archives


以下は、私の研究業績(学術論文として公刊された研究や、学術学会で発表された研究)を掲載したものです。発表形態別に分類し、それぞれ年代の新しい順に並んでいます。なお、収録雑誌の著作権上の問題などの理由から、web上ではタイトルしか公開できない研究もありますが、ご寛恕ください。

私の専門は、「近現代フランス・イタリア哲学、特にその宗教哲学的側面」だと要約できます。また、それとは別に、(経緯は省きますが)「考古学に対する哲学からの理論的貢献」という主題も、一つの研究分野となっています。

【専門分野】( ) 内は研究業績数
■ 共著(5) / ■ 論文(33) / ■ 書評(3) / ■ 翻訳(5) / ■ 学会発表・講演(33) / ■ 学会発表要旨・報告書ほか(19) / ■その他学術的活動(14)
【専門分野外】
■ 論文(5) / ■ 講演(3) / ■ 翻訳(2) / ■学会発表要旨・報告書ほか(2)

------------------------

▼ 専門分野

■ 共著

2016年度
「近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論?――聖と俗、愛と情欲のあいだで」(藤田尚志・宮野真生子編『愛・性・家族の哲学第1巻 愛――結婚は愛のあかし?』, ナカニシヤ出版, 2016, pp. 65-100)
カトリックとは異なり結婚が秘跡とされないプロテスタントにおいて、結婚がどのように考えられてきたのかを、バルト『教会教義学』での結婚論を中心に検討したもの
2013年度
「家族のあり方と結婚制度」「宗教と家族制度」「性教育」「ジェンダー」(浅見昇吾・盛永審一郎編『教養としての応用倫理学』, 丸善出版, 2013, pp. 88-95)
大学生向けの応用倫理学の教科書に、中項目のテーマを4つ執筆。いずれの項目も「第5章 性と愛と家族の倫理」の一部(その章の半分に相当)。
2010年度
「スピリチュアルケアとキリスト教的な死後の生――リクール『死まで生き生きと』を手がかりに」(鶴岡賀雄・深澤英隆編『スピリチュアリティの宗教史(上)』, リトン, 2010, pp. 399-419)
スピリチュアルケアの場面においてその文化的想像力が低下しつつある死後の生や復活のイメージについて、現代キリスト教においてどのような解釈が可能なのかを、リクールの遺稿『死まで生き生きと』に注釈をほどこしながら考察したもの
2008年度
「モノを否定する、モノが否定する――現代キリスト教形象論から見た「否定的」フェティシズムの可能性(田中雅一編『フェティシズム研究1 フェティシズム論の系譜と展望』, 京都大学学術出版会, 2009, pp. 65-89)
「ものへの耽溺」として理解されるのが一般的なフェティシズムについて、その多様性を広げるべく、マリオンやディディ=ユベルマンの議論を手がかりに、形象の否定神学に代表的に見られる「ものが私を否定する」フェティシズムの側面を明らかにしようと試みたもの。ある意味、数年前に書いた論文「単なるものの限界内における宗教哲学」の発展版
2006年度
「愛ゆえに、我在り――田辺、波多野、マリオンと存在-愛-論(片柳榮一 編, 『ディアロゴス――手探りの中の対話』, 晃洋書房, 2007, pp. 216-236)
「人間の存在構成そのもののうちに、他なるものの愛の働きを見た」3人の思想家を比較し、そこから立ち上がってくる「存在-愛-論」の可能性について考察した論文。学会発表「否定する愛」を大幅に加筆修正。私としては初の日本思想研究論文であり、かつ、初の書店売り単行本論文。なお、この単行本は、京大文学部COEプロジェクト「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」(2002-2006年度)の一翼、「新たな対話的探求の論理の構築」研究班の成果

■ 論文

2016年度
「オリジナルな起源――W・デーヴィスの「イメージ・メーキングの起源」論が問いかけるもの(『現代思想』第44巻第10号:特集「人類の起源と進化――プレ・ヒューマンへの想像力」, 青土社, 2016, pp. 212-223)
W・デーヴィスが1990年代に展開したイメージ・メーキングの起源論が、起源を考えるという営みに特有の、連続的な歴史を解体する契機の存在を明らかにしている点を示したもの
2015年度
「あらゆる否定文はすでに神に取り憑かれている――デリダ-マリオンの否定神学論争とその現代宗教哲学的意義(『日本の神学』54号, 日本基督教学会, 2015, pp. 23-45)
デリダとマリオンの否定神学論争を宗教哲学の観点から読み解き、デリダの思想を手がかりとして、「日常言語の宗教言語論」とでもいうべき脱神学的な宗教言語論の可能性を模索したもの
「死者は事物に宿れり――考古学的想像力と現代思想の物質的転回(『現代思想』44巻1号:特集「ポスト現代思想」, 青土社, 2016, pp. 232-242)
考古学的な痕跡認識と、昨今の現代思想・人類学の存在論的動向との並行関係と差異を示しつつ、スティグレールらの議論を手がかりに、考古学的痕跡論が死者論とも接点をもつことを論じたもの
「苦しみの叫び声は何を求めているのか――神義論から宗教哲学へ(『基督教学研究』第35号, 京都大学基督教学会, 2016, pp. 53-78)
20世紀宗教思想における神義論批判を概観しながら、「苦しむ」という経験において人が何を求めているのかという問題を、神義論的にではなく宗教哲学として扱う筋道を、レヴィナス、アンリ、リクールの思想を手がかりに考察した
2014年度
「ヨハネとアンリ――キリスト教思想からみるアンリの「聖書解釈学(『ミシェル・アンリ研究』4号, 日本ミシェル・アンリ哲学会, 2014, pp. 25-49)
90年代以降のアンリにおけるキリスト教的転回を、アンリ哲学の発展史のなかでとらえるのではなく、彼が大きき依拠するヨハネ文書解釈の方法や内実の検証をとおして、「キリスト教思想を通してアンリ哲学はどれほど変わったのか」を示したもの
「無神論論争とキリスト教哲学論争――戦間期フランス知識人における「世俗化」の一断面(『南山神学』38, 神言神学院, 2015, pp. 189-206)
宗教学におけるいわゆる世俗化やポスト世俗化といった問題群を視野に入れつつ、1930年前後のフランスにおける、キリスト教をめぐる二つの哲学的論争(当事者はブランシュヴィク、マルセル、ジルソン、マリタン、ブレイエなど)を理解するための枠組みについて論じたもの
2013年度
「神学者たちのキルケゴール――可能的なもの、そして不安と希望(『現代思想』42巻2号:「特集 キルケゴール」, 青土社, 2014, pp. 95-105)
20世紀プロテスタンティズムにおいて、バルトとは違う仕方でキルケゴールを解釈し、不安の概念から希望の概念を導き出したモルトマン、そしてさらにそれを受容したリクールのキルケゴール理解を明らかにしたもの
「死という悪に死者は抗議できるのか――神義論の宗教哲学への基礎的考察(『基督教学研究』33号, 京都大学基督教学会, 2013, pp.273-289)
「死者自身による悪への抗議は可能か?」という問いを立て、ネーゲルを中心として「死の害の哲学」を検討することで、どこまで死が死者自身にとって害であるといいうるかを論じたもの
2012年度
「自然悪の苦しみと宗教哲学――神義論的問題の再編成に向けて(『宗教研究』373号:「特集 災禍と宗教」, 日本宗教学会, 2012, pp. 109-132)
悪の存在に関する神の正当化としての狭い意味での神義論ではなく、悪の存在に対する抗議という広い意味での神義論的な思索の意義を明らかにし、そこに含まれる宗教哲学的な原資を、リクールやアンリ、ネグリらの思索を手がかりに掘り起こそうとしたもの
「死の後をめぐる幸福な記憶と忘却――キルケゴールとホワイトヘッドを読むリクールの思索を手がかりに(『死生学年報2013 生と死とその後』, 東洋英和女学院大学死生学研究所, 2013, pp. 131-148)
シンポジウムでの提題を原稿したもの。キルケゴールの読解を中心に、論文「スピリチュアルケアとキリスト教的死後の生」を発展させたもの
2011年度
「「記憶する神」という思想――宗教哲学の再考とともに(『理想』688号:「特集 〈神〉思想のアクテュアリティー」, 理想社, 2012, pp. 64-75)
いま、神思想を問う際に必要な、宗教哲学そのものの問い直しをはかりながら、伝統的な神思想と日常的な神への希求の双方を架橋することを視野に入れ、リクールの晩年の「神の記憶」の思想の意義を考察したもの
「ジャンニ・ヴァッティモの宗教論――神の死以降の愛論の可能性(『宗教哲学研究』29, 宗教哲学会, 2012, pp. 57-69)
90年代後半以降のヴァッティモは、キリスト教についての発言を強めますが、その論調は、従来の教会型宗教としてのキリスト教の可能性ではなく、徹底して近代的な宗教の私事化を推し進め、民主主義的市民社会を促す愛の宗教性としてのみ可能性がある、という主張をします。そうした彼の議論を、ローティとの比較を交えつつ検討したもの
「20世紀フランス哲学とハヤトロギア?――神と存在の関係をめぐる問いの変貌(『基督教学研究』31, 京都大学基督教学会, 2011, pp. 83-102)
有賀鐡太郎のハヤトロギア概念が主題とした「神と存在」の関係が、20世紀フランス哲学においてハイデガーを経由しながらどのように問われていったのか、ジルソン、レヴィナス、マリオンを手がかりに明らかにしたもの
2010年度
「倫理と宗教(星野秀紀他編『宗教学事典』, 丸善, 2010, pp. 192-195)
事典の中項目執筆。宗教は本来的に倫理的/反倫理的である、といった言明の危険性を指摘しつつ、義務論、功利主義、徳倫理、応用倫理の立場のそれぞれにおいて、実定宗教と倫理がどのような関わりを持つかを解説したもの
「正義の源泉としての倫理的確信――後期リクールの社会思想の基礎構造(『聖学院大学論叢』第23巻第2号, 聖学院大学, 2011, pp. 151-166)
90年代のリクールがどのようにロールズの『正義論』を受容したのか、またその受容の背景には、彼のどのような社会思想の構造が存在しているのかを、「倫理的確信」という概念に注目しながら明らかにしたもの。刊行元の聖学院大学図書館リポジトリにて、PDFファイルでも公開されています >PDFファイルで読む(リンク先のDownloadをクリック)
2009年度
「物質と時間――痕跡としての物質性(『美術フォーラム21』第20号: 特集「物質性/マテリアリティの可能性」, 醍醐書房, 2009, pp. 122-126)
あらゆるものを「痕跡」と見なす構想力のありかたを「考古学的構想力」として定義した上で、もの(そして世界)そのものが内包している時間性、すなわち痕跡としての過去志向、痕跡を残す未来志向を明らかにしたもの。考古学の世界で書いた文章を、美学の分野に翻案した感じ
「神の言葉の器としての人間――波多野精一の象徴論の存在論的再解釈をめざして(『聖学院大学論叢』第22巻第1号, 聖学院大学, 2009, pp. 181-189)
近年、存在論的・他者論的な再解釈の機運が高まる波多野宗教哲学のうち、その象徴論もそうした角度からの再解釈が可能であること、そしてそうした解釈をすることで波多野象徴論の独創性が浮かび上がることを、20世紀哲学・神学・宗教学の象徴論の興隆と衰退というコンテクストに照らしながら解明したもの。刊行元の聖学院大学図書館リポジトリにて、PDFファイルでも公開されています >PDFファイルで読む(リンク先のDownloadをクリック)
2008年度
「世代間倫理と隣人愛――ハイモダニティにおけるキリスト教的倫理の可能性(『宗教と倫理』第8号, 宗教倫理学会, 2008, pp. 51-65)
キリスト教神学でも環境倫理が盛んに論じられているものの、その多くは、創造論に立脚した自然観にのみ焦点を当て、世代間倫理に関する議論はきわめて希薄。しかし、隣人愛が、現在世代と相互的関係を持たない将来世代に道徳的配慮を促す不完全義務として機能しうる点にも着目すべきであると主張したもの。なお、刊行元の学会webサイトにて、E-Journalとしても公開されています >PDFファイル(約1.1MB)で読む
「〈キリスト教的哲学〉論争再読――20世紀フランス宗教哲学の一水脈(『フランス哲学・思想研究』第13号, 日仏哲学会, 2008, pp. 89-97)
1930年代フランスで起こった〈キリスト教的哲学〉論争を読み直し、その宗教哲学史的位置づけを図るとともに、そこから派生しリクールへとつながる埋もれた宗教哲学の水脈を掘り起こすことを目指したもの。かなり思想史的な色彩が強いです
「物語の後で――『時間と物語』から見た『記憶・歴史・忘却』(『フランス哲学・思想研究』第13号, 日仏哲学会, 2008, pp. 29-38)
晩年のリクールによる記憶論と歴史学との突合せという試みとその性格を理解するために、「負債」「期待」「代理表出」という三つの概念を手がかりとして、主に「歴史的存在の存在論」という地平において80年代の歴史論である『時間と物語』と2000年の『記憶・歴史・忘却』との間の異同を明らかにしたもの
「悪の目的論から悪の逆説へ――中期リクールにおける終末論概念の変容(『聖学院大学論叢』第21巻第2号, 聖学院大学, 2009, pp. 141-154)
60年代リクールにおいて、彼の宗教思想の最核心にある概念である終末論概念が形成・発展した様子を、後期の思想をコンテクストに含めながら明らかにしたもの。刊行元の聖学院大学図書館リポジトリにて、PDFファイルでも公開されています >PDFファイルで読む(リンク先のDownloadをクリック)
「はじまりはいつも悪――リクールにおける創造論の展開(『基督教学研究』第28号, 京都大学基督教学会, 2008, pp. 241-264)
60年代から90年代までのりクールの『創世記』の創造物語解釈の展開を辿り、そこから彼の創造観がどのように変化していったのかを、特に彼の社会思想とのつながりに注目しながら明らかにしたもの。論文「悪の目的論から悪の逆説へ」とセットになる、リクールキリスト教思想の最内奥にある「創造と終末」思想の一端
2007年度
「波多野精一の存在-愛-論――無からの創造に注目して(『日本の神学』第46号, 日本基督教学会, 2007, pp. 31-52)
現代宗教哲学に広く見られる愛論というコンテクストに波多野精一の宗教哲学を置きなおし、彼の宗教哲学を「人間存在論」と「他者論」として読み直し 、両者が存在‐愛‐論という統一構造を取ることの解明を目指した論文。論文「愛ゆえに、我在り」では比較の中に埋もれてしまった波多野論を独立させた格好。Journal@rchiveにて、全文PDF公開されています >雑誌目次へ
「死者の記憶、死者の場所――宗教哲学の現在(『中央評論』第261号(特集:宗教研究の現在), 中央大学出版部, 2007, pp. 24-31)
現代における宗教哲学とは何か、という観点から、現代宗教哲学の一つのあり方を「既成の宗教がこれまで語ってきた領域を、その言葉をもちいず批判し解釈する」課題として定義し、その一例として、現代における死者の記憶やその場との付き合い方を批判的に考察したもの
2006年度
「リクール哲学におけるキリスト教思想研究」(博士論文, 2006年度京都大学文学研究科提出)
1960年代に解釈学を本格的に導入した後のリクールの哲学において、キリスト教思想はどのように形成され、そのどこに特色があるのか。また、彼の哲学との関係はどのようなものなのか。さらに、「神学的転回」とも形容される現代フランス哲学の中で、リクールのキリスト教思想はどのように位置づけられるのか。そういったリクール研究上でも難題として残されてきた問題を、博士論文としてまとめたもの
2005年度
「暗い記憶の行き場――復讐から宗教と倫理を考える(『宗教と倫理』第5号, 宗教倫理学会, 2005, pp. 3-18)
学会発表「恩讐の果てに」をベースにしつつ、大幅に加筆・修正したもの。復讐という行為を内在的に分析し、その前提となっている記憶に関する諸条件を解明。その上で、復讐が内在的に問題をはらんだ行為であることを主張するもの。なお、刊行元の学会webサイトにて、E-Journalとしても公開されています >PDFファイル(約826KB)で読む
「汝、死者を忘るるなかれ――死者の記憶の場と宗教哲学(『人文知の新たな総合に向けて (21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」)』第四回報告書(下), 京都大学大学院文学研究科, 2006, pp. 163-184)
学会発表「忘却と救いなき記憶」をベースに、死者の/についての記憶論一般を、公共性や追悼施設といった主題と絡めて論じたもの。「痕跡」を、死者の証言の一種として考えるのではなく、死者自身の記憶が現臨する場として考えた一つの試み
「ありてある哲学者の神――マリオンとリクールの思索を手がかりに(『基督教学研究』第25号, 2005, pp. 235-258)
マリオンに関する二つの学会発表を元に、リクールとマリオンの神思想の共通点を「思惟に対して働く働き」という点に求め、その意義を論じたもの。その二人を手がかりに、現代フランス宗教哲学の思考のマトリックスの一つを析出してみようという意図があったのですが、そこまで成功したのかしていないのか。
2004年度
「満ちあふれる論理――リクール宗教思想の根本概念(『日本の神学』第43号, 日本基督教学会, 2004, pp. 74-96)
60年代から最近に至るまでのリクール宗教思想の「聖書観」「聖書解釈学の必要性」「聖書解釈学の方法」の三つを支えているのが、「満ちあふれの論理」という同一の根本概念であることを論証したもの。私の学生・院生時代のリクール宗教思想研究の集大成ともいえる一作。Journal@rchiveにて、全文PDF公開されている(はずなのに、なぜかデータ欠落) >雑誌目次へ
「不可能な赦しの可能性――現代宗教哲学の観点から(『宗教と倫理』第4号, 宗教倫理学会, 2004, pp. 64-81)
現代世界において希求されている「赦し」の理念を、現代宗教哲学の観点から、アーレント、ジャンケレヴィッチ、デリダ、リクールらの所論を手がかりに考察したもの。結論としては、単に赦しだけではなく、それと対になる無条件的な復讐(およびそれと赦しの関係)を描いた範例の重要性を主張。なお、刊行元の学会webサイトにて、E-Journalとしても公開されています >PDFファイル(約888KB)で読む
2003年度
「リクールの贈与論――倫理の源泉としての贈与の経綸(『基督教学研究』第23号, 京都大学基督教学会, 2003, pp. 75-88)
後期のリクールの宗教思想の最重要概念「贈与の経綸」とは、そもそも何なのか。そして、それはリクールの倫理思想とどのような関係を持っているのか。現代フランス哲学の贈与論という文脈も念頭におきつつ、そうした問題を明らかにすることを目指したもの
「単なるものの限界内における宗教哲学――現代芸術からのティリッヒ芸術論駁論(『ティリッヒ研究』第8号, 現代キリスト教思想研究会, 2004, pp. 49-71)
宗教哲学者ティリッヒの芸術論が、グリーンバーグ以後の現代芸術の言説に照らすと致命的な限界を持つことを指摘し、それに代わる「もの論」的芸術論を提起する大冒険の一本。これまで私の中で無縁だった「宗教哲学」と「もの論」を(強引に)結びつけた新境地。ティリッヒ研究者には、果たしてどう読まれるか?そもそも、誰が読むのか?なお、刊行元の研究会webサイトにて、E-Journalとしても公開されています >PDFファイル(約148KB)で読む
「対話の中の「わたし」――わたしがわたしにもたらす揺らめきをめぐって(『人文知の新たな総合に向けて (21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」)』第二回報告書III[哲学篇2], 京都大学大学院文学研究科, 2004, pp. 203-225)
バンヴェニスト、リクール、アガンベンによる人称代名詞「わたし」に関する議論を手がかりに、「『わたし』と言うこと」という、対話状況の中でも限りなくミニマルな行為が、そう言う当の本人にもたらす複雑な効果について考察したもの。なお、刊行元の京大文学部COEwebサイトにて、PDFファイルでも公開されています >PDFファイル(約246KB)で読む
2002年度
「聖書、解釈、自己、行為――リクールの聖書言語論の社会思想的射程(『基督教学研究』第22号, 京都大学基督教学会, 2002, pp. 87-99)
中期のリクール哲学において、宗教言語論がどのように社会思想と接点と持つかを探求した論文。タイトルの名詞の羅列は、その探求を順番どおりに示したもの。即ち、「聖書」の「解釈」によって陶冶された「自己」が如何に「行為」へ拓かれるか、と。個人的には、自分の中で言語論的地平の狭さから脱し、社会や倫理の問題へと思考が拓かれるきっかけになりました
2001年度
「反省と顕現――リクールの宗教言語論の構造について(『基督教学研究』第21号,  京都大学基督教学会, 2001, pp. 91-102)
散漫な中期リクールの宗教言語論全体を、「反省の極」「顕現の極」という二極構造によって整理し、彼の思想の基本構造の理解を目指したもの。2000年1月に提出した修士論文全体を、約1/3に圧縮した論文。基本論旨を変えずにそこまで圧縮できるということは、私の修士論文はそれだけ無駄が多かったのかと、文字通り「反省」の材料

■ 書評

2015年度
「奥山史亮 著『エリアーデの思想と亡命――クリアーヌとの関係において』」(『宗教研究』382, 日本宗教学会, 2015, pp.177-182)
奥山氏のエリアーデ思想研究の書評。主として思想研究にかかわる方法論的な問題点について、若干のコメントを付しました。
「〈名著再考〉記憶から歴史叙述へ、私的記憶から公的制度へ――ポール・リクール『記憶・歴史・忘却』(『思想』1096(特集:想起の文化――戦争の記憶を問い直す), 岩波書店, 2015, pp. 232-238)
リクール『記憶・歴史・忘却』を、刊行から15年経った時点で、どのように読み直すべきかという指針を示したもの
2006年度
「深井智朗 著『超越と認識――20世紀神学史における神認識の問題――』」(『宗教研究』第350号, 日本宗教学会, 2006, pp. 175-182)
深井氏の包括的な著作への書評。全体を要約し、その研究史上の評価をし、最後にいくつか気になる点を、というセオリー通りの書評。研究者として公けの場では初めて書いた書評論文

■ 翻訳

2011年度
ジュリアン・トーマス『解釈考古学――先史社会の時間・文化・アイデンティティ』(下垣仁志氏と共訳, 同成社, 2012)
「ハイデガー考古学」という特異な試みをおこない、ハイデガーの現存在分析をイギリス先史社会の解明に適用した考古学者トーマスの著書の翻訳。原題:Julian Thomas, Time, Culture, Identity: An Interpretive Archaeology, Routledge, 1996. また、訳者解題2「ハイデガー流考古学は人文学に何をもたらすか?――本書への理論的補助線と人文学から見た本書の意義」(pp. 386-396)も執筆。
2010年度
ヘイドン・ホワイト「実用的な過去」(『思想』第1036号:特集「ヘイドン・ホワイト的問題と歴史学」, 岩波書店, 2010, pp. 8-33)
ホワイトが歴史学批判の一環として、政治哲学者オークショットの対概念「実用的な過去/歴史学的な過去」を取り上げつつ、前者の概念の意義を説いた論文の翻訳。『思想』のホワイト特集の巻頭論文に相当し、岡本充弘氏による特集全体の解説つき。原題:Hayden White, "Practical Past".
2007年度
ジャンニ・ヴァッティモ「ホース・メ(ないもののように)──ハイデガーとキリスト教(『別冊「本」RATIO 03』, 講談社, 2007, pp. 236-255)
イタリアの解釈学系の哲学者で、ハイデガー研究者でもあるヴァッティモの論文の翻訳。内容的には、1920年のハイデガーの講義「宗教現象学序論」(『全集60巻 宗教的生の現象学』に収録)を手がかりとして、ヴァッティモが、彼独自の宗教論を展開したもの。原題:Gianni Vattimo, “hos mè: Heidegger e il cristianesimo” in Dopo la cristianià, Garzanti, 2002.
2003年度
クリストフ・シュヴェーベル「神学と宗教学――両者が困難を越えて関係を結ぶための暫定的な覚書(『基督教学研究』第23号, 京都大学基督教学会, 2003, pp. 49-74)
現代ドイツ神学において、宗教間対話を中心とする研究で著名なCh. シュヴェーベル氏の論文の翻訳。原題:Christoph Schwöbel, "Theologie und Religionswissenschaft: Vorläufige Bemerkungen zur Gestaltung eines schwierigen Verhältnisses".
クリストフ・シュヴェーベル「信仰に由来する寛容――宗教的真理の確実さの地平におけるアイデンティティと寛容(片柳榮一氏と共訳, 『人文知の新たな総合に向けて (21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」)』第二回報告書III[哲学篇2], 京都大学大学院文学研究科, 2004, pp. 255-275)
同じくシュヴェーベル氏の論文の翻訳。私は論文後半を担当。なお、刊行元の京大文学部COEwebサイトにて、PDFファイルでも公開されています >PDFファイル(約216KB)で読む 原題:Christoph Schwöbel, "Toleranz aus Glauben: Identität und Toleranz im Horizont religiöser Wahrheitsgewissheiten".

■ 学会発表

2016年度
「抗議の神義論は擁護しうるか――死者の宗教哲学から考える(日本宗教学会第75回大会, 2016/09/10, 早稲田大学)
ロスの「抗議の神義論」を神学的角度からではなく、苦しみと死者をめぐる宗教哲学の観点から再評価する可能性を模索したもの
「回勅を神学的に読むか、哲学的に読むか?」(南山大学社会倫理研究所・上智大学生命倫理研究所共催公開シンポジウム2016「持続可能な発展は可能か?―回勅「ラウダート・シ」を複眼的に読む」, 2016/10/22, 南山大学)
回勅『ラウダート・シ』をカトリック神学のコンテクストではなく、ポスト世俗化時代における宗教の公共性という文脈に置くことで、その現代性や特徴を捉えようとしたもの
2015年度
「苦しむことと被ること――不幸をめぐる宗教哲学的考察(日本宗教学会第74回大会, 2015/09/06, 創価大学)
広い意味での神義論の根底にある「なぜこんなことが起こるのか」という叫び声が真に求めているものを、レヴィナス、アンリ、リクールの受苦論を通して考察したもの
2014年度
「否定の道のアポリア――デリダ・マリオンの否定神学論争とその意義(日本基督教学会第62回大会, 2014/09/09, 関西学院大学)
否定神学をめぐるデリダとマリオンの論争を通して浮かび上がるデリダの否定神学論、特にその言語論に着目して、旧来の宗教言語論とは違う「他者に開かれた平凡な言語」のもつ宗教哲学的可能性を浮かび上がらせた
「分離・区別・一致――キリスト教哲学論争にみる真理の諸相(日本宗教学会第73回大会:パネル「真理・政治・普遍性―ポスト世俗化時代における神学の真理性―」, 2014/09/14, 同志社大学)
キリスト教哲学論争において、特にマリタンの主張に着目しながら、「真理」概念をめぐって何が争われ、何が論争のなかで見解が一致していたのかを明らかにしたもの
「無神論論争とキリスト教哲学論争――1戦間期フランス知識人における「世俗化」の一様相(キリスト教史学会第65回大会, 2014/09/19, 同志社大学)
1930年前後のフランスにおける無神論論争とキリスト教哲学論争を、当時のライシテの状況を参照しながら解釈し、フランス思想界の世俗化の一つの姿を描いたもの
2013年度
「ヨハネとアンリ――キリスト教思想からみるアンリ(日本ミシェル・アンリ哲学会第5回学術大会:シンポジウム「アンリ哲学とキリスト教」, 2013/06/09, 関西学院大学梅田キャンパス)
同名論文のもと
「死と抗議と神義論――宗教哲学的考察(日本宗教学会第72回大会, 2013/09/07, 國學院大學)
論文「死という悪に死者は抗議できるのか」のもと
「神学者たちのキルケゴール――可能的なもの、そして不安と希望(「現代思想の源泉としてのキルケゴール──生誕200周年記念ワークショップ」, 2013/11/30, 高崎経済大学)
同名論文のもと
2012年度
「スピリチュアルケアにおける幸福な記憶、幸福な忘却――宗教哲学から(東洋英和女学院大学大学院死生学研究所シンポジウム「スピリチュアルケアを考える」, 2012/07/28, 東洋英和女学院大学大学院)
スピリチュアルケアの場面においてその文化的想像力が低下しつつある死後の生や復活のイメージについて、現代キリスト教においてどのような解釈が可能なのかを、リクールの遺稿『死まで生き生きと』を手がかりに、記憶と忘却の概念を中心に論じたもの
「自然悪概念の宗教哲学的再解釈は可能か?」(日本宗教学会第71回大会, 2012/09/09, 皇學館大學)
論文「自然悪の苦しみと宗教哲学」の圧縮版
2011年度
「記憶論は宗教哲学に何をもたらすか――ルロワ=グーランを中心に(日本宗教学会第70回大会, 2011/09/04, 関西学院大学)
ルロワ=グーランの記憶論の構造を明らかにし、「動作連鎖」概念の位置づけをすることで、物質的技術が記憶の外部化の役割をもっていることを解明し、人間の自己性が外部記憶によって他的に構成されている存在論的構造を明らかにしたもの
「存在-神-論批判を再考する――現代フランス哲学のコンテクストから(京都大学基督教学会第7回学術大会, 2011/12/10, 京都大学)
ジルソン、レヴィナス、マリオン(そして、レヴィナスとマリオンらへの影響源としてのハイデガー)を素材として、「神と存在との関係」が、20世紀フランス哲学でどのように問われてきたか、そして、そこから見える展望とはどのようなものか、という問題を論じたもの
2009年度
「他性と多性――他者の哲学/哲学の他者としての宗教哲学(日本宗教学会第68回大会:パネル「宗教哲学の現在を問う――反本質論の波をうけて」, 2009/09/12, 京都大学)
近代に出自をもつ宗教哲学の来歴をたどりつつ、それが現代、「他者の哲学」であると同時に「哲学の他者」という位置を占めるようになったことを示し、さらに、その他者概念に偏りが見られるため、宗教哲学が「多なる他性/他なる他性」へと開かれる必要があることを主張したもの
2008年度
「ものを否定する、ものが否定する――形象と否定神学(日本宗教学会第67回大会, 2008/09/14, 筑波大学)
視覚芸術論や形象論に否定神学が導入されつつある現状を、形象による形象の抹消という方法と、非類似による類似の形象という二種類の方法に整理し、後者のうちに、私たちの思惟を否定するような形象の否定神学の一般化可能性を模索したもの
2007年度
「〈キリスト教的哲学〉論争――20世紀フランス宗教哲学の一稜線(日仏哲学会2007年秋季研究大会, 2007/09/08, 学習院大学)
ほぼ同名論文のもと
「ジャンニ・ヴァッティモの宗教論――神の死以降の愛論の可能性(日本宗教学会第66回学術大会, 2007/09/17, 立正大学)
同名論文のもと
【提題】 記憶と忘却の倫理的次元」(第16回実存思想協会・ドイツ観念論研究会共催シンポジウム:「記憶と想起――想起と忘却――」, 2007/09/29, 早稲田大学)
「記憶と想起」をテーマにしたシンポジウムでの提題。これまでやってきた記憶論の総論のような形となりました。死者の/についての記憶の代理占有の問題性を指摘した上で、そこから、死者の記憶の場の新たな可能性として痕跡概念を位置づけなおすことを提起したもの
「世代間倫理と隣人愛――ハイモダニティにおけるキリスト教的倫理の可能性(宗教倫理学会第8回学術大会, 2007/10/21, 龍谷大学)
同名論文のもと
【提題】物語の後で――『時間と物語』から見た『記憶・歴史・忘却』(日仏哲学会2008年春季研究大会シンポジウム「記憶の哲学と歴史叙述――晩年のリクールの思索から」, 2008/03/22, 同志社大学)
リクール『記憶・歴史・忘却』をテーマにしたシンポジウムでの提題。同名論文のもと
「神の言葉の器としての人間――波多野精一の象徴論の存在論的再解釈(2008年日本基督教学会近畿支部会, 2008/03/28, 同志社女子大学)
同名論文のもと
2006年度
「否定する愛――田辺・波多野・マリオンと存在愛論(日本宗教学会第65回学術大会:パネル「他性と媒介――京都学派とフランス哲学」, 2006/09/17, 東北大学)
京都学派と現代フランス宗教哲学は、「存在-愛-論」という共通の基盤で語ることによって、新たな関係性が見えてくることを、三人の思想家の比較を通じて明らかにしようとしたもの。やはりこの学会で3人の比較をするには、時間が厳しい…。なお、このパネルは私自身が代表者になりました。アブストラクトとは別に、同名紀要論文として、刊行しました
「波多野精一における無と他者」(日本基督教学会第54回学術大会, 2006/09/21, 上智大学)
論文「波多野精一の存在-愛-論」のもと
2005年度
「忘却と救いなき記憶――現代フランス宗教哲学からの一視角(日本宗教学会第64回学術大会:パネル「記憶/忘却と公共性――内面性と集合心性のあいだで」, 2005/09/10, 関西大学)
これまでの赦し論、復讐論をさらに発展させて、死者の/についての記憶論一般を、公共性や追悼施設といった主題と絡めて論じたもの。「記憶の場」や「痕跡」の問題を取り上げることで、ついに私の中で徹底的に分離されていた宗教哲学と考古学とが初めてつながってきました。一部、論文「汝、死者を忘るるなかれ」のもと
「存在なき愛――マリオン神学三部作の統合的理解に向けて(日本基督教学会第53回学術大会, 2005/09/23, 関西学院大学)
前期マリオン神学三部作において、「存在なき神」から「神に唯一ふさわしい述語としての愛」への理論的展開が現象学の枠内でどうして可能になるのか、その理路を明らかにしたもの。風邪ひきながらの準備・発表だったので、一番辛かった発表。一部、論文「ありてある哲学者の神」のもと
"The Site of Memories, the Site of Things: Against the Identity Politics" (World Archaeological Congress Osaka Inter-Congress: Session "Doing Archaeology in High-/Post-Modernity, or How to Cope with Fragmentation and Globalisation", 2006/01/14, 大阪歴史博物館)
「死者、もの、場所、記憶、痕跡、他者」をネタにした国際学会発表。 ...... ただし、何故か考古学の学会にて。ついに、宗教哲学と考古学が私の中で一つになった、個人的にはきわめて貴重な発表。ついでにいえば、初めての外国語発表。なお、web上には日本語訳を公開しておきます。
2004年度
「赦しと赦しえないもの――現代宗教哲学の観点から(日本基督教学会第52回学術大会, 2004/10/08, 東京女子大学)
ここ数年の間に、現代フランス宗教哲学とポストモダン神学において主要テーマとなった「赦し」の問題を、赦しの対極である「復讐」(およびその根底にある「憎悪」)の側から考察したもの。論文「不可能な赦しの可能性」をさらに発展させたもの
「恩讐の果てに――忘れえぬ記憶の宗教哲学(第19回国際宗教学宗教史会議世界大会(IAHR東京大会):シンポジウム「記憶と忘却の倫理 ――21世紀と宗教哲学のための一展望」, 2005/03/27, 高輪プリンスホテル)
論文「不可能な赦しの可能性」や、発表「赦しと赦しえないもの」が記憶論と絡み合いつつどんどん発展していった結果、赦しよりも「復讐」の問題を本格的に取り扱ったもの
2003年度
「リクールの宗教思想における贈与の経綸」(日本宗教学会第62回学術大会, 2003/09/05, 天理大学)
論文「リクールの贈与論」のもと
「満ちあふれる論理――リクール宗教思想の根本概念(日本基督教学会第51回学術大会, 2003/10/04, 南山大学)
同名論文のもと
2002年度
「聖書から自己へ、自己から行為へ――リクールの聖書解釈学の現実化(日本基督教学会第50回学術大会, 2002/09/21, 聖学院大学)
リクールの聖書解釈学が、時代を経るにつれて、徐々に「現実」を志向し、社会思想・倫理思想と接点を持つようになる様子を、表題のような過程でまとめたものです。発表時間がよかったこともあって、沢山の方に聴いていただき、多くの質問をいただけました。論文としては未発表
「単なる存在論の限界上における「ありてある者」――マリオンの否定神学とリクールの解釈学的翻訳論の比較より(2003年日本基督教学会近畿支部会, 2003/03/27, 神戸松蔭女子大学)
「ありてある者」(出エジプト記3:14)という語に代表される「神と存在の関係」を巡って、存在論的思惟の新たな可能性を開くべく試みた、マリオンとリクールの比較研究。少々タイトルが長すぎたのと、時間配分が上手くいかなかったこと、その二点が失敗。一部、論文「ありてある哲学者の神」のもと
2001年度
「リクールの宗教言語論の矛盾とその克服」(日本基督教学会第49回学術大会, 2001/10/26, 西南学院大学)
同じく、論文「反省と顕現」のうち、「顕現の極」に関する議論に的を絞り、表題の通り、リクールの宗教言語論の矛盾点を指摘し、それが如何に克服されるかを論じたもの。何かイマイチ
「ジャンニ・ヴァッティモの宗教哲学の倫理的意義――ケノーシス概念を中心として(2002年日本基督教学会近畿支部会, 2002/03/26, 同志社女子大学)
9. 11のインパクトから、急遽、ヴァッティモの思想の倫理的側面を取りあげ、キリスト教思想の可能性を「ケノーシス(無化)」概念に探ったものです。発表後、いろんな方に注目していただいたようで嬉しかったです。論文としては未発表
2000年度
「ポール・リクールにおける聖書解釈学の前提について」(2001年日本基督教学会近畿支部会, 2001/03/29, 京都大学)
論文「反省と顕現」のうち、「反省の極」に関する議論に的を絞り、表題の通り、リクールの聖書解釈学の前提となる哲学的基礎を解明したもの。会場が自分のいる大学だったので、研究発表が終わったら受付に回って事務作業に従事、という忙しい学会でした

■ 学会発表要旨・報告書ほか

2015年度
「無神論論争とキリスト教哲学論争――戦間期フランス知識人における「世俗化」の一様相(『キリスト教史学』第69号会, キリスト教史学会, 2015, pp. 291-293)
上記の学会発表(2014/09)の要旨
「戦後70年の宗教教育」(『南山キリスト教教育センター通信ディグニタス』36, 南山キリスト教教育センター, 2015, p. 2)
広島・長崎への原爆投下を題材に、現代日本における宗教教育の一例を報告したもの
2014年度
「研究手帖 死者たちの場はどこにあるのか」(『現代思想』第42巻第10号, 青土社, 2014, p. 246)
これまで研究してきた「死者の場所」論の争点を平易にまとめたもの
「分離・区別・一致――キリスト教哲学論争にみる真理の諸相」「パネルの主旨とまとめ」(『宗教研究』第88巻別冊, 日本宗教学会, 2015, pp. 39-40, 45-46-196)
上記の学会発表(2014/09)の要旨とパネル「真理・政治・普遍性――ポスト世俗化時代における神学の真理性」全体のまとめ
2013年度
「死と抗議と神義論――宗教哲学的考察(『宗教研究』第87巻別冊, 日本宗教学会, 2014, pp. 195-196)
上記の学会発表(2013/09)の要旨
2012年度
「自然悪概念の宗教哲学的再解釈は可能か?」(『宗教研究』第375号, 日本宗教学会, 2013, pp. 400-401)
上記の学会発表(2012/09)の要旨
2011年度
「記憶論が宗教哲学にもたらすもの――ルロワ=グーランを中心に(『宗教研究』第371号, 日本宗教学会, 2012, pp. 263-264)
上記の学会発表(2011/09)の要旨
2009年度
「他の人々に面して、自己がここにいること――波多野宗教哲学を読みなおす(『創文』527(特集:日本哲学と現在), 2010, 創文社, pp. 37-40)
論文「神の言葉の器としての人間」の圧縮版
「他性と多性――他者の哲学/哲学の他者としての宗教哲学(『宗教研究』第363号, 日本宗教学会, 2010, pp. 102-103)
上記の学会発表(2009/09)の要旨
2008年度
「ものを否定する、ものが否定する――形象と否定神学(『宗教研究』第359号, 日本宗教学会, 2009, pp. 272-273)
上記の学会個人発表(2008/09)の要旨
「〈キリスト教的哲学〉論争再読――20世紀フランス宗教哲学の一稜線(『フランス哲学・思想研究』第13号, 日仏哲学会, 2008, p. 61)
上記の学会個人発表(2007/09)の要旨
「宗教を哲学するということの(不)可能性」(『聖学院大学総合研究所Newsletter』18-3, 2009, pp. 4-5)
現代フランスやイタリアで、なぜ、そしてどんなキリスト教系宗教哲学が再興しつつあるかを、おそろしく大雑把にまとめた短文
2007年度
「序文」「否定する愛――田辺・波多野・マリオンと存在愛論(『宗教学研究室紀要』第4号, 京都大学文学研究科宗教学専修, 2007, pp. 2-4, 11-15)
京大宗教学研究室が刊行している紀要に、宗教学会第65回大会でのパネル「他性と媒介――京都学派とフランス哲学」(2006/09)全体を、企画報告として掲載したもの。パネルでの個人発表と、パネル全体の主旨それぞれを、『宗教研究』のアブストラクトではなく、当日のフルペーパーのかたちで掲載。刊行元の宗教学研究室webサイト内で、PDFとして公開されています >「序文」PDF >「否定する愛」PDF
「ジャンニ・ヴァッティモの宗教論――神の死以降の愛論の可能性(『宗教研究』第355号, 日本宗教学会, 2008, pp. 205-206)
上記の学会個人発表(2007/09)の要旨
「疲労とスピリチュアリティ」「あとがき」 (「ワーキングペーパー:スピリチュアリティと臨床哲学」(〈社会と臨床〉研究会 編)『臨床哲学』9, 大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室, 2008, pp. 129-131, 169-171)
阪大文学部・臨床哲学研究室関係者の主催する〈社会と臨床〉研究会が、ワーキングペーパー「スピリチュアリティと臨床哲学」を企画し、そこに寄せたレヴィナスの疲労論を扱った短い文章。3000字という字数制限を真面目に守った結果、問題提起で終わってしまった。あと、「あとがき」も書いています(「あとがき」は川口茂雄氏と分担執筆)。刊行元の臨床哲学研究室webサイト内にて、PDFとして公開されていますが、分割公開ではない上、大容量(約5.6MB)なので閲覧注意 >『臨床哲学』9PDF
「イタリア哲学における近代/ポスト近代論の一様相――ヴァッティモのポスト形而上学的宗教論への予備的ノート(『キリスト教と近代化の諸相』, 現代キリスト教思想研究会, 2008, pp. 63-80)
「近代/ポスト近代とキリスト教」をテーマとする研究会の初年度活動報告書に寄稿したもの。宗教論的転回を果たす前のヴァッティモの哲学(特にその近代/ポスト近代理解)を概略したもの。次年度以降のヴァッティモ研究への布石としてのノート。刊行元の研究会webサイトにて、PDFとしても公開されています。 >PDFファイル(約80KB)で読む
2006年度
「否定する愛――田辺・波多野・マリオンと存在愛論」「パネルの主旨とまとめ」(『宗教研究』第351号, 日本宗教学会, 2007, pp. 107-108, 109-111)
上記の学会個人発表(2006/09)と、企画パネル全体の主旨それぞれの要旨
2005年度
「忘却と救いなき記憶――現代フランス宗教哲学からの一視角(『宗教研究』第347号, 日本宗教学会, 2006, pp. 97-98)
上記の学会発表(2005/09)の要旨
「現代フランス系宗教哲学における愛論の倫理的射程――寛容と赦しを中心に(庭野平和財団平成16年度研究助成報告書, 2005)
平成16年度、庭野平和財団の研究助成を受け(2004. 9〜2005. 8)、その成果報告書として提出したもの
2004年度
「L'Intolérable(認めがたく、耐えがたいもの)――寛容を考えはじめるために(『宗教と寛容』, 現代キリスト教思想研究会, 2005, pp. 7-25)
宗教的寛容研究会という会の報告書論文。主題は二つ。一つは、寛容(および宗教的寛容)という多義的な概念を、様々な観点からマッピングすること。もう一つは、寛容という概念がそもそもどのようにして問題になるのか、その入り口を、非寛容の対象たる「認めがたく、耐えがたいもの」から考えること。かなり自由度の高い(悪く言えば、思いつき度の高い)一本。刊行元の研究会サイトにて、PDFファイルでも公開されています >PDFファイル(約116KB)で読む
2003年度
「リクールの宗教思想における贈与の経綸」(『宗教研究』第339号, 日本宗教学会, 2004, pp. 193-194)
上記の学会発表(2003/09)の要旨

■ その他学術的活動

2016年度
「Book Review: 謝ることと赦すこと」(『婦人之友』1361号、婦人之友社、2016. 10、pp. 140-142)
連載書評の4回目。取り上げた本は大渕憲一『謝罪の研究』、J. デリダ『赦すこと』、阿部共実『空が灰色だから』。
「Book Review: 「身近な仏教」に出会う」(『婦人之友』1358号、婦人之友社、2016. 7、pp. 140-142)
連載書評の3回目。取り上げた本は末木文美士『現代仏教論』、鵜飼秀徳『寺院消滅』、朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』。
「Book Review: 過ぎ去った未来」(『婦人之友』1355号、婦人之友社、2016. 4、pp. 140-142)
連載書評の2回目。取り上げた本は五十嵐太郎ほか『ぼくらが夢見た未来都市』、長澤均『パスト・フューチュラマ』、植木不等式『ぼくらの哀しき超兵器』。
「死者をどう記憶するか(上)・(中)・(下)」(『中日新聞』2016年6月28日15面、7月5日19面、7月12日19面)
上ではオバマスピーチの分析を通して、中では死者の残す痕跡をめぐる思索から、下では死者を能動的に考える思索から、それぞれ死者を記憶する倫理について考えたもの。
「自然保護の倫理のジレンマ」(兵庫県立大学大学院地域資源マネジメント研究科第3回サイエンスカフェRRM、2016/10/30、豊岡市立交流センター豊岡稽古堂)
サイエンスカフェでの話題提供
「キリスト教から見る死生論」(一般財団法人メンタルケア協会 第182回メンタルケア・スペシャリスト養成講座、2016/11/23、名古屋国際会議場)
メンタルケアスペシャリスト養成講座での講演
2015年度
「Book Review: 動物のまなざし」(『婦人之友』1352号、婦人之友社、2016. 1、pp. 142-144)
連載書評の1回目。取り上げた本は千松信也『けもの道の歩き方』、岡本健太郎『山賊ダイアリー』、中村生雄『日本人の宗教と動物観』。
「鼎談 戦争と死について」(西村明・石川明人・佐藤啓介)(『宗教と現代がわかる本2016』, 平凡社, 2016, pp. 92-109)
戦後70年、戦争と死を主題とする宗教学関係者3名による鼎談。
2014年度
土井道子記念京都哲学基金主催2014年度シンポジウム「物語とリアリティ」にてパネルディスカッサント(2014/09/01-2, 京都ガーデンパレス)
3日間つづけて行われた京都哲学基金主催のシンポジウムでの討論者(兼司会)。
2012年度
「移民大国ヨーロッパに学ぶ」(『埼玉新聞』2013年1月22日付「県内大学発経世済民」欄)
埼玉県の経済・産業に関するコラム。ヨーロッパの移民をめぐる現状から、埼玉県における外国人状況について何を学ぶべきか。
2011年度
「歴史を書きかえる。しかし誰が、どのように?――戦後ドイツの「歴史家論争」を素材として(2011年度聖学院大学公開講座「今、歴史を見る眼を養う――多文化共生社会の基底を探る」第4回, 2011. 5)
リレー式公開講座の一部を担当
2010年度
土井道子記念京都哲学基金主催2010年度シンポジウム「神学・教学・宗学」にてパネルディスカッサント(2010/09/08-10, 京都ガーデンパレス)
3日間つづけて行われた京都哲学基金主催のシンポジウムでの討論者(兼司会)。
2009年度
"Re-Figuring Hayden White" (Hayden White, 岩崎稔, 小田中直樹, 佐藤啓介他4名との共同国際セミナー, 東洋大学, 2009/10/23)
東洋大学人間科学研究所主催、ヘイドン・ホワイト招聘国際イベント「歴史とポストモダニズム」の一環。メインスピーカーのホワイトに対するコメントを中心としたパネルスピーチを担当
2008年度
第42回文化人類学会分科会「もの、ひと、ことばのネクサス」(代表:内山田康)にてコメンテータ (2008/05/31, 京都大学吉田キャンパス)
近年、人類学の主題として浮上しつつある「もののエージェンシー」をめぐるパネルでのコメンテータ。パネリストは、内山田康氏、足立明氏、川西宏幸氏、花坂哲氏、秋山晶子氏、風間計博氏。私以外のコメンテータとして小泉晋弥氏
2008年度
「悩みながら他者とともに生きる――ヨーロッパ現代思想における生と死(2008年度聖学院大学公開講座「善く生きる――こころの時代への展望」第9回, 2008. 7)
リレー式公開講座の一部を担当

------------------------

▼ 専門分野外

■ 論文

2016年度
「アートな考古学の風景5 アートと考古学の協働を複数化する」(『考古学研究』第250号, 考古学研究会, 2016, pp. 33-37)
「アートな考古学の風景」と題する複数執筆者による連載企画の一部。アートと考古学の協働をもっぱらパブリック・アーケオロジーの視点からのみ考える現在のあり方に対し、両者をつなぐ中位理論を設定することで、より多様な協働の可能性が広がるという提言をおこなったもの
2004年度
「あとにのこされたものたち――考古学から哲学への還路(『往還する考古学――近江貝塚研究会論集 vol. 2』, 2004, pp. 59-68)
これまでの私の基本関心「哲学がどう考古学に寄与できるか」から、「考古学がどう哲学に寄与できるか」へと関心を大旋回させた、自分の中では「転回」と評していい記念碑的論文。「痕跡」という概念をてがかりとして、考古学的思考から「ものと痕跡の世界」という世界観を浮かび上がらせたもの *かなり内容の近い文章をstudy note内にて公開しています。「ぎゅうぎゅうですかすかの世界 − 痕跡論」
2002年度
「客観性の梯子――実践的客観性へ向けての一試論(『往還する考古学――近江貝塚研究会論集 vol. 1』, 2002, pp. 149-158)
近江貝塚研究会の論集のトリを飾った論文。「客観性」という概念の多義性を整理し、それらがどのような関係にあるのか分析したもの。基本的にはどの学問にも当てはまる、それなりに有用な分析だと思います
2001年度
「実測について考えることは何故難しいか――認識論的問題を中心に(『第1回考古学技術研究会 考古学において遺物の実測とは何か』, 2001, pp. 1-8)
自分が発表した中では最も大人数の人に聴いてもらったシンポジウムの要旨集に寄稿した論文(>シンポジウムの詳細)。考古学における実測という「技術」について、認識論的問題と記号論的問題の二つを絡めて整理したもの
2000年度
「「表象」の基礎構造について」(『第7回鉄器文化研究集会 表象としての鉄器副葬』, 2000, pp. 167-178)
考古学系シンポジウムの発表要旨集に紙上参加を依頼され、修士論文を書いている最中に執筆した論文。「表象」という概念の基本構造とその役割を、多分野を横断して確認しただけのもの。個人的には、全く気に入っていないです

■ 講演

2005年度
「クラフトとしての考古学――考古学への認知的アプローチのための一視角(日本心理学会第69回大会シンポジウム「心理学と考古学の出会い――「モノ」はいかに「こころ」を語るか」, 2005/09/12, 慶應義塾大学)
「専門でない考古学の話を、さらに専門でない場で語る/騙る」シリーズ第2弾。以前の実測論をベースに、それをより一般化して、考古学を「モノをもってモノをなす学=クラフト」として定式化し、メタ考古学的研究においてどのように心理学を導入することが可能か、その展望を示したつもり。というか、「そういう話をしてくれ」と依頼されたので
2004年度
「考古学における型式学――出土遺物の系統と分類を再考する(第6回日本進化学会シンポジウム「非生命体の進化理論2」, 2004/08/06, 東京大学駒場キャンパス)
専門でない考古学の話を、さらに専門でない生物学の場で語る(もはや、騙るというほうが相応しい)という倒錯的な営み。かなり孤立無援の中での講演でした。時間は25分、質疑5分。はっきりいって、何を質問されたのか、理解できませんでした(生物学の用語で質問されても分かるわけがない)。今回も、オーガナイザーと私以外のパネラーは、皆私よりふた回りほど年上の有名人ばかり。なお、Res: もの研究会のwebサイトにて、発表内容の概要などを公開しています
2001年度
「実測について考えることは何故難しいか――認識論的問題を中心に(第1回考古学技術研究会「考古学において遺物の実測とは何か」, 2001/09/15, 國學院大學渋谷キャンパス)
生まれて初めてシンポジウムで「話す側」になって壇上にのぼったもの。出席者は約200人、時間は40分。内容は要旨集に論文として掲載されています(>論文の詳細)。他のパネラー4人は全員私よりふた回りほど年上の有名人ばかりで、私がその場にいてよいのか、はなはだ不安でした

■ 翻訳

2012年度
二クラス・ルーマン「イタリア語版への序文」(クラウディオ・バラルディほか著、土方透ほか訳『GLU――二クラス・ルーマン社会システム理論用語集』, 国文社, 2013, pp. 14-19)
ルーマンが、自らの用語集のイタリア語版に寄せた序文の翻訳。邦訳自体は、ドイツ語版からの訳出で、イタリア語版序文は、参考までに訳出されたものです。原題: Niklas Luhmann, "Prefazione" in Claudio Baraldi et al., GLU: Glassario dei termini della teoria dei sistemi di Niklas Luhmann (Montefeltro, 1989)
2003年度
ペイ・ヒョンギル「植民地朝鮮に〈日本の古代〉を収集する――東京人類学会と比較文化的枠組み(広瀬繁明氏・中井淳史氏と共訳, 東京文化財研究所編, 『うごくモノ――「美術」以前の価値とは何か』, 平凡社, 2004, pp. 87-107)
諸般の事情により担当が回ってきた、考古学史に関する論文の翻訳(共訳者のうち、主に私は英文和訳担当、残りお二人は事実・文献関係の総チェックを担当)。なお、ペイ先生のお名前は、本来は漢字表記なのですがカタカタで代用。この翻訳にはほとほと困ったので、これ以上のことは申し上げません。私を含め訳者3人は、できる限り努力したのです。原題:"Collecting "Japan's Antiquity" in Colonial Korea: The Tokyo Anthropological Society and the Cultural Comparative Perspective".

■ 学会発表要旨・報告書ほか

2014年度
「テーマ37 考古学は科学か哲学か」(『考古学研究会60周年記念誌 考古学研究60の論点』, 考古学研究会, 2014, pp. 157-158)
60の論点のうち、事務局が設定したテーマ「考古学は科学か哲学か」について、執筆依頼されたもの。そのテーマ設定自体に無理があるのでは…と思い、「考古学は考古学だ」(=自然科学や哲学にその権威づけを求める必要はない)という主旨のことを論じた
2008年度
「〈エッセイ・考古学との対話〉 現代思想と考古学――ものものしい思考の可能性」(『考古学研究』55-2, 考古学研究会, 2008, pp. 95-96)
雑誌編集委員から依頼されたエッセイ。編集員の「考古学の役に立つ哲学の話を聞きたい」という期待を逆なでし、「哲学の役に立つ考古学の話」を「ものものしい思考の可能性」という語に託してつづった短文。考古学者にどう読まれるのか?そもそも読まれるのか?ともあれ、個人的には今後、本格的に論文化したい主題(でも、どこで書く?)