幸運と機運
柊かがみの場合


いつも、探していた。
いつも、見つめていた。
けれど、見つめているだけで、
なにも、できなかった。

けれど、そんな日を終わらせる時が、やっと来そうだった。
いいや、何が何でも、来させて見せるつもりだった。



 皐月晴れと言う言葉を、まさに体現したようにさわやかな空に、白い雲が優しく流れていた。
 春から初夏へ向かう時に特有の、温かさと柔らかさを含んだ風が、私の髪と頬を優しく撫でてくれる。
 私とつかさは、いつもの駅でいつものように、いつもの相手が来るのを待っていた。
 その日も、いつもと変わらないはずだった。
 なのに、どこかで何かが静かに変わり始めている。
 そして、変わる原因を作った相手が、背格好に合わないほどの速度で疾走しながら、私達のところにやってきた。
「やあ、おまたへ〜……起きてから一五分でここまで来たよ……」
 荒い息をつくごとに、長く蒼い髪が揺らめいている。
 私は、胸の奥のどこかが大きく揺らぎ、また熱くなってきていることを実感していた。
 だが当の本人は、私のそうした反応に気づいた様子もなく、私に声をかけてきた。
 そう、本人。
 双子の妹、つかさの親友であり、その縁で私とも話すようになった、こなた。
 今となっては、どういう経緯を経て、こうして毎日駅で待ち合わせしたり、話すようになったのか、あまり明確に思い出せない。
 でも毎朝こなたと会って話すことを、いつの間にか私は、心待ちにしていた。
 話しているのが楽しくなり、待ち合わせるのが楽しくなり、やがて常にこなたの姿や声を欲するようになっていた。
 いつも、どこかで常にこなたを探し、求め続けるようになっていた。
 今も、胸の奥が微かに揺らぐのを感じながら、相手の名を口にする。
 本当は、もっと違う感情をこめて口にしたい名前を、私が鋭いイントネーションで口にした。
「こなた、もっと早く起きなきゃダメじゃない! ネットゲームだって、ずっと続けてるわけに行かないでしょう!」
「手厳しいなあ……さすが、かがみだよ」
 強い口調で言われたこなたが、弱り果てた顔で首をすくめた。
 そして、そんな顔をしているこなたの姿を見ていると、私の胸が痛む。
 本当に言いたいことは、こんなことじゃないのに。
「さ、早く行かないと遅刻するわよ」
「そうだね、お姉ちゃん」
「今日は、たぶん先生も普通の時間に来るだろうしね」
「そうか。昨日は、試合もなかったしね。ならきっと、先生も夜更かししないで来るだろうし」
 こなたが、つかさの意見に応じて指を軽く弾いていた。
 短く、かわいらしい指で、どうしてあんなきれいな音が出せるのか、ふと気になってしまい、こなたの指先に視線を合わせる。
 その時、偶然にもこなたと視線が重なってしまい、あわてて視線をそらした。
「どうしたの? かがみ」と聞かれた私は、「別に」と言ってあらぬ方向に視線を向けた。
 こなたの指先に見惚れていたなんて、恥ずかしくて口にできない。
 私は、そんなことを考えながら空を見上げていた。
 今日も、突き抜けるように爽やかな蒼空に、新緑の薫りを運んでくれる風が、心地よく流れている。
 こんな天気の良い日なら、きっと良いことがおきるような気がしてきていた。
「さ、行こう」
 私は、照れ隠しの意味も含めて、意図的に明るい声になり、こなたとつかさを促していた。

 学校に着いたのは、授業が始まる一五分前だった。
 いつもより少し遅かったけど、まあ許容範囲内といえるだろう。
 こなた、つかさを見送ってから教室に着いて窓に視線を移すと、駅の前で見た時と同じ蒼空が、私を見下ろしていた。
「どうしたんだ?」
 気がつくと、日下部が私のことを少し心配そうに眺めている。
 してみると、私自身が思っていたより、長いこと窓外の風景を見上げていたらしい。
「ん、まあね。こんな天気の日って、何か良いことが起きそうな気がして。我ながら、ちょっとセンチなこと言ってるなって思うんだけど」
「なあに言ってんだ、柊らしくもない」
 独特の発音で、日下部が笑い飛ばした。
「良いことってのは、『起きそう』じゃなくて、『起こす』モンだろう? おとなしく『何かが起きる』のを待ってるなんて、らしくねえぜ」
 日下部は、笑いながら荒っぽく肩を叩いてくれた。
 そして、ふと真顔になった日下部が、私に言い足してきた。
「気になることがあるなら、真正面からぶつかってみろよ。何だかんだ悩むなんて、柊らしくねえさ。センチもインチもヤードも関係ねえよ。だいたい、悩むより行動する方が良い結果が出るもんだぜ」
「日下部」
「なんだよ?」
「ありがと。恩に着る」
 私は、短く言い置くと、隣の教室に向けて歩き出した。
 走るほどの距離じゃないので歩いていくけど、その速度が明らかに増してきているのを実感する。
 私自身、隣の教室に近づくごとに気分が高揚しているのも自覚していた。
 我ながら、その現金さに呆れてしまうが、同時に確信もしていた。
 日下部の言った通り、悩むより真正面から向かう方が、たぶん私らしい気がする。
 もう授業が始まる直前だったが、たとえ一分一秒でも惜しかった。
 一刻でも早く、私の意志と意向を、伝えたかった。
「こなた、いる?」
「あれ、どうしたの? もうすぐ授業が始まるのに」
 つかさ、みゆきと何かを話していたこなたが、不思議そうな様子で私を見上げてきた。
 その大きな緑翠の瞳を向けられただけで、私の意識のどこかが大きく揺らぎそうになった。
「ちょっと大切なことを伝えに来たのよ。すぐ戻るから」
「了解。で、大切なことって?」
 何とか落ち着いた声を装いながら私が言うと、こなたが軽く頷いてから尋ねてくる。
「お昼休みに、ちょっと付き合ってほしいの。話があるから」
「え?」
「じゃあ、また後で」
 ほとんど一方的に、こなたの返答も待たずに告げた私は、すぐ身を翻して教室を後にした。
 もし少しでも長居していたら、恐らく授業を受けるどころじゃなくなるから。
 とにかく、もう後戻りできない。
 これが歴史作家なら、「ルビコン河を越えた」とでも言うかもしれないが、あいにく私は、そこまで事態を叙情的に語る才に長けてもいないし、演出が巧みでもない。
 けれどこれから先、迷うひまもなければ、考え込む余裕さえないことは、明らかだった。
 私が教室に戻ると、すぐ授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いてきた。

 お昼休みまで、どういった授業があったのかよく覚えていない。
 ただ、峰岸のフォローのおかげで、大きな失敗をせずにすんだ。
 あとで、何かしらお礼をしなきゃいけないが、ともあれ先に済ませたいことがある。
 今の私には、その一心だけだった。
 いきおい、表情も自然と険しくなり、また歩き方も荒々しくなってきていた。
 片手にお弁当箱を持ち、大股に歩きながら教室にやってきた私の姿を見たつかさは、「まるで道場破りにやってきた流れの剣士のようだった」と後で教えてくれた。
 教室中に響くような足音を発しながら私は、こなた、つかさ、みゆきの座っている席に向かった。
「い、いらっしゃい」
 妙に緊張した表情になったこなたが、固い笑顔を浮かべて言った。
 私は、何も言わずお弁当箱を机に置くと、「いただきます」も省略してふたを開け、ほとんどかき込むような勢いでお弁当を食べ始めた。
 そんな私の様子を見て、こなた、つかさ、みゆきの三人は、呆気に取られた様子で固まっていた。
 特にこなたは、呆れながらも私のことを心配そうに見つめてくる。
 まったく人の気も知らないで……と考えているうちに、だんだん怒りに近い感情が湧きあがってきた。
 とにかく、史上最高速の勢いで昼食を終えた私は、こなたに視線を向ける。
 まるで、空腹の猛獣に睨まれた小動物さながらに、こなたが私に怯えた眼線を返してきた。
 こなたのそんな顔立ちを見て、私の胸の奥底に潜んでいる凶暴な何かが叫び声を上げそうになったが、強引にねじ伏せた。
 そして、何とか無理に笑顔を作って尋ねる。
「こなた」
「な、なにかな? ちょっと恐いんだけど」
「朝に言ったわよね、話があるの。ちょっと来てくれる?」
 こなたは、不安と心配の表出した面差しで、小さく頷いた。
 
「どうしたの? 朝から何か変だよ、かがみ」
 私に連れられて、校舎の影にある一角にやってきたこなたが、心配そうに声をかけてくれる。
 その大きな緑翠の瞳に見つめられただけで私は、だんだん平静を保つ自信が薄れてきていた。
「いったい誰のおかげで、変になったと思ってるの?」
 私は、どうしても昂ぶりそうになる気持ちを落ち着けるため、意図的に大きな溜息をついてみせた。
「?」
 私の言葉に、こなたが長い髪をなびかせながら首を傾げた。
 その姿が、私の奥底にあるどこかを、強く刺激する。
「まったく、あんたと付き合ってから、変なことばっかりよ」
「え?」
 こなたは、翠色の瞳を少し大きくして、私に聞き返してきた。
「どういうこと?」
 こなたの返答が、なぜだかひどく腹立たしく思えてきた。
 そして私は、思わずこなたの両肩をつかんでいた。
「『どういうこと?』じゃないわよ! いつもいつも、私の宿題を丸写しにしてるだけで、授業中ほとんど寝てばかりで、学校から帰る時に、いつもどこかのアニメショップに私を連れて行って、おまけに私にも変なこと吹き込んで!」
「か、かがみ?」
 まくし立てている内に、胸が熱くなってきて、なぜだか涙がこぼれてきた。
「私が! 私が何で! こなたの面倒を見なきゃいけないの! みゆきだっているし、英語ならパティだっているじゃない! それを」
 そこまで言ったところで、こなたが私の手を強くにぎりしめた。
 次いで私より背が低く、私より体重も軽いのに、両肩にかけた手を簡単に外してみせる。
 今さらながら、こなたが格闘技(古武術らしい)を習得していたことを思い出した。
「かがみ」
 こなたの声は、私が今まで聞いたことがないほどくらい重く、深く、悲しく聞こえた。
「ごめんね。知らない間に私は、かがみに甘えてたんだね。いつも付き合ってくれているから、調子に乗っちゃっていた」
 こなたが、私の瞳からこぼれている涙を優しく拭き取ってくれた。
「いつも厳しくて、時々やさしくて、私の心配をしてくれるかがみに、私迷惑かけてばっかりだった」
 涙を拭いてくれたこなたが、軽く背伸びをして、私の頭を撫でる。
 いつもならば、そうしたことをされても恥ずかしいだけだったが、今の私は、そうした仕種がとてもうれしかった。
「かがみの言う通りだよね。これから、みゆきさんやパティに頼んでみる。わざわざ別のクラスから私が来たんじゃ、 迷惑だもんね」
 両眼に深い憂色を宿し、重い口調で告げたこなたが、私の頭を撫でていた手を放した後で、ゆっくり頭をさげた。
「ほんとに、ごめん。これから、かがみに甘えたりしないから」
 ちがう。
 私は、初夏の陽射しを浴びてきれいに光る蒼い髪を見つめながら考えていた。
 こんなことじゃない、私が言いたいことって。
「かがみ?」
 顔を上げたこなたが、心配そうに私を見つめてくる。
 その表情と声が、引き金になった。
私は、相手の身長に合わせて軽く腰を落とし、思い切り足を踏み出した。
「か、かがみ?」
 いきなり私に抱え込まれ、こなたが驚きと戸惑いの声を上げる。
 でも私は、すべてを無視してこなたに言った。
「逃げるの?」
「?」
 まだ事態が掴めていないこなたに、さらに言を重ねた。
「私に、さんざん世話になっておいて、『はい、さようなら』ですませるの? ずいぶん恩知らずな真似するじゃない」
「でも」
 こなたが面を伏せ、蒼く長い前髪が微かに揺れた。
 その表情が、また私のどこかを刺激する。
「だいたい、私にたくさん迷惑をかけておいて、あっさり身を翻して、それで済むと思ってるの?」
「じゃあ、私」
 困り果てた表情のこなたに、私の意識にあるどこかが、沸点に到達した。
「どうしたらいいって? そんなの、決まってるじゃない!」
 沸点に達していた思いが、言葉のかたちになって噴き出した。
「私と一緒に居なさい! 学校だけじゃないわ、放課後も休日も、学校を卒業してからも! これから先、ずっと、ずっと、いつまでも!」
 私は、私自身でさえ思いもつかなかった言葉を発していた。
 驚いて面を上げたこなたに、怒鳴るような勢いで言い続ける。
「でなきゃ許さないんだから! これまで私のこと引っ張り回して、付き合わせたくせに! だったら少しは、私の要望も受諾しなさいよ!」
 叫ぶように話しているうちに、再び涙がこぼれだしていた。
「かがみ、それって……」
「だめなのよ!」
 私は、こなたの意見を、大声でねじ伏せた。
「私は、私は、こなたがいないとだめなの! マニアでオタクで、ネットゲームばかりしてるあんたがいないと! だから」
 私の口は、そこで強制的に閉ざされていた。
 とても甘く、柔らかい何かに。
 眼の前に見えるのは、こなたの蒼く長い髪。
 背中には、こなたの小さな手と、引き締まった腕の感覚。
 そして頬には、こなたの微かな息づかい。
 私が、どうして言葉を出すことができなくなっていたのか、事態を理解するまでに一〇秒ほどの時間が必要だった。
 その間、私もこなたも、微動だにしなかった。
 しばらくして、ようやく気がついた。
 私の口に触れている柔らかく優しい感触は、こなたの唇だってことに。
 そのことに気がついた私は、こなたに倣って眼を閉じ、両腕をこなたの首に絡みつけていた。
 こなたの甘い吐息が私の頬にかかり、私の胸の奥を強く刺激する。
 私は、こなたの艶やかな蒼い髪を撫でながら、静かに過ぎ去る時間と、唇の感触を味わっていた。
 やがて、こなたの方から静かに唇を放し、全てを包み込むような優しい笑顔で、
「落ち着いた?」
 と、聞いてきた。
「ん……」
 私は、今ごろになって頬が熱くほてってきたことに気づきながら、ゆっくり頷いた。
「ごめんね、急にこんなことして。でも何て言うかさ、見ていられなかったから」
 右人差し指の先で唇をなぞり、感覚を確かめている私に、こなたが珍しく心配そうな声で話を続けていた。
「かがみ、私のことですごく苦しんでたみたいだし。なら、私ができることって、これくらいしかなかったから」
 私は、何も言えないまま、こなたの優しい声を聞いていた。
 聞き慣れているのに、とても耳に心地よく、いとおしく感じられた。
「かがみ、聞いてくれる?」
 こなたの問いに、私は黙って頷いた。
「私も、かがみと一緒にいたい。これから先に何があっても、かがみと離れたくないよ」
 こなたが、ひどく真剣な表情で、私を見上げて告げた。
 続けて、不意に自信のなさそうな顔になって、眼をそむけてから、言を紡ぎ出す。
「ごめんね、私が思い切って言い出さなかったから、かがみを苦しめちゃって」
 とても殊勝な面差しのこなたを見ているうちに、私は今までにないような感覚を覚えていた。
「何だか、バカみたいね。私」
 苦笑いをしながら髪をかき上げた後で、私が言い添えた。
「こなたも、私のことを想ってくれてたのに、気づかないで独りで暴走して」
「ごめんね」
「謝ることないわ。むしろ、うれしかったから。だって」
「うん、そうだね。両想いって気づいたんだから。お互いに」
 私は、何だか急に照れくさくなって、顔を赤くしながらうつむき加減に話していた。
 こなたも同様みたいで、私と似たように顔を赤くして、少し上眼遣いの姿勢になっている。
 でも私の胸は、恥ずかしさをずっと上回るほどの充足感に満ちていた。
「あ、それとね」
 こなたが、ふと何かに気づいたのか面を上げた。
「?」
「この際だから、はっきり聞いてくれる?」
「なにを?」
 私が首を傾げると、肩に髪がかかって少し左右に広がった。
「うん、あのね」
 こなたが、肩にかかった私の髪を手に取って軽く指に絡めたあとで顔を上げ、ゆっくり重々しい声で告げた。
「私は、泉こなたは、柊かがみを、誰よりも大切に思っています。世界中の誰よりも」
 いつになく真剣な顔立ちと、まるで裁判官が判決文を読み上げるような厳かな口調で、こなたが私を見据えて言ってくれた。
「こなた……」
「私、オタクでマニアでネトゲばかりしてるけど」
 恥ずかしそうに顔を赤くしながら、後頭部を掻きつつ、こなたが続けて言った。
「これからも、かがみの傍にいたいんだ。その、たぶん、あの」
「はっきり言ったら? こなたらしくもない」
 こなたは、私の問いにひどく居心地が悪そうな表情になって、
「かがみは、意地悪だなあ。私が何を言いたいか気づいてるのに」
「そんなに器用じゃないわ、私だって。まあ、こなたが何を言ってくれるのか、見当がつくけど。でも、やっぱり本人から聞いてみたいし」
 こなたは、私の言葉を聞くと真顔になって「やっぱ、私が言った方が良いよね」と頷いた。
 そして、私が今まで見たことがなかったくらい真摯な表情になり、緑翠の双眸に決意の光を宿し宣じてくれる。
「私は、かがみのことが全世界でいちばん好き。ううん、これくらいの言葉だけじゃ、とても足りない。かがみの優しいところ、こわいところ、強いところ、何もかもが愛しいんだ」
 待ち望んでいた言葉を聞いた私は、しばらく何も言えず、黙っていた。
 そして、しばらくして静かに頷いて応じる。
 うれしいはずなのに、これ以上ないくらいに幸せなはずなのに、眼頭と頬、そして胸が熱くなって、何も言えなくなっていた。
「ありがとう、こなた。私、私も……」
 私は、こぼれ出た涙を拭きながら、それしか言えなかった。
 いまの私は、たぶん世界で一番幸せだった。
 私のことを、こんなに労り、大切に思ってくれる。
 こなたに逢えて、本当に良かった。
 私は、あらためて「ありがとう……」と言っていた。
 そして私とこなたは、互いの意志を、互いの唇で確かめ合った。
戻る
幸運と機運 柊つかさの場合