... Vuelta a Espana 2004 NEWS * 14歳の時、自転車でめきめき頭角を現したエラス。彼の父はバスク地方で電気工事をしていた関係で、エラスもバスクで下宿生活を始める。
95年アマチュア スペインチャンピオンで3位。1位は今は亡きリカルド・オチョア、2位はミゲル・モラスだった。バスク人ではないがその地に定住し始めていたため、彼はエウスカルテルでプロ入りすることもできた。しかし故郷の大先輩クビノのおかげで、ピノ監督率いるケルメに95年8月に入団。
その後の彼の華麗なヴエルタでの活躍はサイスポのヴエルタ特集に書いた通り。
9月26日(日)ヴエルタニュース:サンティアゴ・ペレス:自転車が買えなくてニベアの懸賞でMTBをゲット。 ヴエルタで大爆発のSペレス。彼のこれまでの軌跡がAS Diarioに載っていた。栄光をつかむまでに苦労した人っているけど、彼もそんな中のひとり。
「彼はもともとアイスホッケーに夢中になっていた。でも、スケート靴をどこから工面したのかは覚えていない。自転車に乗ってでかけるようになったのは17歳の時。友人のMロドリゲスの誘いだった。そのロドリゲスは、今やペレスのファンクラブ会長だ。
でも、ペレスには当時 自転車を買うお金がなかった。懸賞でMBTが当たるというので、ニベアの蓋を2つ送ってMTBに応募した。見事MTBゲット。その後アマとして頭角を現したものの、オファーするプロチームはなし。そこでインターネットで履歴書を送り、どうにかポルトガルのDiv3のチームBarbotからオファーをもらった。2001年6月のこと。
2ヵ月後、彼はポルトガルツアーの山岳ステージで優勝。メルカドやルムシャスを負かしての勝ち星だった。こうしてケルメに入団する道が開かれた。2002年、ジロでも大活躍。区間1勝し(注:第5ステージのこと。彼は実際は2位だったのだが、1位のガルゼッリがその後処分を受けたため、彼が繰り上がり1位になった。)、落車でリタイヤするまでは総合2位だった。それまでトントン拍子だったのに、この時の落車を機に彼の悲劇が始まる。
2002年ツール。再び落車。傷口から感染し、傷が癒えるのに時間がかかった。その年の12月、恋人のバネサが交通事故で亡くなった。人生始まって以来の苦悩を味わう。その後 膝の手術で03年ツールには出場できず。今年のツールでは扁桃腺炎で力が出なかった。なんとか総合49位でフィニッシュはするが、その直後 結局入院した。」
いろいろ苦難を乗り越えてここまできたが、不運の後、ここで一気に開花した感じだ。そもそもDiv1のケルメに入った2002年以来、彼は4勝をあげただけ。でもその4勝全てがグランツールでの勝ち星なのだ。ジロ1勝、ヴエルタ3勝。このまま上昇気流に乗れれば、もっともっと活躍が期待できる。
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| 最大心拍数 | ... | ランスの安静時心拍数は32-34 bpm | ||
| VO2-max(最大酸素摂取量) | ... | G・レモンは92mlだったとか! | ||
| 無酸素性閾値 | 血中乳酸が急増し始めるポイント | |||
ー ヴエルタ3勝野中で今回が一番難しかったのでは?
「今までで一番動いたヴエルタだったね。最初のヴエルタは最後の週で決定した。去年のレースはオンセに便乗した。そして、今年はチームが最初からがんがん飛ばしてくれた。この勝利はみんなのものだ。ヴエルタ3勝とも全部僕にとって大事だけど、多分今回が一番感慨深いね。」
ー 最後のTTで負けると思いました?
「始まる前は懐疑的になった。Sペレスはめちゃくちゃ強かったから。でも僕にはタイム差が十分あると知っていた。もし実力を発揮し、ナーバスにならなければ勝てると思った。始まってみたら、サンティ(ペレス)とのタイム差が刻々と入ってきた。そして勝利が逃げないことを確信した。最後の8kmは楽しんで走れた。優勝がわかったから。」
ー 2年前アイトールに最後のTTで負けたことは思い出しました?
「あれがいい経験になった。アイトールはTTスペシャリストだった。更に僕はナーバスで、実力が出せなかった。」
ー 頭で勝った勝利?それとも脚で得た勝利?
「両方だね。脚が動かなければ頭も動かない。今回は一環して安定した走りが出来た。カラールアルト、シエラネバダで特によかった。」
ー 一番きつかったステージは?
「最後の1週間は難しかった。Sペレスが完璧だったから。ナバセラダのステージは難しかった。サンティ・ペレスにはおめでとうと言いたい。素晴らしかった。」
ー ロミンゲルに3勝で並んだということについては?
「最多勝として歴史入りしたということ。でも僕は記録には拘らない。また来年優勝を狙いたい。でも記録にこだわるわけじゃない。」
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