの教えが多少皮肉なかたちで具現化された。
というのもそのおかげで、家族や国家、さらにはヨーロッパ的な社会(恐ろしいことにカトリック教会も入ってしまう)の枠組みを、彼は良くも悪くも超えざるを得なくなったからである。ポルトガル国王に牽制球を投げ、はたまた鉄砲をはじめ、様々な商品や資本を運ぶ「マラーノ」と呼ばれる商人 -- カトリックに改宗した、あるいはさせられたユダヤ人を指す言葉で、彼らもまた国を持ちえず、カトリック教会をはじめヨーロッパ社会から差別されてきた者として描かれる -- と駆け引きを行う。ヤジロウという日本の武士社会からはみ出した人間とのやりとりから日本での宣教は始まった。そのような政治と経済と宗教のどろどろの果てに、彼は種子島にたどり着いた。「鉄砲とキリスト教」という奇妙な組み合わせはこのフランシスコの現実から生まれたのだ。
だが、そのような状況の人間はある意味では当然、「わけのわからないもの」として遇される・・・まさにわけのわからない「X」の存在として。彼がいったい何者として日本にキリストを伝えたのか。そして私たち日本人が、どのように彼をみなしたのか。その両方の意味がこの「X」に込められているのではないか。
ひとは「わけのわからないもの」に耐えつづけることは通常できない。曲解してでも、自分にとって「わけのわかるもの」に還元してゆく。
「資本のお陰で、新しい神(キリスト教のこと:引用者注)は広く世界に浸透した。新しい神を拒んだ者たちも、資本を拒みはしなかった。宣教師たちは資本の帝国を作るよりは、魂の共和国を築こうとした。しかし、何処へ行っても魂は買収されていた」
多くの日本人にとって信仰とはわけのわからないものだ。だからこそ武将の代表格である徳川家康は信仰と交易を分割させ、信仰を身をもって問うキリシタン達を迫害した。
「武将たちは、大洋を渡る公開技術や造船技術、戦を有利に進める武器、精のつく肉食を貪欲に求めた。だが、信仰だけは無用だった」
この小説は最後、このように締めくくられる。
「十七世紀も末になると、日本の銀の生産量は激減し、世界の海を跨ぐ交易帝国を出し抜こうとした日本も国を閉じ、太平と退廃の極みに嬉々としてひきこもってゆく」
今、資本も貨幣も情報も、国家を超えて動いている。それは、「わけのわかるもの」として承認されている。しかし、「信仰」はいまだに「X」ではないのか。もしくは信仰は「X」のままにしておきたい事柄なのかもしれない。となれば、その「X」である信仰を伝えようとしたとき、今の日本では一体何が起こるというのだろう?日本人であり、かつキリスト者として真っ当に生きようとするならば、この「X」の文字は、痛い。
片瀬教会報『からし種』2003年4月・5月号より転載
アガサ・クリスティーは推理小説の女王として、広く世間に知られた作家である。しかしその彼女が、聖書、もしくは教会の伝統的な教えをモチーフとした「童話」をも書いていることは、あまり知られていない。
しかし、この本の解説によれば、彼女は推理小説のみならず、童話や恋愛小説など幅広いジャンルで作品を残している。さらにイギリスでは聖書やキリストの教えを題材とした絵本を、クリスマスの際に子どもに贈る「ギフト・ブック」という風習がある。その「ギフト・ブック」として、この『ベツレヘムの星』も書かれたという。
この本は短編集なのだが、そのうちの物語のひとつである『ベツレヘムの星』は、受胎告知の場面を題材としたものだ。光の天使のように輝く姿をした者がマリアにやってきたのだが・・・結末は読んでからのお楽しみ。
その他、生活に倦み疲れた女性が出会った救いを描いた『水上バス』、あるロバの運命をえがく『いたずらろば』、現在に聖人が生まれ変わったらどうなるかを描いた『いと高き昇進』などなど、5つの詩と6つの物語で構成されている。
彼女はミステリー作家として一流といわれるが、神という最大のミステリーを相手に、ユーモアや皮肉を交えながら、そのミステリー(神秘)の面白さを味わわせてくれる。推理小説の謎を解く鍵は物的証拠と動機だが、この神という最大のミステリーを解く鍵はおそらく「愛」だ。
片瀬教会報『からし種』2003年6月・7月号より転載
国家の三要素というものを皆様ご存知でしょうか。学校で習ったけれど忘れてしまったという方が多いかもしれません。国家の三要素とは、すなわち(1)領土(領海および領空を含む)、(2)国民、(3)主権(その場合の主権は、国家権力を意味する)なのですが、この(3)主権(権力)が、日本では国民にあり、それゆえに権力が国民を守り、領土の保全にもつながると思いがちなのですが、この本ははなからその思いこみを打ち破るために書かれているフシがあります。著者は本のはじまりに「私が十年の間に、中近東、バルカン、アフリカ、アジア、中南米各地での紛争をみていて思いはじめたことは、国家が権力によって領土を完全に保全し、国民の生命の安全を完全に保護できる時代は終わったということである。」とあります。この発言を信じるならば安全が確保できないからといって、「軍備を増強しなければ」とか「安全保障を強化して」という発想はあまり意味をなさなくなります。なぜなら、それはすべて「国家が権力を行使する」行為に他ならないのですから。この本は彼女が国連難民高等弁務官(UNHCR)として活動した十年間の日記、各所で行ったスピーチ、インタヴューをまとめたものですが、
その彼女の活動は、すべて先ほどの言葉を裏付けるものということができるでしょう。
おまけに「国家が安全を保障しない」というのは、国家権力がなくなったことを意味するわけではないので、国民を戦争に駆り立てる力だけは保っている場合などというのは、ままあるわけです、怖いといえばこれほど怖い状況はないのでは?と思います。
ところで最後に。キリスト教では「神の国」という言葉がよく出てきます。さて、神の国の三要素、すなわち領土はどこか、国民とは誰か、主権はどこにあるのかを考えて(もしくは"祈って")みるのもよいか、と思います。神の国の到来を述べ伝えるナザレのイエスは、ローマとイスラエルといういわば「地上の国」の権力にはさまれるかたちで十字架につきました。そのイエスを、「神の子」であり「キリスト(救い主)」と信じて、生きている立場にあるわけですから。
片瀬教会報『からし種』2003年10月・11月号より転載