「忘れること」は精神の働きとしては難しいが、精神の事実としては容易い
古典時代からの西洋の伝統に「記憶術(ars memoriae)」という系譜があります。如何に記憶を保つか、という技法のことです。例えば、備忘録(今で言うメモのこと)を残したり。確かに、「覚えておくこと」の重要性は否定しませんし、現在の哲学において問題となっている「証言と記憶」という主題を想起すれば、記憶という行為の可能性の意義は、より一層深いものとなるはずです。しかし、私はそれと同時に、「忘れること」の可能性を探りたい。それは、私自身の問いとしての可能性。それを、あえて古めかしい意識哲学の立場から考えてみましょう。
そもそも「忘れる」ということは、私にとって可能な行為なのでしょうか?よく「もうそんなことは忘れなさい」といって他人を慰める人がいますが、それは忘れるという出来事の実態を捉えた言葉とは思えません。何故なら、何かを覚えておくためには、備忘録を付ける、写真を撮っておくなどといった「能動的行為」による記憶の手段が存在するのに対し、忘れるということは、むしろ、そうした能動的行為をしないこと以外に、手段がありません。言い換えれば、何かを忘れるためには、それを覚えておく行為、それを思い出す行為を「しない」という否定的手段しかないのです。従って、忘れることとは「何もしないこと」でしかありえません。
さらに、「もうそんなことは忘れなさい」という言葉を真に受けて、「それについて思い出すような行為をしない」ように「意識」したところで、そうやって意識すること自体、記憶の働きを作動させることになってしまいます。眠れない人が眠ろう眠ろうと意識している間は眠れないのと同様、忘れるためには、忘れようという意識それ自体を忘れなければいけません。もちろん、「忘れようという意識それ自体を忘れる」こともまた、意識によってなされる以上、真の忘却は存在しない訳ですが。
従って、忘れるということは、決して「精神の為す行為」ではありえません。それは、むしろ精神の内で起こる「出来事」と形容すべきでしょう。つまり、自我という意識は、自らの内で起こっている「忘却の出来事」を自分の手で行うことができないのです。精神は、自己の内に自己のなしえない過剰を抱えている、というべきでしょうか。結果、我々には「忘れる」ことはできません。私の手によって忘れることはできないのです。理論上、忘れるというのは、行為ではないのです。となると、忘却術と呼ぶに相応しい術(ars)は、存在しないことになります。
しかし、精神の働きとしては不可能であるにもかかわらず、精神の事実としては、我々は現に多くのことを忘れてしまうのです。つまり、「記憶が忘れられる」ことは可能なのです。それは、精神の内において精神になしえないはずの出来事が、事実としては生じていることにほかならず、その意味で、精神は過剰なるものによって侵犯され続けているのでしょう。むろん、その過剰なるものを意識的に呼び込むことはできません。それは、偶然の、全くもって他律的な出来事として生じるだけなのですから。
「忘れること」は精神の働きとしては難しいが、精神の事実としては容易い − 冒頭に記したこの一文が、忘却術の不可能性と可能性の全てを凝縮しています。
私には、忘れるという出来事が精神の内に到来することを祈るほかないのでしょうか。
その一方で、忘れたくない想い出まで、冷酷に流れ去ってしまうのに。
もちろん、こうした精神の不可能性を反転させ、「トラウマ的記憶を徹底操作(Durcharbeitung)」させることで、抹消するという形ではなく、乗り越えることによって、ある種の忘却術を成立させるフロイト流の考え方もあるだろう。しかし、そうしたトラウマ的記憶の問題を、日常的な記憶すべてに応用するのは如何なものだろうか。我々は、現に、常に既に多くのことを「忘れてしまっている」のだから。