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S画 ボードレール


月刊誌『こぺる』を岐阜で発行して1周年
 『こぺる』は復刊(1993年)当初こそ黒字でしたが、読者減にともなって赤字に転落し、基金を取り崩してなんとか持ちこたえていました。しかし2009年暮れには発行継続の見通しが立たなくなり、2011年3月号をもって終わることにしました。ところが、ある読者から寄金の申し入れがあり、ご意志に応えるべく継続を決めたのですが、阿吽社が手を引くというので、2010年10月、岐阜の戸田写植に印刷・発送など委託して再出発したわけです。そしてこの11月号で1年を迎えることができ、いまほっとしているところです。わずか16頁の「吹けば飛ぶよな」小冊子とはいえ、編集作業にはそれなりのエネルギーと時間が必要です。このままわたし一人で編集などを続けるのはとても無理と判断し、2013年3月号で終わることに決めました。復刊からまる20年での終刊です。惜しまれて終わるか、飽きられて終わるか、それはみなさんの判断に任せるしかありません。いまは残された期間を精一杯努力するだけです。

* * * * *

 「9月号の中で、私が抱いていた色々な疑問点が払拭(ふっしょく)されました。廃刊とか伺いましたが、本当に残念です。今迄も迷える子羊?に指針を何度も与えてくれました。特に今月号は小冊子なのに指針満杯で、購読を薦めて頂いて、感謝です。思想的、哲学的な事に触れる機会がなくなっているので、大いに刺激を受けました。挫折以降余り触れたくなく、避けてましたので。」終刊予定を知った方が『こぺる』購読を薦めた人に送られたメールです。こういう読者もおられるんですね。ありがたいことです。

○「週刊新潮」11/3の巻頭グラビアに「帰ってきた松本龍(前復興相)も乗り込む『呉越同舟』」という見出しが付いた写真が載っています。参議院本会議場での臨時国会開会式(10/21)に出席した松本議員が谷垣自民党総裁と菅前首相の間に座っている(座席は自由だったとのこと)。記事は、「9月20日に九大病院を退院した後、地元福岡の行事には顔を出していたようですし、こう臨時国会にも現れた。欠席なら病状も気になりますが、ま、たいしたことはなかったのでしょう」という政治部デスクのコメントを紹介しています。しかし、松本議員が「放言辞任」について弁明したという話は聞かない。「政界復帰は無理」との予測記事も出ていた矢先の再登場だけに驚きました。部落解放同盟はどういう説明をするのでしょう? またもや「頬かぶり」して済ませるつもりかしら。

○7/23以来の更新です。アクセスしてくださった方々にはおわびします。10月初めに風邪を引き、三日間寝込みましたが、全体に体調はまずまずです。更新できなかったのは『こぺる』の編集と講演で忙しかったからにすぎません。2013年3月までは、このように休み休みしながら更新することになるはず。見捨てずにお付き合いください。(2011/10/28記)



部落解放同盟二題
○『同和はこわい考』憎しの人びと─『こわい考』が出版されて24年。波紋は消え、いつしか人びとの記憶から消え去ったのだろうと思っていました。ところが、この一年あまり、平川茂さんや住田一郎さんの論稿が月刊誌『こぺる』に寄せられました。『こわい考』は忘れられていなかったんですね。しかしいまだに『こわい考』憎しで凝り固まっている人びとがいます。

 6/10。部落解放同盟愛知県連執行委員のKさんら二人が豊田市を訪れ、「部落解放・人権大学 愛知講座」への参加要請のついでに、『こわい考』に触れ、小中学生を対象とした「人権を考える集い」の講師の選定や講師料予算に疑問があると発言したというのです。講師料のどこにどんな問題があるのか具体的には言及せず、わたしが講師を務めるのがケシカランということだったらしい。

 6/14。愛知県連のYさんが愛知県教育委員会に電話をかけ、「豊田市内の学校で藤田敬一氏が人権講演会の講師をしているが、藤田氏は部落解放同盟に対し批判的な立場をとっている人物である。講演の内容を確認しているか」と尋ね、それを受けて教育委員会は、「集いの内容などを教えてほしい」と豊田市に依頼。豊田市は、「集いの概要」を紹介するとともに「講演会は豊田市が自信を持って実施しているものであり、参加者から称讃をいただいている」と伝える。「講演内容が分かるものはないか」というので、講演レジュメと冊子「藤田敬一氏からのメッセージ─よく生き合うということ」を送信。

 6/21。愛知県教育委員会と豊田市の電話のやりとり。「講演会の録音テープをダビングしていただけますか」「部落解放同盟のほうに渡すということですか」「そうです」「藤田講師に確認し、了解をいただかないとできません」「では、確認していただけますか」(ここで豊田市からわたしの携帯に電話が入る)「了解されませんでしたのでテープはお渡しできません」。そこで愛知県教育委員会はYさんに「愛知県としては、貸せるものはない」と返答。

 これが、わたしが知りえた、部落解放同盟愛知県連と豊田市・愛知県とのやりとりの一部始終です。それにしても愛知県連は豊田市や愛知県になぜこんな「要請と質問」を行うのでしょうか。

 豊田市は2008年の第1期「講座」には職員を派遣したけれど、その後は参加を見送っている。民間団体が開催する講座に参加するかどうかは自治体が独自に判断すればいいことであって、参加しないからといって問題にされる筋合いのものではない。しかも愛知県連は講座参加を要請するにあたって『こわい考』とその著者であるわたしを引き合いに出し、「人権を考える集い」にまでイチャモンをつけた。お粗末きわまりない話ですが、それは長年のあいだに身に付いた「いつものやり方」を実行しただけのことでしょう。5年前の「不祥事」から何も学んでいないのです。

 「人と人の関係」を人間らしいものに変えることの大切さに気づかない人びとが「水平社宣言」をかかげ、「部落解放・人間解放」を語っても説得力はないと思うな。ちなみに豊田市は今年も「講座」への不参加を伝えたとのことです。

 以上は、『こぺる』8月号のあとがき「濃水飛山記」に少し加筆したもの。愛知県連とは長い付き合いで、『こわい考』が出版されたとき、友情のよしみで数冊寄贈したところ、書記長から「あの書名は、オマハンが決めたのか」と詰問調の電話がかかってきました。おそらく読みもしないで書名だけで反撥したのでしょう。以来、関係は絶たれたまま。そして今回の豊田市「人権を考える集い」への介入。こういう「やり方」がいまも世間に通じると思い込んでいるところが不思議です。そして、自分たちの言動が世間に知られるはずがないと高をくくっているところも垣間見えます。つまり、彼らは「世間知らず」だということ。

○松本龍復興担当相の「放言辞任」─松本龍さんについて、朝日新聞が「際立つ不思議さ─サングラス姿/『チームドラゴン』命名」という見出しをつけて報じたのは7月2日朝刊でした。「環境相兼防災相として昨年9月に初入閣した後、存在感は薄かった。(略)祖父、父は旧社会党参院議員。政界有数の資産家として知られる」とある。そして、4日朝刊には「松本復興相 被災地で放言─『知恵を出さないやつは助けない』『何市がどこの県か分からない』」「今の最後の発言はオフレコです。いいですか、みなさん。書いたら、その社は終わりだから」などの発言が報道され、様子はTVでも放映されました。そして辞任(7/5)、入院(7/11)、入院先である九州大学病院の「気分障害と軽度の躁(そう)状態」との発表(7/14)。いやはや、なんともかとも。

 部落解放同盟福岡県連は「松本龍・前復興大臣の一連の言動について(見解)」を発表し(7/15)、県連前委員長でもある松本前大臣の言動を詫びるとともに、在任中のあれこれの「功績」を挙げ、一連の言動が「心労の蓄積が限界を超え、その結果としての気分障害によるものだ」と説明している(部落解放同盟中央本部機関紙『解放新聞』7/25)。しかしそんな説明で、あの「放言と態度」への人びとの怒りは消えるでしょうか。

 組坂繁之中央本部委員長(福岡県連出身)はかねがね「松本治一郎精神と上杉佐一郎魂」があるから福岡には「不祥事」が起こらないのだと豪語していました。松本龍さんは、その「精神と魂」を受け継がなかったのか。かりに「際立つ(言動の)不思議さ」の発症時期が「6月初めぐらい」だったとすれば(九州大学病院の発表)、どうして福岡県連は早急に対処しなかったのか。また前掲『解放新聞』(7/4)は一面トップで「松本龍(中央本部)前副委員長が復興担当大臣に」と題するインタビュー記事を掲載している。だとすれば、中央本部も責任は免れない。ところが「放言辞任」に関する「見解」は福岡県連の名で発表されている。中央本部はどうするつもりなのか。いま言えるのは、どちらも緊張感がなかったということです。全国水平社創立90周年を目前にしてのこのありさまをみて、暗澹たる思いに捉われています。

 ここで朝日新聞(名古屋本社版)に寄せられた投書を紹介しておきます。

 ★怒りを覚えた松本龍氏の発言─(略)報道によると、祖父からの3代にわたる政治家一家で、祖父は部落解放運動に大きな足跡を残した人物だという。平等意識、人を思いやる気持ち、権力に屈しない強い思いなど人権意識に囲まれて育ってきたはずだと思われるが、どうだったのだろう。(7/7M。大学教員 蒔田勝義 三重県四日市市 61歳)

 ★松本前復興相の辞任は当然─(略)岩手、宮城両県知事との会見の数こまをテレビで見たとき、あまりのひどさに唖然(あぜん)とした。あれはまともな市民の言動ではない。ヤクザの親分が子分を痛めつけているような場面だ。ご本人は「B型で短絡的なところがあって、真意が伝わらない部分があった」などと釈明したらしいが、そんなことはない。あの片言隻句(へんげんせっく)で、国民をなめていることだけは十分に伝えられた。大臣、国会議員として失格なのは当然だが、それ以前の問題だと言わざるを得ない。国会議員を20年も続けてこられたとは、信じがたい。彼は部落解放同盟の父と言われた、故松本治一郎参議院議員の孫だと聞いて、二度ビックリした。祖父にもボス的なDNAは確かにあったが、部落解放運動の筋は一本通っていた。その孫がこのていたらくでは情けない。国会議員も辞職し、頭を丸めて、被災者へのおわびのお遍路でもされては、いかがか。(7/10M。無職 石田康太郎 愛知県豊橋市 85歳)

 ★3代世襲の「解放の議席」疑問─(略)松本家は「部落解放の父」と言われた祖父の松本治一郎氏以来、3代にわたって国会議員の座を占めており、議席は「解放の議席」と呼ばれている。政治家の世襲が悪いとは言わないが、松本氏に議員の適格性があったのかは疑問だ。岩手県での、「助けない」発言、宮城県での「なにもしない」発言。マスコミに「書いたら終わり」との発言も。問題が指摘されると「わたしは九州の人間だから」とか「B型で短絡的だから」などと失態の理由を説明するのは、まったく納得できない。松本氏自身も祖父が初代委員長を務めた部落解放同盟の幹部だというが、門地、血統による差別や偏見と闘ってきた解放運動の理念と一連の発言は相いれるとは思えない。そもそも解放同盟の綱領では「身分意識の強化につながる天皇制に反対する」と明確にうたっている。その一方で「解放の議席」を松本家が3代にわたって世襲するというのは、まったく筋が通らないことではないだろうか。(7/10M。労組役員 酒井徹 名古屋市中区 27歳)

 こうした疑問と批判が「気分障害と軽度の鬱状態」という診断でかわすことができるとはとうてい思えない。

 ところで、『週刊新潮』7/21号に、「共産党だけが指摘した松本龍前大臣の恫喝は解放同盟の地金(じがね)」という見出しを付けた記事が載っています。〈松本龍大臣の発言は内容も口調も人間として最低。大臣はもちろん国会議員の資格なし〉〈「書いたら終わりだぞ」というマスコミ恫喝は、部落解放同盟の地金が出たものでしょう〉という、小池晃・前参議員(共産党)のツイッター(7/4)を紹介したもの。さてさて、松本龍さんの言動を「部落解放同盟の地金が出たもの」とみるか、それとも「気分障害と軽度の鬱状態」が引き起した「症状」とみるか、それが問題だ。しかし後者、つまり「症状によるもの」だとしても、心理学でいう無意識・下意識にあるものが「病気によって表面に出た」という分析も可能です。病気だったと弁解するのは無理でしょうな。(11/7/23記)

●2か月以上も更新せず、アクセスしてくださった方々にはお詫びの言葉もありません。体調はまずまずで、血圧もほぼ平常どおり。ご放念ください。もちろん不愉快な人に出会うと血圧が高くなるので、できるだけそういう人は避けることにしています。家族以外で出会う人は、岐阜県や岐阜市の会議とか講演会の参加者や、スポーツクラブの「プル友」さんたちだけ。ことほどさように、わたしの住む世間は狭い。しかしそれは無職渡世・年金生活者にはやむを得ぬところ。その分、読書で視野の広がりと深まりを図るようにしています。



「生き合う姿」に励まされる日々
 「亡くなった人の名前の載るページ小鳥のかごに敷くのを控える」(神戸市 野中智永子。朝日歌壇 11.5.9M)。この作者の気持が少しわかる気がする。というのも、わたしは三月十二日の朝刊からひと月間、 なぜか新聞が捨てられなくなってしまいましてね。その後も、記事の切り抜きとファイリングが日課となって います。

 社会面から政治面までざっと目を通し、こころに響き、大事だなと感じた記事とか写真をサインペンで、た とえば五月十四日の朝刊なら「11・5・14M」と注記し、翌日か翌々日に切抜き、熟読後、クリヤーブックにフ ァイルします。震災関連のファイルはすでに四冊目になりました。これは、わたしなりの「こころに刻む」作 業なのです。

 そこで気づくのは、インタビュー記事の東北方言にこころが温かくなり、「生き合う」人びとの姿を伝える 記事に励まされるわたしがいるということ。もちろん「がんばれ! 日本」や「一致協力」に、戦前・戦中の 「一億一心」を想起する人がいます。過剰な反応と切り捨てないで、きちんと考えておきたいことです。

 「夜中、娘から交通事故を起こしてしまったと電話がありました。(略)幸い相手の方にけがはなかったが 、大事な車に傷つけてしまい、申し訳なくてオロオロしていると、30代の男性は『車の修理費は後日、連絡し ます。それより気をつけて帰りなさい』と、アイスクリームなどを下さったそうです。/10日ほどしてファク スが届きました。修理費の見積もりが2通あり、3万円の安い町の修理屋で修理しますとありました。さらに修 理費は払わなくてもいいので、その分、東日本大震災の義援金として送って下さい、と口座番号も記入してあ りました。/そう言われてもと思い、その方に連絡すると『大変な思いをされている方が多くおられます。こ んな時こそ少しでも役に立てた方がよいので、あなたの名で送っておいて下さい』と言われました。何度言っ ても返事は同じでした。/事故は反省するばかりですが、本当にやさしい心の持ち主の方に触れさせて頂き、 娘は感謝しております。そして私たちでもまだ考えれば何かできることがあるかもしれない、と教えられまし た」(「朝日」4・11M。「声」)。この二か月、各地でみられた、こういう「生き合う姿」に、わたしは「生 きる力」をもらってきました。

 しかし同時に、この国の指導層と言われる人びとの想像力の欠如と品性の低劣さにうんざりもしてきました 。

 「小学生だって『想定』できた─(略)10年ほど前の東京電力運営の『電力館』(東京・渋谷)での出来事 を思い出した。小学生が10人ほど見学に来ていた。その中の1人が案内役の女性の『質問ありますか』の声に 元気に手を挙げ、災害時の原発の多重の安全対策について質問した。/小学生『これが、壊れたら?』/女性 『その場合はこれが働くので大丈夫です』/少年『もしそれも壊れたらどうするんですか?』/女性『その場 合にもこれが働くので大丈夫です』/少年『それも、壊れたら?』/女性『そんな事はありません!』/案内 役の女性はとうとう怒り出してしまった。今にして思えば、この小学生の素朴な指摘の方が科学的だったのだ 。小学生に想定できたことがなぜ安全を売り物にする原発の専門家に想定できなかったのだろう」(「朝日」 4・1M。「声」欄)。

 素朴・素直な「問い」と誠実に向き合わず、せせら笑って無視・否定してきた東京電力の幹部、地方自治体 の首長、政治家、官僚、財界人、学者、評論家、ジャーナリストたちの醜悪な本性が暴露されたのですが、こ ういう事態に立ち至ってもなお傲然と開き直る人物がいます。元東電副社長・元参議院議員(自民党)・東電 顧問の加納時男氏。

 「原子力を選択したことは間違っていなかった。地元の強い要望で原発ができ、地域の雇用や所得が上がっ たのも事実だ」「東電をつぶせと言う意見があるが株主の資産が減ってしまう。金融市場や株式市場に大混乱 をもたらすような乱暴な議論があるのは残念だ。」「原子力損害賠償法には『損害が異常に巨大な天災地変に よって生じたときはこの限りではない』という免責条項もある。今回の災害があたらないとすると、一体何が あたるのか。全部免責しろとは言わないが、具体的な負担を考えてほしい。」「低線量の放射線は『むしろ健 康にいい』と主張する研究者もいる。説得力があると思う。私の同僚も低線量の放射線治療で病気が治った。 過剰反応になっているのでは。むしろ低線量は体にいい、ということすら世の中では言えない。これだけでも 申し上げたくて取材に応じた。」(「朝日」5・5M)。

 こういう人が東電顧問でありつづけていること自体が驚きです。さすがに怒りを覚えた人が多かったようで 、「朝日」名古屋本社版では5/10までに批判の投書が3通載りました。

 「人としての良識さえ疑う。原発事故によって職を失ったり、避難生活を強いられたりしている福島県民の 皆さんに償う気持ちがあるのか、全く誠意のかけらも見えない発言で非常に腹立たしい。厳密に線量などを管 理する治療と、今回の事故による被曝を同列に語るとは笑止千万。過剰反応というのなら、自分のお孫さんを 汚染地帯に住まわせるのか。心配なのは、将来を背負う子どもたちの健康である」(愛知県半田市 主婦 平 野紀子 41。「朝日」5・10M)。

 だが、自信満々の加納氏にはこれらの投書など痛くも痒(かゆ)くもないでしょうな。それはともかくイン タビューを読んで感心したのは、加納氏のホンネをうまく引き出した記者の力量です。「低線量の放射線はむ しろ健康にいい」と言いたいだけで取材に応じたなどと、ぬけぬけと語る加納氏の心性をいち早く見抜いてい たとしか考えられません。
 もうひとつおもしろいなと思ったのは、「核燃料サイクル」政策は破綻(はたん)していると主張する河野 太郎衆議院議員の意見について尋ねられ、「反原発の集会に出ている人の意見だ。自民党の意見になったこと はない。反原発の政党で活躍すればいい。社民党に推薦しますよ。福島瑞穂党首は私の大学の後輩だから」と いう部分。「私の大学」とは東京大学を指し、福島瑞穂氏を「私の大学の後輩だ」と言い放つ加納氏の「同窓 意識」には笑ってしまいました。こういうエリート意識の上に原発は乗っていたのです。危ないのはあたりま え。福島原発事故が人災でもあるとされる理由がわかります。

(2011/5/14記)

 *本稿は、5月下旬発行予定の『こぺる』6月号「あとがき」濃水飛山記と重なる部分があることをお断りし ます。



地震に遭遇する
 ○3月11日(金)午後2時46分、わたしは東海道新幹線品川駅の上に建つビルの2階で講演中でした。わたしから見て左前列 の職員が右側を見上げている。虫か何かを追っているのかなあと思い、「どうしたの?」と尋ねると、「地震らしいです」と いう。揺れるスピーカーを見つめていたらしい。その直後から大きな揺れが断続的にあり、職員に手招きされ、慌てて机の下 に潜り込みました。戦時中、警戒警報の発令とともに防空壕に飛び込んだことは何度もありますが、地震で机の下に身を隠す のは初めての体験でした。
 あとで東京が震度5強だったと知りましたが、落下物はなく、窓から火災の煙や路上の避難者が見え、職員たちに地震発生 を報じる携帯電話の画面をみせてもらったものの、まさか津波が押し寄せ、あのような被害が起きているとは。
 余震が続くので講演は急遽中止して解散。しかし東海道新幹線は止まり、ホテルは満杯。結局、会議室のソファーで一夜を 明かす仕儀とあいなり、震災被害の実状を伝えるテレビ画面に釘付けになりつつも、睡魔に襲われて眠りにおち、翌朝7時起 床。8時27分発の「のぞみ」で品川を出発し、自宅にたどり着いたのは11時すぎでした。
 被害の甚大さが明らかになるにつれ、「わたしに何ができるか」という問いが聞こえてきます。

 中井久夫さん(精神科医)は「現地の中の声に耳を傾けるべきだと思う。(略)被災した人たちが切り開こうとする道を尊 重していくしかない。(略)被災者に敬意を持って、自尊心を尊重するのが大切だと思う。(略)ただ『誰かがいてくれる』 というだけでも意味がある。(略)周りのことが見えるようになった時に、体験を分かち合っていく事がとても大切になる。 忘れられるのが最大の危機だと思う。阪神大震災の時は、各自治体の救援の車が見えただけでも心の支えになった。」という 。(朝日・3/15朝)

 落合恵子さん(作家)は「わたしたちが、あるモノに手を伸ばす時、少しだけ想像してみよう。『いま、コレを最も必要と しているのは誰なのか』と。買い占めを控えることもまた被災者に向けて、『わたし』がいまできる、ささやかなはじめの一 歩に結びつく場合もある。」と書く(同上、3/19朝)。

 山田洋次さん(映画監督)は「こんな時、自分たちに何ができるのかという声をよく聞きます。それも大事だけど、被災し た人たちの悲しみや苦しみを、僕たちはどれくらい想像できるのか。そのことがとても大事だと思うのです。現地の人たちの 心の中をどれくらいイメージできるのか、自分に問いかけ、悩む。そこから何かが学び取れるのではないでしょうか。(略) 貧困な想像力を懸命に働かせて、被災地の人たちを思い続けたい。そうすることでつながっていたい。今はただ、そう思って います。」と語る(3/21朝)。

 松原隆一郎さん(社会経済学者)は「今回は津波災害が重なっただけに、さらに苛酷な心情を抱える被災者が多いと想像し ている。接することができたなら、『分かったつもりにならない』ことを肝に銘じて、問わず語りに出るつぶやきに、ただ耳 を傾けたい。(略)主権者が現場作業者に生命を賭すよう命じた例は、歴史に満ちている。しかしそれが主権在民の世でも起 きることに、そして関係者たちの酌み取りがたい心情についても、私たちは思いを致す宿命を負ったのである。」と書く (3/21朝)。

 そうかもしれないと思いつつ気が重くなっていたとき、中村征夫さん(水中カメラマン)の「耐える姿 世界に勇気」(コ ラム「生きていくあなたへ」3/22朝)が目に止まりました。

 「東北の人たちの強さに打たれています。津波で家族と離ればなれになり、情報もない。雪が降る。それなのに取材に、ぼ そぼそ『家族が見つからない』と答えるだけ。つらいだろうに、憤(おこ)っている人を見たことがない。穏やかに励まし、 耐えている。その姿に日本中、世界の人が逆に勇気づけられているんじゃないでしょうか。北海道の奥尻島で経験した大津波 を思い出します。取材で島を訪ねていたんです。僕らの民宿に遊びに来た中学生も漁師さんも犠牲になった。翌日、ぼうぜん として歩いていると、被災した人が『水、飲んでけよ』。なんでこんなに優しくなれるのか。あの後、海が憎かった。でもよ く考えると、プレートが動いて、海の水が跳ね上がっただけ。マグマの力はすべてのものに平等に作用する。人の力がいかに もろいか。社会のあり方を謙虚に反省しています。宮城県女川町の親戚と連絡がつきません。心配しています。」

 「マグマの力はすべてのものに平等に作用する」という見方の根底にあるのは何か。いまそれを考えています。

○石原慎太郎(東京都知事)の「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要 がある。やっぱり天罰だと思う。」との発言が報じられ(3/15朝)、波紋を呼びました。後日、発言を撤回し謝罪して終わっ たようですが、「本職は語彙(ごい)の乏しい作家です」という川柳(3/18朝)には笑ってしまいました。しかし石原発言の 基本は語彙の多寡にあるのではなく、彼の感性・知性・品性にかかわる。「東京は日本のダイナモ(発電機)だ」などと都知 事選挙公示日に発言している姿をTVで観ながら、この国の人間力の衰弱をいよいよ痛感。

○テレビから企業の広告が消え、民間広告ネットワーク「AC JAPAN」のCMが流され続けています。それがウルサイと抗議す る人がいるらしい。しかし、わたしは昨年秋に寄せてもらった岐阜県飛騨市神岡町山之村地区の女性と子どもたちが登場する CMを大歓迎。ナレーションを担当しているのは新聞広告にも載っている下梶笑子さん(78歳)ではないかな、とか、登場する 子どもたちは山之村小学校の生徒たちだろうな、などと想像するのが楽しい。

(2011/3/26記)



「多事争論・異論歓迎の精神」の大切さ
 ある人から、「上司にみんなの前で責任を声高に追及されたり、怒鳴られたり、ついには異動願いを書かされた」というメールが届いたのは昨年12月初めのことです。メールに添付された「異動願い」の文字には、こころの動揺が表われていました。とっさに、これはパワーハラスメント・不当労働行為ではないかと考え、異議申し立てをするようアドバイスするとともに、上司を監督する立場の機関に実情の調査と適切な指導を要請しました。

 この上司は、これまでにも感情的になって複数の部下を難詰したことがあり、その一人の家族は弁護士をつけようかと悩んだといいます。その間の事情は、上部機関も把握していたにもかかわらず放置し、わたしの要請があってようやく重い腰をあげたようです。おそらく遠まわしに気をつけるよう注意したのでしょう。メー ルによれば、くだんの上司の態度がいくらか「穏やかになった」とか。

 しかし要請から一カ月たってもわたしへの報告がない。そこでこの1月、事務所に出向き、その後の経過を 尋ねましたが、返答はお粗末きわまりないもので、「すべては、その人の将来を考えての叱咤激励だった」と いう上司の弁解をなぞったものにすぎませんでした。怒りを覚えて、わたしは思わず、「そういう弁解を〈巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すくな)し、仁〉(論語)というんです!」と言い返してやりました。 上司はこの三月で定年を迎え退職することになっています。そして、わたしに訴えてきた人は別の職場に異動 して「一件落着」にされる可能性が高い。

 こうした上司の横暴が見過ごされている原因の一つは、職場に「多事争論・異論歓迎の精神」が欠如しているからです。全員一致を尊ぶ「和の精神」が過剰同調を強制し、「人間としての尊厳」を侵しても気づかない 風土をつくりあげている。

 もう一つは、この職場には働く人の権利を守る労働組合がないからです。

 「労組の意味さえ知らない若者も多い。〈一流校〉といわれる都内の大学で、教員が授業で労組について話 した。〈労組と経営者が対立関係だなんて、きょう初めて知った〉〈労組って悪いものなんでしょ。ドラマで 『あいつら労組だ』というセリフがあったし〉と言われた。〈どこから手をつけていいのか〉と教員はため息 をつく」(朝日新聞・11/2/1朝刊、記者有論、編集委員・竹信三恵子「就職のミスマッチ 『自衛策』伝えなかったツケ」)。

 労働組合をつくること(団結権)は日本国憲法が保障する基本的人権であることを知っている人はわずか22 %にすぎず(NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第七版]』NHKブックス、10/2)、働く人の組合 加入率が18・5%という現実の反映として、上司によるパワーハラスメントが横行している。こういう上司と 監督機関が「人権尊重」を唱えている姿は、なんとも滑稽で醜悪です。

 わたしはメールをしてきた人に、イェーリング『権利のための闘争』(岩波文庫)を読むように伝えるとと もに、「権利というものは、天が賦与するものではない。生まれながらに持っているものでもない。自分をおとしめ、差別する相手と闘ってかちとるものだ。1955年12月1日、アメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリーに おけるバスボイコット運動の発端となったローザ・パークスさんの不屈の行動、ボイコット運動を指導したキ ング牧師の初志を思い返してほしい」とメールしました。事柄は個人の資質や性格の問題ではない。そうした 個別事情を超えた普遍的価値としての権利の擁護がもとめられているのですね。
(2011/2/19記)


2010年から2011年へ
○古くからの仲間と再会する─12/10、徳島県松茂(まつしげ)町人権教育推進協議会主催「人権問題につ いて考える親子の集い」へ。京都までは新幹線、京都からは高速バス。瀬戸大橋を渡り、淡路島を縦断し 、鳴門大橋を降りたところが松茂町。夕暮れの瀬戸内海が美しかった。「『同和はこわい考』をかつて読 んだことがあり、大変衝撃を受けた。その著者のお話が聞けてとても良かった」とアンケートに記入して くださった男性がおられる。ありがたいなあと感謝。終わって、友人と徳島の町で飲みました。話は当然 、「あのころのこと」におよびます。
 「藤田さんは貴重な体験をしたよね」と彼が言う。部落解放運動の再生・蘇生を求める集まりを察知し た連中が会場に乱入し、拉致されそうになったときのことです。急場を救ってくれたのがの町の長老で、 女性たちがご飯を炊いておにぎりを握ってくださり、フェリー乗り場まで護衛してくれたのは青年たちで した。フェリーの甲板で、真っ暗な海を眺めながら、わたしは「相手が部落民であるということだけでは 絶対に屈服しない。まちがった部落民とは闘う」と、いまは亡き友人Hさんに誓ったのでした。あれから35 年。右手で糾弾をちらつかせ、左手で便宜供与と私的利益を要求する連中がいるかぎり、「マイナス・イ メージの記憶と伝承の連鎖」を断ち切ることはできないし、「和解と関係の修復」は実現できない。その 確信の根は、あの夜に芽生えたように思います。
 翌朝10時、松茂発の高速バスで京都へ。『こぺる』の「人間と差別」研究会に出席。報告者は住田一郎 さんということもあって、出席者は21人と大盛況。平川茂さん、佐々木寛治さんなど最近『こぺる』に寄 稿してくださった方や中村勉さんなど懐かしい人びとのお顔も揃って大いに議論を交わしました。終わっ て「新羅(しるら)」で鍋をつついての忘年会。用事をすませた石元清英さんが駆けつけ、体調のよくな い石原英雄さんもちょっと顔をだしてくれるなど、こちらも大盛況(16人)。さしずめ同窓会の雰囲気で した。岐阜で『こぺる』を発行しはじめたわたしへの励ましの意味もいくらかこめられているような気が して、ありがたかった。友人というのは、ほんまにええですなあ。

○2010年最後の講演会─12/15、岐阜県笠松町立笠松小学校へ。昨年に続いてのお招きです。校長のTくん は、わたしの元ゼミ生で、いま59歳かな。数年前、土岐市立妻木(つまき)小学校でも連続して招いてく れました。全校生徒が暖房の入った体育館にきちんと座って待っていてくれる。一番前は1年生。女生徒に 、「さあ、立って。おっちゃんをぎゅっと抱いて」とお願いしたら、シクシク泣きだしてしまいましてね 。担任が慌てて駆けつけ寄り添ってくださいました。女生徒はしばらく担任の膝に顔をうずめていました が、そのうち顔をあげ、話を聞いてくれ、最後は握手して別れました。後日届いた感想文に、「わたしは ふじたせんせいのことばやりえちゃんやぐをしていたよね。でもはずかしくてないたね。げこうするとき6 年生に「あなたないたでしよう?」ことばをだされてしまったけどいつかこころがあったかくなりますね 。ないちゃってごめんね。ほんとうはうれしいよ。」とあって、ホッ。
 そうそう、こんな感想文もありました。「先日は、とてもすばらしい講演会を開いて頂き誠にありがと うございます。いじめの事や、それを注意する心。生き物の大切さ。社会的に聞いてもとても役に立ち、 心温まるお話でした。この話を聞き、いじめはいけない、むしろそれを注意することを改めてその大切さ を学びました。こんな講演会を聞き、とても光栄です。これからもこのすばらしいお心を全国の人々にぜ ひお伝えください。」(6年男子)。なかなか言うやないですか。小学校6年生からのエールとしてありが たく受け取りました。

○友人の墓参り出かける─12/30、高校時代の友人Nの墓参で宇治へ。2時、JR奈良線ホームでSと待ち合わ せ、六地蔵に向かいました。仏壇に手を合わせ、それから墓地へ。帰途、Nの連れ合いだったA子さんに小 料理屋さんでご馳走になるというのが恒例になっています。その席で、「Nのことを書いたけれど、読んで くれはりますか」と尋ねると、「ぜひ」とのこと。岐阜に帰ってすぐ『こぺる』NO.203(2010/2)をお送り したら、お礼の手紙が届きました。

早速『こぺる』を送って頂き、ありがとうございました。故主人が病院のベッドの上で、私が病室に 入ると同時に『同和はこわい考』の本を手に、「藤田がこんな本を持って来てくれた」と嬉しそうに、な んか自慢気に渡してくれた彼の姿が目に浮かび、あの日の病院の情景が、鮮明に浮かび、懐かしく、何と も言えない思いです。すぐに仏壇に。他界して二十三年にもなるのに、本に載せてもらって、彼も、きっ と喜んでいることでしょう。いつ迄も、忘れずに、本当にありがとうございます。
 友情とは、その死後も続くものなんですね。15歳で知り合い、49歳で別れたN。その表情としぐさは、い まも若々しいままです。

○2011年の年賀状
謹賀新年/昨年も読書と講演と月刊誌『こぺる』の編集、そしてプール遊びと山小舎暮らしで過ごす充実 の一年でした。生き方の基本は、「人や自然とよく生き合う」こと。内ネコ十匹、外ネコ六匹のほか、時 折顔を出すアライグマも書斎に棲みつくクモも、生き合う仲間なんですね。/この一年で変わったことと いえば、ある方から多額のご寄付をいただき、廃刊寸前だった『こぺる』があと二年間、岐阜で発行でき るようになったことです。初志ということばの意味をいまさらながらかみしめています。/二〇一一年  辛卯 元旦/藤田敬一
 戸田写植に原稿を送信したのが12/22、印刷された賀状500枚を受け取ったのが12/25。年内投函・元旦配 達という呪縛から解き放たれていますので、賀状の宛名書きと一筆添え書きは正月三が日の仕事なんです 。今年いただいた賀状の最少年齢者は孫(小学校1年生)でした。「おじいちゃんへ あけましておめでと うございます。ことしもよろしくおねがいします。りこより」。宛名・住所は母さんの筆跡。次は大阪市 立御幸森(みゆきもり)小学校2年生のN・Nさん。「あけましておめでとう ことしもよろしく 2011.元 旦」。一所懸命に漢字で住所を書いてくれましたが、どうも阜がむずかしかったみたい。差出人住所「大 阪府大阪市生野区勝山北」はきちんと漢字で表記されていて、そのがんばりに拍手しました。そして、横 浜市港南区丸山台のO・Yさん(中学2年生)。「寒いのでおからだにお気を付けて下さい」。この人は5年 生のとき同級生のいじめを訴え、友人で校長のNさんが急遽、わたしを招いてクラスで授業をしたことがあ ります。わたしを忘れずに賀状を送ってくれたことがとてもうれしい。一宮市のS・Aさん(大学4回生)か らは教員採用試験に失敗したけれども、再チャレンジしたいとの一筆あり。幾多の困難を乗り越えて高校 卒業認定試験に合格し、音大でピアノを専攻したAさん。彼女のふんばりを応援したい。
 そのほか、若いころに家庭教師をしたことのあるT・Kくん、茨木の学習塾で教えたMくん、京都市桂の学 習塾で教えたNさん、Kさん姉妹…。岐阜大の卒業生からもたくさん賀状をいただきました。最高齢者は90 歳におなりになった京都市立光徳小学校の恩師T・M先生。「年賀状は虚礼だから、やらない」というのも 一つの見識。「齢をとったので、もうやめます」というのも一つの選択。住所も宛名も本文もすべてパソ コン作成の賀状であろうと、それはみな「元気でやっていますよ」というサインです。「いのちと存在の 確かめ合い」として、年1回の便りを出し合うのもいいもんです。
 ところで、ある友人からの賀状に「差別より格差と貧困が今の日本社会の主要矛盾になっているように 思います」と書かれていました。「差別問題より格差・貧困問題の方が大事だ」ということでしょうか。 それもさることながら「主要矛盾」という表現が懐かしく、書棚から毛沢東「矛盾論」(大月書店「国民 文庫」版、58/2新訳第5版)を引っ張り出して久しぶりに通読しました。そこで気づいたのは、「主要矛盾 」という俯瞰的分析の危うさです。「どこに闘いの主要目標を定めるか」という問題の立て方の危うさと 言いますか。「一点突破・全面展開」というシナリオ、そうした戦略・戦術にもとづいて大衆・民衆・人 民・市民を指導する「前衛」党的発想。輻輳する利害・対立・相克の人間的諸相の平板化と単純化。なに よりもわたしは、「主要矛盾」なるものをころころと入れ替える理論家が信用できないのです。だから、 わたしはこれからも「人間にとって差別するとはどういうことか。それを克服するとはどういうことか」 を考え続けるつもりです。

○新年最初の講演会─1/9、昨年に引き続いて岐阜市島公民館の「成人式」に出かけ、新成人百余人に「と もに生き合う」と題して30分間、話をさせてもらいました。「あなたたちは20歳。わたしは明日72歳の誕 生日を迎えるんや」と言うと、右側2列目端っこの青年が「おめでとうございます!」と声をかけてくれま した。昨年と同じ反応にうれしくなりました。その横に双子の青年が、ひときわ目立つ髪形をし、どちら も和服を着こんでいる。瞳が印象的。「福沢諭吉は好きかな?」「あの紙はね」「そうや。ぼくも紙の福 沢諭吉が好きやねん。でも最近、福沢さんは忙しそうで、あんまりウチに来てくれへんねん。あの福沢さ んとぼくは、実は誕生日が同じで明日やねん!関係ないか」などといった調子でやりとりしながら話し終 えました。返りぎわ、気持よく応答してくれた青年が、「思わず引き込まれて聞きました。いい話でした よ」とお礼を言ってくれ、新年の好スタートを切ったという次第。まずは、めでたし、めでたし。
(2011/1/10記)



2010年を振り返る
○各地をまわる─1月10日の岐阜市島公民館の成人式から12月15日の岐阜県笠松町立笠松小学校まで、「よく生き合おう!」と語りかける講演活動は99回、そのうち幼小中高の児童・生徒・保護者・教員を対象にしたものが40回、つまり半数ちかくが学校関係ということになります。

 たしかに自治体や企業からの依頼は減っています。しかし地元の岐阜県・岐阜市はもちろんですが、愛知県豊田市・小牧市、岐阜県関市・養老町、三重県いなべ市・菰野(こもの)町、真宗大谷派大垣教務所、JR東海、郵便事業会社近畿支社、京都府立医科大学付属病院、名古屋市社会福祉協議会、三重県四日市市職員研修所、三重県私立幼稚園協会などとは長い付き合いになっています。最近では瑞浪(みずなみ)市とも繋がりができました。それらはすべて担当者の熱意とご努力の結果です。とくにありがたいのは、出会いが繋がりになり、繋がりが新しい出会いを招くという現象です。

 高山市での講演を報じる新聞記事(朝日2/9)を読んで、岐阜市金華公民館での講演(2/15)を聞きにみえ、関市立倉知(くらち)小学校の家庭学校に招いてくださった方がおられます。多治見市で開かれた県主催の講演会(8/4)に参加した職員の話を聞いて、「幸せ子育て講演会」(11/25)の講師にと依頼してこられた可児(かに)市教育委員会生涯学習課。その集まりに出席なさった愛知県犬山市の女性から「ぜひ招いてほしい」と頼まれた小学校の校長さんが笠松小学校まで足を運ばれるということもありました。

 この一年、こうした出会いと繋がりによって、わたしは生きる力をもらってきました。お会いしたすべてのみなさんに感謝します。

○「つぶやき」ひとつ─三重県菰野(こもの)町朝上(あさかみ)公民館でのことです(12/5)。話の最後に、「肉体がこころを持つということをたしかめたくて握手している」という門田照子さんの短歌(朝日歌壇08/10/13)を紹介しながら、「横の人と握手してください」とお願いしたところ、女性たちはすんなり応じてくれましたが、男性たちはなかなか握手してくれない。そこで、一番前に座っていた二人の男性に「握手してよ」と重ねてお願いすると、照れながら握手したお一人が「ぬくたいのお!」とつぶやくではありませんか。

 「ぬくたい」という言葉を久しぶりに聞いてうれしくなり、「そうなんです。人は手を通して伝わってくる相手のこころのぬくもりに励まされ、支えられているんです。もちろん、こちらのこころのぬくもりも手を通して相手に伝わっているんですね。それが交感・共感・同感ということ」と語りかけました。その日一番の、こころ温まる瞬間でした。

○逝く人を送る─5月に次兄の長男(48歳)が亡くなり、10月にはその次兄(77歳)までもが亡くなりました。二人とも癌でしたが、まさかこんなに早く別れが来るとは思ってもいなかったので少し落ち込みました。

 9月には東海郵政局同和対策室長としてお世話いただいたばかりではなく、退職後『こぺる』にも寄稿してくださっていた杉山光洋さん(69歳)が、12月には30年来の友人である島根県浜田市在住の竹田寿典さん(57歳)が亡くなられました。ああ淋し。

 年が明けて72歳になるわたしに残された時間はそう多くはないと自覚しています。そこでプールに通うなどして、体調維持に気をつけてきたつもりですが、11月初め、血圧がやや高いことが判明しました。一過性のものだと思うのですが、念のために薬を飲んでいます。まだまだやりたいことがあります。子どもたちともっと出会いたい。「生き合う力」の再生に力を尽くしたい。ここで老(ふ)けるわけにはいかないし、まして倒れるわけにはいきません。精々健康に留意します。

○『こぺる』の継続を決心する─わたしにとって今年最大の出来事は、やはり『こぺる』発行の場所を岐阜に移したことでしょうね。もちろん、それなりの覚悟があってのことです。ある方から300万円という多額のご寄付をいただいた以上、継続は人間として当然の責務です。「2011年1月31日でやめると決めていたので、やっぱり継続できません」というわけにはいかない。それは初志にかかわる問題でもあります。

 これまで3号(11月号〜1月号)発行して、仕事の流れをつかみつつあります。わたしが実務を担当するにあたってこころに決めたことはただ一つ、「すぐ対処すること」。事務処理を翌日にまわさない。郵便払込票が届いたり、住所変更の連絡があればすぐ戸田写植にメールします。来年3月、年度末に購読費の払い込みが集中することが予想されますが、3月、4月は講演も少なく、読書の時間をまわせば、なんとか乗り越えられるはず。ここは「慌てず、焦らず」にやります。

○今年の読書から─今年は、「居座り読み」(一人の作品を集中的に読む)ではなく、また「はしご読み」(ある作品を手がかりに次の作品へと読み進む)でもなく、濫読の傾向が強かったですね。『こぺる』誌上での対談企画がなかったことが影響しているみたい。気の向くまま、手当たり次第に読んだという感じです。

 12月に読んだのは、佐々井秀嶺『必生 闘う仏教』(集英社新書、10/12)、大岡 信『詩への架橋』(岩波新書、77/8第2刷)、道浦母都子『たましいを運ぶ舟』(岩波書店、10/4)、池澤夏樹編『本は、これから』(岩波新書、10/11)。「重厚な本」がないのは、人権週間で忙しかったのと、『こぺる』の編集に集中していたからです。大岡著は、新鮮な気持で再読。池澤編著は、執筆者の本への思いが語られていておもしろかったけれど、わたしは自分の流儀を貫くつもり。電子書籍なんてまっぴらごめんです。

○今年の購読書から─書斎の机の後ろと左側の書棚に、読みたい本がならんでいます。文庫、新書を入れて、その数およそ100冊。眼を合わすと、ティム・クレイン『心の哲学─心を形づくるもの』(勁草書房、10/7)や苅谷夏子『評伝 大村はま─ことばを育て人を育て』(小学館、10/10第2刷)などが「早く読んでよ」と呼びかけてきます。そのつど、「もうちょっと待ってや。そのうちきっと読んであげるさかいに」と返事しています。アッハッハ。

○『こぺる』2月号(1月下旬発行予定)の予告

  • 工藤力男さん「無言館感傷紀行」
  • 影山秀和さん「なぜ本を読むのか」
  • 森永都子(みやこ)さん「自分史のこころみ─Kへの手紙」
  • 森永都子さん「表紙裏─絵と詩」
  • 濃水飛山記(藤田敬一)
という内容です。目下、編集作業の真っ最中。

○それでは、みなさん、よいお年を!
(2010/12/25記)



人権週間で各地をまわっています。
 12/4から12/10まで、世界人権宣言を記念して各地で人権問題を考える取り組みが進められています。そこで、わたしにも声がかかり、「よく生き合おう!」と語りつづけている最中です。今日(12/4)は愛知県豊田市立高橋中学校でした。12/5は三重県菰野(こもの)町朝上(あさがみ)地区公民館、12/6は豊田市立梅坪台中学校、12/7は岐阜県養老町立東部中学校、12/8は岐阜県土岐市立泉中学校、12/10は徳島県松茂町、という日程です。ごらんのように対象は圧倒的に中学生。愛知県豊川市立小坂井中学校(11/27)もそ うでしたが、生徒たちの反応がとてもよくて、かえって励まされています。12/15の岐阜県笠松町立笠松小学校が今年最後の講演となります。
 あとは、岐阜県・岐阜市・瑞浪市の会議3回と忘年会(『こぺる』12/11以外に2、3回)と高校時代友人だったNの墓参(宇治市、12/30)のみ。

『こぺる』を順調に発行しています。
 慣れない作業に戸惑いつつも、戸田写植のスタッフ3人と手作り感覚で、編集・印刷・発送・出入金の処理をやっています。あれこれミスがあり、恥ずかしい思いをしていますが、そのうち必ず克服したいと意気込んでおります。2011年1月号(2010/12下旬発送予定)の編集はほぼ終わりました。構成は以下のとおり。

  • 石元清英:なぜ学生たちは部落に対してマイナスイメージをもってしまうのか
  • 森 昌義:「韓国併合百年」を考える(2)ある無縁墓のこと─島根の聞き取り調査から
  • 長谷川洋子:いのちを生きる─冬の到来
  • 小林 茂:記憶の旅から明日へ─写真と文
  • 濃水飛山記(藤田敬一)
(2010/12/4記)



『こぺる』11月号を岐阜で発行しました!
 阿吽社から『こぺる』発行にかかわる事務を引き継いで3週間、10月25日朝、わが家に近い「コメダ珈琲」則武店で、出来上がったばかりの11月号を戸田二郎さんから受け取りました。「ようやくここまで来た!」と、戸田さんとお冷で乾杯。

 『こぺる』の印刷と発送を業務委託する戸田写植は、あのオグリキャップが世に出た笠松競馬場の近く、木曽川右岸沿いにあります。スタッフは主の戸田二郎さんのほかに、弟の三郎さんと事務担当の女性(敦子さん)の三人という、小じんまりした町の印刷屋さんです。70年代の末ごろだったかな、二郎さんは障害者解放運動の活動家として太平天国社に姿を現わし、そこで知り合いました。ちょうどそのころ、わたしは部落解放運動の真っただ中に身を置き、運動と組織の現状への疑問がふくらみ、まわりの人びとに「愚痴」をこぼし続けていました。そのとき、黙って話を聞いてくれたのが、故・師岡笑子さんであり、いまは北海道で暮らす学生時代からの友人Sであり、そして太平天国社のメンバーでした。お酒が飲めない二郎さんは、酔っ払いの「愚痴」を朝方まで聞いてくれた数少ない友人の一人です。

 「愚痴」をこぼしているうちに、「愚痴」の正体、つまり部落解放運動と部落解放同盟に対するわたしの疑問の核心部分が鮮明になってきました。そこで、1985年12月発行の『天国つうしん』に、「同和問題意識調査を読む」と題する文章を書きだしたのです。連載は休み休みしながら1987年4月まで続きます。初めは手書き原稿をファックス印刷していたので、「読みにくい」という感想もありました。そんな人には「思想で読め!」などと開き直っていましたっけ。

 それから後の、『同和はこわい考』出版までの経緯は、『こわい考』冒頭の文章「この冊子を読んでくださる方に」や、出版から十年後に自費出版した『「同和はこわい考」の十年』(http://www.geocities.jp/kowaikou/)に書きましたので繰り返しません。ただ阿吽社からの発行が決まる以前に自費出版の準備をしてくれた戸田写植の恩義は忘れたことはない。今回、『こぺる』発行を岐阜で引き受けると決断したとき、もちろん戸田写植が念頭にありました。みんなで協力して発行するといっても、専門の技術や知識が求められます。戸田写植なら業務委託できると判断し、思い切って2010年9月末で阿吽社との契約を解消したのです。阿吽社と切れることにより、書籍販売ルートからはずれ、書店を通じて購読してくださっていた法人関係のみなさんにはご迷惑をおかけしましたが、直接購読に切り替えてくださるなどして、なんとかクリアーしつつあります。11月号は10月26日午後、第三種郵便物として発送完了。会員数750人、発送部数896部。

 さっそく読者からメールや葉書で感想が届きました。「裏表紙がまっしろなのはなんとも惜しい。『こわい考』の広告、あるいはその他の広告を載せられませんか?」「今日、裏表紙が真っ白なこぺるが届きました。それを見て、何だか緊張してしまいました。」「裏表紙の『白』がかえってインパクトがあると感じました。」これまで裏表紙に掲載されていた阿吽社の広告が消えたことが印象的だったようです。しかし、広告が消えたのは、阿吽社から依頼がなかっただけのこと。深い意味はありません。他に広告主を探す手立てもありませんしね。白のままで行くのも一つのありかただと考えています。

 12月号(11月下旬発行)の編集はすでに完了しました、間もなく印刷所に入稿します。構成は以下のとおり。

  • 佐々木寛治:「土地差別調査事件」と部落解放運動の課題
  • 金光敏:「韓国併合百年」を考える─私が「在日」であることの意味
  • 長谷川洋子:「大阪砂漠」を思う
  • 小林茂:記憶の旅から明日へ─写真と文
  • 濃水飛山記(藤田敬一)
(2010/11/13記)



『こぺる』、いよいよ岐阜で発行へ
 長らくのご無沙汰でした。わたしは相変わらず元気にやっています。7月10日から10月13日まで、愛知県豊田市立挙母[ころも]小学校保護者、岐南町立西小学校教員、JR東海啓発担当者、三重県いなべ市教育研究所、岐阜県海津市教員、三重県私立幼稚園協会新規採用者、岐阜県主催講演会(多治見市)、岐阜県揖斐(いび)郡PTA総会、養老小学校教員、岐阜県立岐山高校教員、いなべ市職員、いなべ市市民講座、岐阜県人権教育地域指導者講座、豊田市立平和小学校、関市「いきいき・生き合い」講座、郵便事業会社近畿支社、小牧市職員、岐阜県立本巣松陽高校教員、岐阜市合渡公民館、高山市立北小学校保護者、養老小・上多度小・東部中三校教員、養老小学校全校生徒、美濃地区教員など、多くの人びとに「よく生き合おう!」と語りかけました。お世話になったみなさんに感謝。
 この三カ月、『こぺる』の発行を岐阜に移すにあたっての準備もあって、こころの余裕がなく、HPが更新できませんでした。アクセスしてくださった方々には深くお詫びします。岐阜で最初に発行される11月号の原稿は、すでに編集者のわたしの手を離れ、戸田写植をへて、印刷所に入っていまして、まもなく出来上がります。そして遅くとも下旬には読者におとどけできるはず。
 京都部落史研究所の所報誌だった『こぺる』の廃刊を惜しむ人びとに呼びかけて、こぺる刊行会をつくり、半年の準備期間のあと、復刊第1号を発行したのは1993年4月のことでした。あれから17年半。よくぞここまで続けることができたものだ、とわたし自身が驚いています。しかし、「人間と差別」を考えるための素材を提供したいと、わたしなりに努力してきたのですが、諸事情により購読部数減の傾向はとまらず、復刊時の三分の二を維持するのが精いっぱいで、このままでは資金的にいきづまり、2011年3月号をもって廃刊せざるをえないと判断していました。
 ところが、今年2月、ある読者から「『こぺる』をぜひ継続してほしい」というお気持が伝えられたうえに、多額のご寄付の申し出がありました。ためらうことなく、わたしはその場で「わかりました。継続します」と答えました。そらそうでしょう、それほどまでに『こぺる』の継続を願ってくださる人がおられるのなら、そのお気持に応えるのが、人間としての務めだと考えたからです。
 阿吽社からは業務委託を2011年1月31日付で辞退したいとの申し出を受けていたわたしは、新しい体制で出発するのなら早ければ早いほどよいと判断し、岐阜の友人たちとも相談して、9月いっぱいで阿吽社との業務委託契約を解消し、発行を岐阜で引き受けることにしました。そして10月7日、阿吽社との事務引き継ぎが完了。
 刊行会事務局の仕事は、執筆者や購読者との諸連絡、購読料・印刷費・発送業務委託費・原稿料支払いなどの金銭出納が主なものです。そこで、いろいろ考えたすえ、事務局をわたしの家におき、日常業務はわたしが担当することにしました。というのも、わたしには『同和はこわい考/通信』五百数十部を印刷し、封筒に宛名を貼り、『通信』を挿入し、セロテープで封をし、切手を貼って投函する作業をほぼ一人で二十年間やってきた経験があるからです。もちろん『通信』と『こぺる』には、前者が無料で後者は有料、前者は個人、後者には学校や企業、図書館などの法人が含まれるという違いはありますが、記帳などをシンプルにすれば、それほどむずかしくないと思っています。
 郵便振替出し入れ郵便局の変更と郵便通帳の住所変更は現在手続き中で近日中には利用できます。また、購読者の利便性を考えて、銀行振替口座(十六銀行正木支店、こぺる刊行会名義、普通口座1418253)を開設しました。「あとがき」の名称も、京都部落史研究所が鴨川近くにあったことから命名されたと思われる「鴨水(おうすい)記」から、発行地・岐阜県にちなんでの「濃水飛山(のうすいひざん)記」に替えます。会計監査は、これまでどおり松田國広さんにお願いしてあります。印刷と発送業務は戸田写植(戸田二郎さん)に業務委託します。
 わたしの最大の仕事は、書き手を探すことにつきます。この17年間、それに苦しんできました。わたしのセンスで書き手を見つけ、原稿を依頼してきたのですが、そこから素晴らしい書き手が出てきたことは、読者ならおわかりのはず。そしてこれまでと同じように、とどいた原稿の編集(字句の訂正、文章の修正、表題・中見出しの選定など)をし、校正されて返ってきた原稿を再度編集し直して最終原稿として戸田写植に送信し、最終割り付けなどを確認する作業を担当します。これに事務局の実務が加わるので、どういう事態になるのか、皆目見当がつきませんが、ま、なんとかなるでしょう。不手際や不細工なことが起こってもしかたがない。そのときは読者の寛容の精神にすがるのみ。
 『こぺる』廃刊予定の2013年3月まであと2年半、体調維持に努めます。ただし、夕方からの水割りタイムはやめられそうにないなあ。そのかわり、プールで有酸素運動に励み、山小舎で森林浴を楽しみ、読書の愉悦に浸ることで心身のリフレッシュをはかります。そして、なによりも三人の孫(莉子6歳、眞一3歳、一希7カ月)の日々の成長と、各地で出会う人びととからいただく励ましを支えに、やりぬく覚悟です。

 なお11月号の構成は以下のとおり。
 住田一郎:『同和はこわい考』の提起し続けるものは─無視と断罪を越えて
 角谷昌紀:なぜ本を読むのか
 長谷川洋子:夏の旅
 小林茂:記憶の旅から明日へ─写真と文
 濃水飛山記(藤田敬一)

(2010/10/16記)



「肩書き」について考える
 岩波書店から『新編 原典中国近代思想史』第3巻「民族と国家─辛亥革命」(2010/6)がとどきました。『中国古典文学大系』第58巻「清末民国初政治評論集」(平凡社、1971年)所収のわたしの訳文「梁啓超:開明専制論(抄)」が抄録されています。40年前の翻訳がお役に立つのならと承諾したのですが、訳者紹介を見て驚きました。わたしの肩書きが「岐阜大学名誉教授」となっているのです。わたしは岐阜大学から「名誉教授」を授与されたことはありません。たかが肩書きぐらいのことでと思わないでもなかったけれど、一応担当者にメールをしておきました。さっそく「不注意でした」との返信あり。おそらく「名誉教授になっているにちがいない」と推測なさったのでしょう。

 火曜日の学習会は、「大学の名よ教じゅらしいから、前で長々と、えん説するのか。」と最初は思っていました。だけどしゃべり始めてから、「あ、こう言う人なんだなぁ。」と改めて思いました。「意外に、おもしろい人なんだなぁ。」とも思いました。/家に帰って、お母さんに話そうと思ったけれど、ほとんどは覚えていたはずなのに、家に帰って話そうとしたら、忘れていて、言葉が出てこない、と言っていいほど、どこから話せばいいかも分からないくらい、いい話で感動しました。笑いも少し入っていたので、楽しむこともできました。(小学4年男子)
 これは、2003年3月、岐阜県土岐市立土岐津小学校全校生徒600人に話をしたときの感想文。わたしに連絡してきた教員が、前年3月に岐阜大学を退職したわたしを「名誉教授」になっているはずだと勘違いして紹介したため、この生徒は身構えたようです。
 『新明解国語辞典』第6版(三省堂、05年1月)にはこうあります。
 めいよ[名誉](略)(造語)〔長年そこに関係し、功績が有ったために〕ある団体から尊敬のしるしとして、その呼び名(だけ)を与えられること。「─教授」「─市民」
 つまり「名誉教授」とは、大学からもらう「呼び名だけの尊敬のしるし」だということ。在職31年半を振り返ってみても、岐阜大学に何の功績もなく、「尊敬される」いわれもない。それに大学が、退職者を「名誉だと思う人」と「名誉だとは思わない人」にわける発想がおかしい。「教授在職何年以上、助教授在職年数は教授年数の二分の一に換算する」との授与規定にいたっては笑うしかない。加えて、わたしには、「わが大学は、あなたを名誉だと思っていますよ」という意味でだす称号を自分からぶらさげて歩く勇気がない。というわけで、「名誉教授」を辞退したのです。授与規定の改定を検討する委員会で「ほしい人には、みんなあげたらええやん」と発言して顰蹙(ひんしゅく)をかいましたが、いまでもこの意見を撤回する気はない。「退職したら肩書きがなくなりますから、名誉教授は役に立ちますよ」とか「科学研究費の申請資格があるから、もらっておいてください」など、つまらないことをいう人がいたけれど、わたしの意志は変わりませんでした。
 ついでに「肩書き」について書いておきます。わたしは無職渡世の年金生活者ですから、「職業にともなう肩書き」はありません。各種書類の職業欄には「自由業」と記入しています。ただ最近、講演会の主催者や自治体には、「岐阜県人権懇話会会長」と「人間と差別を考える月刊誌『こぺる』の編集責任者」と紹介してもらうようお願いしている。前者は岐阜県における人権施策の基本方向と内容を審議する人権懇話会の認知度を高めるとともに自らの責任を明らかにするため、後者は『こぺる』を宣伝するためです。それらのお役が「御免」になるまで、しばらくこの「肩書き」を使うつもりです。(2010/7/9記)

●お詫び─前回の更新が4月30日でしたから、ほぼ二カ月のお休みになりました。体調が悪かったわけではありません。ひとえに忙しかっただけ。アクセスしてくださった方々にはお詫びします。7月と8月は、わりかしゆったりした日程なので、読書とプール、『こぺる』の編集と山小舎暮らしで過ごす予定。



『こぺる』が岐阜にやってくる!
 京都部落史研究所の月刊誌『こぺる』が廃刊されたあとを受け、友人たちに呼びかけて復刊(1993年4月)して17年。「資金的に、2011年1月末で行き詰ります」と、業務を委託している阿吽社の担当者Hさんから伝えられたのは昨年12月初めのことでした。当初1200部ほどだった発行部数は次第に減少し、いまでは800部あまりですから購読料収入は320万円。それに対し支出は、阿吽社への業務委託費180万円、印刷費160万円、郵送料など70万円、原稿料63万円、郵便振込手数料7万円、これに諸雑費3万円を加えると、しめて483万円。つまり1年間の赤字額は160万円にのぼります。こんな状態でありながら継続できたのは、すべてみなさんから寄せられた基金のおかげです。
 そこで12月12日(土)、京都で開いた「人間と差別」研究会のあとの集まり(09/12/27更新のHPで「総会」と書いたのは誤りです)で実状を報告したところ、「基金を再度募っては」という意見もありましたが、「これまでの収支の仕組みを残したままでは、早晩の破綻は目に見えている。今後のことは3月27日の総会で決めよう」ということで終わりました。しかし、わたしは「いよいよだな」と終刊を想定していたのです。
 あれはたしか2月の初めだったかな、読者のSさんから電話が入りました。「3月の総会で終刊を決めることだけはやめてもらえないですか。いましばらく続けてほしいんです」とのこと。Sさんは、わたしのHP上の日記(09/12/12)をご覧になったようです。そして、資金援助を申し出られました。少しためらってから、「ご意向にそえるよう努力します」と応えました。ご寄付のお話があったことも「しばしの継続」を決める要因であったことは否定しませんが、なんとしてもSさんのお気持を大切にしたい一念でとっさに決意したのです。しかし、ことは簡単にはすみませんでした。阿吽社社長から3月18日付で、「『こぺる』刊行にかかわる業務を辞退いたします。遅くとも2011年1月末には引継ぎが完了できるようお願いしたい」との申し入れが届いたからです。
 さてどうするか。正直言って悩みました。編集後記の鴨水記を入れてもわずか17頁、全文約1万7千字の薄っぺらな冊子。「人間と差別を考える」という内容からして「重くて暗い」イメージがもたれやすいことは承知してはいたものの、これほどの読者減は想定していませんでした。おそらく編集長であるわたしの力量不足によるものでしょう。いまは亡き前川む一(勝彦)さんから、「なんでもかんでも自分でやらないと気がすまないという、中小企業の社長みたいなことをしなさんな」と酒席でからまれ、こちらも酔っぱらっていたから、「中小企業の社長がどんなに苦労しているか知らんくせに偉そうなことを言うな」と応じて喧嘩になったことがある。「みなさん、どうしますか」などと悠長にかまえる前に、「一人でできることは高がしれているが、一人だからこそできることがある」と信じて突っ走るのが、わたしの癖。「中小企業、零細企業のオッサン社長」になるしかなかった。
 「最近の『こぺる』はおもしろい」とのお便りが届くとうれしくなり、「しっかり人間と人権を考える素材にさせてもらっています」とあれば、「継続していてよかったなあ」と思う。「『こぺる』は、便所で読むにはちょうどいい分量だ」と語った人がいたけれど、ま、それもまたよし。というわけで、わたしは読者の応援を思い起こし、熟慮の末、「業務の一切を岐阜で引き受ける」という結論を出しました。総会では異論は出ず。9月末をめどに『こぺる』が岐阜にやってきます。
 岐阜には、友人の戸田二郎さんが営む「戸田写植」があり、旧太平天国社のメンバーも健在です。彼らが協力してくれればなんとかやっていけるはず。戸田さんの内諾をえたうえで、みんなで出かけた、三河湾に浮かぶ日間賀(ひまが)島への一泊二日の旅行(総勢6人。3/21・22)のときに相談しました。詳しいことは何も決まっていません。この連休の後半、岐阜のメンバーが山小舎にやってくるので、おおまかなところだけでも打ち合わせするつもりです。
 ある友人が『こぺる』の発行場所が岐阜に移ることを、「ふるさと岐阜での再出発」とメールに書いてくれましたが、ほんまのそう思います。岐阜は、『同和はこわい考』にいたる思索を深めた土地、それらを『天国つうしん』に連載し、まとめたものを自費出版する段取りまでしてくれた友人たちがいる土地です。生まれは京都市ですが、もし京都にいつづけたら、いまのような発想はできなかったでしょう。岐阜に移り住んで40年。地元の人びととつながってこその「いま」だと思います。岐阜は、わたしのふるさとになりました。そこへ『こぺる』がやってくる。不安がないわけではありませんが、ここは意地と度胸と根性で、2013年3月号まで、つまり復刊20周年を迎えるまでやり抜くつもりです。(2010/4/29記)



眠っている人を起こしても仕方がない
 佐竹明広さん(1927−2008)の『閑居(かんきょ)と乱世―中世文学点描』(平凡社選書、05/11)に、法然(1133−1212)のエピソードを紹介する『徒然草』第三十九段を引いて「懶惰(らんだ)」と「懈怠(けたい)」を論じた個所があります。

或る人、法然上人に「念仏の時、眠りにおかされて行(ぎょう)を怠(おこた)り侍(はべ)る事、いかがして、この障(さわ)りを止め侍らん」と申しければ、「目のさめたらんほど、念仏し給へ」と答えられたりける。いと尊かりけり。
 つまり、「目がさめたときに念仏すればよろしい」といいうわけです。佐竹さんは「眠たければ、とにかく一眠りするがいい。頭が痛ければ、薬を飲んで治すに如(し)かず。…不可抗力としての『懶惰』は、取り上げるに足りない」と説く。眠気がさしてあくびをしたり、居眠りしたりするのは「不可抗力」です。「しかし、『精進』の可能な状態の下で『且(しばら)ク懈(おこたる)』事、『今日ノ所作ヲ明日作(な)ス』『懈怠』は、必ずや後悔の種になる。毎日の『懈怠』を重ねているうちに、死神は背後から忍び寄って、突然、ぽんと肩をたたく」。
 この一節を読みながら、30年以上前のわたしを思いだしていました。郵便局の職員研修で、居眠る人をたたき起し、聞く気がない(と思った)人には出ていってもらっていたからです。使命感と自負心と、そして思い上がりが、そうさせたのでしょう。それが、取り返しのつかない誤りであることを教えてくれたのは、郵便局の外務職員でした。白いヘルメットをかぶり、赤い単車で走っているあの人びと。彼らは話がおもしろくなければ私語するし、眠気がおそってくればあくびもする。居眠る人さえいます。しかも研修はだいたい午後1時半ごろからはじまりますから、お腹がふくれて眠くなって当然です。それなのに「ケシカラン」と怒りを爆発させていた。ああ恥ずかし。
 外務職員たちが、ことばではなく、態度で教えてくださったのは、「話を聞いてほしいのなら、聞いてほしいと願うものが、聞いてもらえるように努力すべきだ」ということでした。「橋がかかっていない川の向こうに逢いたい人がいれば、逢いたいと願うものが、逢うための努力をするしかない」。それがわかってから、わたしは一方的に話をするのではなく、ワイヤレスマイクをもって出席者のなかに入り、質問に答えてもらうといったやりとりをするようになりました。そうすると一瞬会場に緊張感がただよいますが、そのうち「これは試験やない。遊び、プレイや」とわかってくると、なごやかになり、笑いも起こる。「女性が衆議院議員選挙で投票や立候補できるようになったのはいまから何年前?」「ずっとむかしです」、「労働三権とは?」「愛知ケン・岐阜ケン・三重ケン」で大爆笑。これは、こころのウオーミングアップなんです。こころが温かくなると、こころの扉にかけられたカンヌキがはずれやすい。カンヌキがはずれれば、こころは自然に開かれる。いつしかわたしはそう考えるようになりました。法然の「目がさめたときに念仏したらよろしい」というのと通じるものがあるような気がします。(2010/3/20記)



「頸椎性神経根炎」はおさまりました!
 12月初めに発症した「痛みと痺れ」は年末には消え、正月三が日は例年どおり一杯やりながら賀状の宛名書きと一筆添え書きで過ごしました。1/8、診察を受けて治療を中止。今回の再発症を肝に銘じ、重い荷物をかついだり、振りまわしたりしないよう気をつけます。あの「痛みと痺れ」はもうこりごり。

2010年の年賀状

謹賀新年/昨年も読書と講演と月刊誌『こぺる』の編集で過ごしましたが、人と出会い、つながることの喜びをかみしめる一年でもありました。とくに幼児園の年長さんに話をさせてもらい、九十九歳の方から「元気で話をつづけてください」と励まされたことが忘れられません。/母親に「片づけしなさい」と怒られた三歳の子が「僕らはみんな生きている〜、生きているから怒られる〜」と鼻歌で答えたといいます(朝日新聞09・10・19朝刊「あのね」)。機知に富んだこの応答に感動できるかぎり、わたしの「青春時代」は終わらない。そう思い込んで今年も生きる所存。/庚寅 元旦/藤田敬一
 三歳の子の臨機応変、当意即妙の応答に感動するこころをもちつづけたいと切に願っています。加齢にともなって、感受性は鈍くなるでしょうが、いまのところ自覚症状はまったくありません。孫二人(まもなく三人目が誕生します)、そして各地で出会う子どもたちから刺激をうけているからかもしれません。

パソコン騒動顛末記
 5年ほど前、ノートパソコン(「VAIO」)に水割りを飲ませてしまったことがありましてね。すぐに酔わはりました。やむなく富士通の「FMV」デスクトップを買いました。金20万円也。人生で、あんな高い水割りを飲んだこともなければ、人に飲ませたこともない。
 ところが、このパソコン、買って1、2年もしないうちから「ウーン」と唸りつづけるんです。「がんばったはるんや」と感心していたら、昨年12月ごろから突然シャットダウンしたり、画面が暗くなったりしはじめました。そのつど再起動を繰り返していたのですが、原稿やレジュメなどが消える可能性があり、何より連絡がとれなくなる。ウジウジ迷っていたら、家人のJ1に「必要経費なんだから、買い替えたら」とアドバイスされ、この一言で1/16、近くの家電量販店でノートパソコン(富士通「BIBLO」)とコピー機(EPSON)をゲットしました。1/19、業者に設定してもらったとき、「古いパソコンの不具合はゴミが原因かもしれない」といわれびっくり。J1がすでにパソコン裏側のほこりをとり、空気吸入口に貼られていたビニールをはずしてくれていまして、後日、別室に設置して恐る恐る電源を入れると、ちゃんと動くではありませんか。あ〜あ。でもまあ新しいパソコンで気分一新するというのもまたいいもんです。

各地をまわる
 1/10から2/10まで、愛知県(豊田市高嶺[たかね]小学校2/2・豊田市職員研修2/3、JR東海名古屋駅職員研修1/26)、岐阜県(岐阜市島公民館成人式1/10、養老小学校1/12、瑞浪市職員研修と市民講座1/14・職員研修1/22、真宗大谷派大垣教務所仏教公開講座1/18、JR東海高山駅職員研修1/27・高山市職員研修と市民向け講演会2/5、岐阜市立長森中学校2/1・島中学校2/9)、三重県(菰野町菰野公民館講座1/13、津地方法務局同和問題研修会2/10)、奈良県(葛城市・シャープKK社員研修1/21)、兵庫県(尼崎市・特別養護老人ホーム園田園「ボランティアグループ園」講演会1/24)に出かけました。お世話になったみなさんに感謝。いい出会いがあり、楽しい再会がありました。「友と酒と肴」の三拍子がそろった宴もあって、言うことなし。大垣・尼崎・高山ではカラオケも。森田公一とトップギャランの「青春時代」を歌ったのはどこだったかなあ。

ある光景
 背中にカイロをはって出かけるほど寒い日でした。会場の武道館には3年生が畳の上にじかに座っている。ストーブは、前列左端と後列右端にあるだけ。ところが右奥のストーブの前に中年の男性教員がどかっと座りこんでいる。そこは言わば特等席で、誰もが座りたい場所のはず。もちろん、教員が座ってはならないということはありません。でもねぇ。しかも彼は何やら書類を開いて仕事をしている様子。以前のわたしなら、と思わぬでもありませんでしたが、そこは人間ができてきたわたしのこと、ぐっと我慢しましたよ。アッハッハ。そしてマイクを持ってまわり始めたら、さすがに彼は「内職」をやめました。教員の中に、ときおりこういうみっともない人がいて、日ごろ生徒たちとどんな向き合い方をしているのか気になってしまいます。(2010/2/10記)



またもや頚椎を痛める
 3月に胃腸風邪にかかり三重県菰野(こもの)町の講座と奈良県天理市で開かれた部落解放運動検討会のパネラーをキャンセルしたものの、その後は体調維持に努め、なんとか1年を乗り切れそうだなと安心したとたんの12月上旬、左肩甲骨近辺の痛みと左手指先のシビレが起きましてね。あわてて整形外科に飛び込み、レントゲン写真をとったところ、頚椎性神経根炎と診断されました。02年5月、山小舎で発症したのと同じ症状です。
 思い当たるフシはあるんです。12/4・5、大阪府豊中市立第五中学校に出かけた際、重たいデイパックをかつぎ、これまた重たい紙袋をぶらさげて移動したことが頚椎に負担をかけたのでしょう。いま、鎮痛剤などを服用しつつ、牽引のリハビリ中です。一時は本を読むことすらできない状態でしたが、それも二、三日で治まりました。スポーツクラブでは水中ウオークと水泳をやめ、もっぱらサウナとジャグジーで身体を温め、ほぐすのみ。お酒は血行をよくするらしいので、チビチビやっています。アッハッハ。

各地をまわる
 この1年、真宗大谷派信願寺(岐阜県神戸[ごうど]町)の報恩講(1/11)から千葉県立検見川(けみがわ)高校(12/18)まで、各地で「よく生き合おう!」と語りつづけました。神戸幼児園の年長さん(1/29)から信願寺でお会いした99歳のご老体まで、しっかり聞いてくださいました。これはすべて、わたしを招いて講演会を開催するために尽力してくださった担当者のおかげです。お金と時間がかかるわりには手っ取り早い効果が期待できない「いのち─生き合う」と題する話を聞きたい、聞かせたいと願う担当者の熱意なしに120回におよぶ講演会は実現できなかったでしょうね。ありがたいことだと感謝しています。

『こぺる』の編集に全力投球する
 充実した内容になってきたなと自画自賛しています。執筆者を探し、テーマを決め、届いた原稿を編集する。編集長と言っても編集員はおらず、業務委託している阿吽社の堀口さんの意見を聞きながら、わたしひとりの判断でやっています。編集後記の「鴨水記(おうすいき) 」も好評でしてね。「『こぺる』が届くと、後ろから読む」とおっしゃってくださる方がある。1000字あまりの短いコラム。人びとの暮らしの中から発せられる「つぶやき」を拾ってコメントするだけのものですが、それが読者の琴線に触れるとすればうれしいかぎり。

変わらずの乱読暮らし
 今年は「居座り型」の読書が少なくて「ハシゴ型」が多かったという印象です。たとえば渡辺泰明『短歌とは何か』(岩波新書)から俵万智『短歌をよむ』(岩波新書)へ、俵万智から正岡子規『歌よみに与ふる書』(岩波文庫)と田澤拓也『無用の達人 山崎方代』(角川ソフィア文庫)へ、正岡子規から『橘曙覧全歌集』(岩波文庫)へという風に。来年は「居座り型」で行こうかな。たとえば田中正造とか。もっとも移り気なわたしのこと、どうなるかわかりませんけれど。

山小舎暮らし
 週末などにひとりで出かけ、のんびり読書して過ごしました。後見人として頼りにしてきた古田勇さんが亡くなられて淋しくなりましたが、今島(こんじま)の自然はもとのまま。関西電力の鉄柱付け替え工事のおかげで駐車場もできましたし。今年の秋祭りが中止になったのが気がかりですが、来年4月、春祭りで地域のみなさんと再会できるはず。先日の大雪で松が数本倒れたと電話あり。それもまたよし。春の来るのが待ち遠しい。(09/12/24記)



っとかめ(久しぶりという岐阜の方言)です。
 4ヶ月ぶりの更新。毎朝、このHPを開いてくださる方がおられます。わたしの体調を心配してくださった方がおられます。ほんとに申しわけありませんでした。忙しかっただけです。この間、体調はばっちし。体重も53キロ台から54キロ台を維持し、夕方からのウイスキー水割りタイムも相変わらず。各地での講演、月刊誌『こぺる』の編集とその後記(鴨水記=おうすいき)の執筆、読書とプールと山小舎暮らしの日々。ときおりフラチな奴と出会って小爆発を起すことがありますが、普段はいたって穏やか。おもろい後半生を送っております。

地で子どもたちと出会う
 『こぺる』200号(09/11)の鴨水記で紹介したように、いま学校での「いのちの授業」が岐路に立っているらしい。

 東京都内で7月末にあった「第8回いのちの教育実践のための研修会」をのぞいたら、聖ヶ丘病院(東京都多摩市)のホスピス医師、三枝好幸さんが、小中学校にゲスト講師に招かれた経験を話していた。/先が長くない患者さんたちとの会話や交流について話すと、子どもたちは静かに聞き入るという。話題は自然と「死」に触れるが、子どもたちは「生きる」ことについて考え、感想文を書く。ただ、学校で「いのち」や「生と死」の授業をするのは簡単ではない。三枝さんはその理由を、現役の先生たちに聞いてみた。/時間の余裕がない。宗教っぽい。教科優先の管理職が反対する。講師を呼ぶと費用や準備が大変……。/「子どもたちが平気で『死ね』と言い合う現実を前に、何らかの取り組みは必要と感じている。しかし、教材や指導法がわからず、同僚の支援もなく、何より忙しいのでそのままになる」という声もあった。/研修会に参加した教師からは具体的な提案も出た。「関心のある親たちを味方にする」「死を前面に出さずに伝える」「共に考える、という視点を前面に出しては」/新しい学習指導要領では授業時間数が増え、理数を中心に内容も多くなる。比較的自由なテーマに取り組める総合的な学習の時間も減るので、三枝さんを呼ぶような学校の取り組みはますます減るのかもしれない。/それでも、「いのちの教育」は広がってほしいという熱気が会場に満ちていた。「逆境で、続けるのは大変だけど、また頑張ろうと思いました」と、参加した中学校の先生が帰り際に話していた。(上野創)」(朝日新聞名古屋本社版、09・9・13朝刊)
 この国の教育は根幹からしておかしくなっている。しかし、一方で記事にあるように一所懸命努力している教員たちがいることも事実です。生徒対象の講演会を企画し、管理者を説得し、同僚の了解をとり、教育委員会とかけあって講師料を捻出して依頼してくる担当者がおられます。そういうこともあり、加うるに生徒さんたちに直接話しかける機会を逃したくないという気持が強く働いて、時間の許すかぎり出かけることにしています。
 かくして、9/3から10/30まで、千葉県立千葉南高等学校、愛知県(豊田市立東保見小学校、野見小学校、逢妻中学校、井郷中学校)、岐阜県(恵那市立東野小学校、瑞浪市立日吉小中学校、関市立博愛小学校、岐阜市立岩野田中学校、養老町立高田中学校)、大阪市立金津小学校に寄せてもらいました。このあと11/14から12/18まで、千葉県立検見川高校、愛知県(豊田市立下山中学校・崇化館中学校・松平中学校・猿投台中学校・豊南中学校・高嶺小学校・堤小学校、知多市立東部中学校)、岐阜県(岐阜市立三輪北小学校、笠松町立笠松小学校、各務原市立桜丘中学校、大垣市立北中学校、養老町立養老小学校、中津川市立小学校2校)、大阪府(豊中市立第五中学校)とつづきます。
 人権教育という枠組みだからこその招聘であるにしても、それは担当者の熱意と苦労があってのこと。こうした人びとの努力によって、わたしの講演行脚は成り立っている。あだやおろそかにしてはならないと自戒しています。(09/11/8記)



権擁護委員をやめる
 3月、岐阜法務局人権擁護課のM課長から、「6月で人権擁護委員の任期が切れますが、再任はしません。藤田先生には他の分野で活躍していただきますように」という電話がかかってきました。
 人権擁護委員をはじめて委嘱されたのは1996年9月のこと。わたしなりに何か寄与できるのではないかと考えて引き受けたのですが、実際は何もできませんでした。活動といえば、総会に出席し、研修会に参加し、啓発グッズを配り、年に2回「待てど暮らせど来ぬ人」を岐阜市役所の狭い人権相談ブースで3時間待ことぐらい。そういえば、最初に委嘱状を手渡してくれた法務局次長は、「人権擁護委員は、裁判官でも検察官でも弁護士でもありません。その点を忘れないでください」と語ったものです。つまり「人権擁護委員は啓発と相談を受ける以外何もするな」というのが法務省のホンネであって、はなから頼りにされていないのです。加えて人権擁護委員制度は、国民から認知もされず、期待もされていない。こんなことに時間を割く余裕はないと感じていたので、Mさんの電話に思わず、「ありがとうございます」と返事してしまいました。
 「期待もされていないから、本質的な批判もなく、自分たちを問い直す契機もない。(略)期待もされていないから、その期待に応えようと努力もしない」(上田紀行『がんばれ仏教!』NHK出版、06/2第7刷、10頁)。これは、日本仏教界の現状に対する上田さんの批判の一節ですが、それは人権擁護委員制度にもあてはまるのではないかな。各地で出会う人権擁護委員の誠実さを疑うものではないけれど、その誠実さが活かされていない。いつしか、わたしは人権擁護委員の活動に意欲を失っていました。だからMさんの通告を「渡りに船」とばかりに受諾したのです。
 ただ人権擁護委員の再任を法務局が拒否するのは異例らしく、その点を確かめると、わたしが、「活動が著しく低調な委員」に該当するとの返事。なんとも冴えない結末でした。

索と発言はやめない
 先日(7/10)、奈良県部落解放同盟支部連合会の集まりで、部落解放運動や部落解放同盟について発言したら、ある人から、「もうそんな話はいいやないですか」とたしなめられました。部落解放を旗印にする運動や組織に、人びとはもはや何も期待していない以上、「死んだ子の年を数える」ようなことをいってもはじまらないというわけです。
 しかし、ほんとにそうなのか。現存の運動や組織に期待がもてないのなら、なおさらこれまでの経験を踏まえ、「人間と差別」にかかわる発想、理論、思想の枠組みを問い直しつづける必要があると思うのです。わたしはこの「問い直し」をかたときも忘れたことはない。「差別・被差別の隔絶された関係」が温存され、「両側からの壁」が突破できていないからです。忘れたい人は、忘れたらよろしい。忘れようとしなくても、人間は忘れる動物であり、忘却によって救われることもある。「去る者は日々に疎(うと)し」といいますからね。でも、わたしは過去を水に流したりせず、現状と真っ直ぐに向き合って思索を進めてきました。そんなわたしを注視してくれている人がおられます。黒川みどりさん(静岡大学教育学部)が、その人。『つくりかえられる徴(しるし) 日本近代・被差別部落・マイノリティ』(解放出版社、04/11)につづいて、最近も、こんなふうに紹介してくださいました。

 危機感を強くした藤田は、部落解放運動を解体に導かないために運動の自浄が必要であるとして、あえて歯に衣着せぬ苦言を呈するという試みに出た。藤田の主張の柱は、差別・被差別関係の止揚に向けた「共同の営み」としての運動を創出することにあり、それは彼自身が、学生時代から京都を拠点に部落解放運動に参加してきた経験に根ざしていた。「同和はこわい」という意識をなくすためには、差別・被差別の「両側」が、その「立場」や「資格」へのこだわりをこえる努力をしなければならないというのである。(略)
 藤田はその後もねばり強く自由な議論を喚起しつづけ、藤田の問いは、やがて『「部落民」とは何か』という議論に発展していく。その背景には、いっそうの部落外との結婚の増大や、人の移動などによって、部落と部落外の"境界"がゆらいでいるという実態があった。/藤田自らが編集した『「部落民」とは何か』(阿吽社、1998年)は、そうした状況のもとで噴出しはじめた議論を集約するものであった。そこでは、そのような問いを発することで、「部落民としての意識」自体をあらためて対象化し、それによって、かねてからの藤田の主張である「両側」から超えることが目ざされているのであり、同時に、これまで部落解放運動のなかで、しばしば疑義を挟む余地なくおこなわれてきた「部落民宣言」などをはじめとして、カミング・アウトすることの意味が改めて問い直されることとなった。
 それとほぼ同時期に、雑誌『現代思想』(1999年2月)が「部落民とは誰か」という特集を組んだことも、このような問いがたんに藤田個人の営みにとどまっていないことを実感させるできごとであった。それは、「部落民」という境界が見えにくくなったと同時に、そのようなことにも起因して解放運動の担い手が育たない、部落民という共同性、被差別部落という共同体が解体するのでは、という部落民アイデンティティの危機のなかで生じてきた問いであったといえよう。(黒川みどり・藤野豊編『近現代部落史─再編される差別の構造』有志社、09/5、155-156頁)
 『こわい考』から22年、『「部落民」とは何か』から11年、雑誌『現代思想』の特集「部落民とは誰か」に「部落解放運動の現在─差別-被差別関係の止揚を求めて」を寄稿してから10年、季刊『現代の理論』の特集「異議申し立て─いま部落解放運動を問う」に「『同和はこわい考』の二〇年を振り返って」を寄稿して(07/4)から2年余。今後も、わたしは思索を深め、意見を公表しつづけるつもりです。わたしが「もうええやん」といいはじめたら、それはまちがいなく耄碌(もうろく)の証しです。(09/7/19記)



ぶさたしました。
 前回の更新は4/11だから、3ヶ月近い開店休業でした。体調に異変があったわけでなく、いろいろ事情が重なって更新できなかったのです。心配してくださった方には申しわけなし。わたしは相変わらず。講演と『こぺる』の編集、読書とプール通いの日々。山小舎にもときおり出かけています。体重は52キロから53キロ台をキープ。体調はすこぶるよろしい。お酒もうまい。3月末の胃腸風邪以後しばらく焼酎の湯割りを飲んでいたのですが、あれは酔いますな。仕事にならん。結局、ウイスキー(もちろんブラックニッカクリアブレンド)の水割りに復帰しています。プールから戻ると早速水割りタイムに突入。夜12時ごろまで氷が解けた薄い水割りをチビチビ、ときどきグイグイやっています。アッハッハ。

●石牟礼(いしむれ)道子さん(1927〜)のことばを味わう。
 「朝日」を購読しています。朝刊・夕刊にざっと目を通し、あとでじっくり読みたい記事には赤のサインペンで年月日とM(朝刊)・E(夕刊)を記入する。後日、あらためて読み直し、必要なものはファイルに入れる。講演や原稿執筆に役立ちそうな記事を入れるファイルと、人間について深く感じ広く考えるための記事を入れるファイルに分けてある。「ちょっといい話」や「ちょっとつらい話」は前者のファイルへ。そのほかは後者へ。朝日歌壇や連載もの、関心のある記事(アメリカ合衆国大統領選挙、裁判員制、足利事件など)は別にファイルする。こころに強く残り、ファイルに紛れ込んではいけないと思う記事は、スチール棚にしばらくぶら下げておく。そのひとつが、「クロス×トーク─生きていく強さと弱さとは─石牟礼道子さんに文化人類学者渡辺靖さんが聞く」(08・12・8朝刊)です。切り抜いた記事はいくらか日焼けしているけれど、中味は濃い。

 石牟礼 私の周りの年寄りたちは子どもを褒める時に「おまえは魂の深か子じゃね」と言うんです。「勉強ができるそうだね」とは言わない。「魂が深い」というのは、その子の人格の将来をおもんばかった、とてもいいことばです。褒められた方も意味を考えますし。要は、人様を思いやることができるかどうかだと思います。そういう心根のやさしさを、どうやって身につけていくかでしょう。
 渡辺 競争社会のなかでは、その尊さや価値はどんどん顧みられなくなっています。
 石牟礼 人をけ落とす力のある人が勝ち組になっていて。けれども、弱肉強食の動物に対し、人間には弱者をないがしろにすることを克服する知性があります。一番最初にあるべき知性なのに、それに気づいていない大人たちが多すぎるのだと思います。
 渡辺 学歴社会で学んだ知識だけでは、ただ一人の魂でさえ読み取ることができないと書かれていますね。
 石牟礼 はい。人様を思いやる倫理の高さというか深さは、純然たる方言の世界にありましたから。自分の思いを標準語に置き換えて出すと、もともと持っていた情感みたいなものが抜け落ちてしまう。心を表現するのに、ことばはとても大切です。だから、方言を大事にしたい。
 渡辺 方言でしか成り立たない世界があるのですね。
 いい話でしょ? 方言(地方語)の大切さを指摘するところにも同感。わたしの話を聞いて、「藤田さんの方言がとても温かかった」と書いてくれた豊田市の子どもがいます。わたしは、どうしても関西弁が抜けないんです。だからかな、いわゆる共通語・標準語で展開される授業に、よそよそしさを感じてしまう。授業に方言をいかす工夫が欲しい。子どもたちが日常的に使っている生活語としての方言の復権は、わたしの年来の提案なんです。(09/6/28記)



りがとう!

 藤田敬一さんから人権の話しを聞きましたきょうなきそうになりましたみんなちがってみんないい!! この一ことをわすれませんきょうはしゃべれなかったけど言いたかったことわ「ありがとう」こころの中でそう言っていました。藤田敬一先生ありがとうございました(涙顔のイラストあり)来年もあいましょういのちを大切にするってほんとうにすばらしいですね。(原文のまま)
 2/5(木)、名古屋市立常安(じょうあん)小学校3年生2クラス合同の集まりで話したときの感想文です。「ありがとう」がひときわ大きく書かれている。「今日のお話を聞いて、○○のことが心に残りました」といった教員の指導どおりに綴るものとはちがい、Mくんの真情が素直に表現されていて、こころが震えました。「ありがとう!」と感謝したいのは、わたしの方です。
 わたしは人権の話をしたつもりはないんです。「いのち」の話をしたのです。しかし、教育委員会から人権教育の研究指定を受け、その一環としての企画だから「人権の話を聞いて」と題する感想文を書かせたようですが、それでは困るんです。「いのち─生き合う」が教育のベースにあって、その上で人権という考え方がじっくりと形作られていくのでないと。小学校では人権という漢字二文字を使わなくていいと思う。ところが教員の頭は硬くできているから、人権から入るわけ。教員の頭とこころを柔らかくする方法はないものかと目下思案中。
 常安小学校には2年間、通いました。Mくんは「来年もあいましょう」と書いてくれたけれど、研究指定が終わったので再会できそうにありません。ここが「50分講師」のつらいところです。長年、公立中学校で国語の教師を勤めた大村はまさん(1906〜2005)のことば。
 私の受け持った卒業生は、「先生のことを忘れない」と言ったこともないし、また私も忘れてほしいと思っています。私は渡し守りのような者だから、向こうの岸へ渡ったら、さっさ歩いて行ってほしいと思います。後ろを向いて「先生、先生」と泣く子は困るのです。「どうか、自分の道を、先に向かってどんどん歩いていってほしい。私はまたもとの岸にもどって、他のお客さんを乗せて出発しますから」。卒業した生徒が何か自分で言ってこない限りは、私はあとを追いません。「どうぞ新しい世界で、新しい友人を持って、新しい教師について、自分の道をどんどん開拓して行きますように」そんなふうに子どもを見送っています。(大村はま『新編 教えるということ』ちくま学芸文庫、03年・3月第8刷、70・71頁)
 プロの教師とはこういうものかもしれません。しかし、わたしは生徒と一緒に向こう岸に渡り、一緒に歩みたいという願望が断ち切れない。所詮はアマチュアなんですね。

●いまひとたびの「ちょっといい話」
 『関のまちのちょっといい話─よりよく生き合うために』(岐阜県関市社会人権同和教育推進委員会企画・発行、「いきいき・生き合い講座」発展研修会メンバー文。09・3)が送られてきました。文庫版14頁。挨拶文にはこうあります。
 関市のまちの「ちょっといい話」は、「いきいき・生き合い講座(関市の人権講座)」発展研修会のメンバーが見聞きした出来事です。発展研修会は,講話を聞くだけの受身的な研修から、実践や行動を通して主体的に学ぼうとする人たちの会です。身の回りの「心温まる出来事」、よりよく生き合おうとしている人の姿を紹介することを通して「温かい心」「心豊かなまちづくり」について考えようとする取り組みです。関のまちの「ちょっといい話」をいっしょに受け止めてみてください。
 講師を引き受けて16年になりますか。2年前、「"ちょっといい話"を集めてみませんか」と呼びかけたところ、何篇か集まり、それが市民会館「わかくさプラザ」のホールに掲示され、そしてついにこのような冊子にまとめられたのです。驚くやら、うれしいやら。
 わが子をベビーカーに乗せて散歩に出た。田中の道が気持ちよく、少し足を伸ばしてみると、急に雨が降り出し、嵐になった。傘をさしたが、風にあおられ骨が折れてしまった。子どもを抱きかかえ、容赦なく降りかかる雨に困り果てていると、近くの畑で仕事をしていた女性が気づき、車で来て乗せて下さった。思いがけない助け舟に胸が熱くなった。その上、「もっと早く気付いてあげればよかったね」と温かい言葉を掛けられ、涙がこぼれた。(嵐〜いたわりのある言葉かけ」)
 ある日、近所の保育士をしてみえる娘さんから「こんにちは」と声を掛けられた。話をするうち、障がい者であるうちの息子が元気でがんばっているか気遣いをしてくださった。若い頃は、自分のことで精一杯であろうに息子のことを覚えてくださったことは、とてもありがたく、こころ温まった。また、娘さんが優しい女性に成長されたことをうれしく思った。(「久しぶりです〜気遣う心〜」)
 定期的に行われる可燃ゴミやビン・カンの収集日に必ず来てせっせと分別している女性がみえます。町内の担当役員でもないのに雨が降ったり、霜が降りた寒い朝でも黙々と分別しておられる姿に、いつも心が打たれます。今までほとんど言葉を交わしたことのない私ですが、一度話をしてみたい魅力を感じています。
 岐阜県瑞浪(みずなみ)市日吉町に続いての「ちょっといい話」の収集と出版。この試み、ひょっとした広がる可能性がある。そうなれば、ほんとにうれしいのだけれど。
 なお関市社会人権同和推進委員会の連絡先は〒501-3802 関市若草通2丁目1番地 学習情報館内 生涯学習課(0575−23−7777)です。ちなみに前回紹介した岐阜県瑞浪市日吉町人権教育総合推進会議の連絡先は〒509−6251 瑞浪市日吉町2370−1 日吉小学校(0572−69−2009)です。こちらは、宛先を書いた角2封筒と140円切手を同封して送れば冊子を届けてくださるとのこと。



「ちょっといい話」を集める
 生き合いづらい世の中だからこそ「人間は基本的に信頼できると信じて生き合う」ことから始めるしかない。そう思って講演の最後には「ちょっといい話」を紹介することにしています。

病院から「息子さんの義足ができましたよ」と電話があった。出かけて受けとった義足は重かった。外へ出ると、あいにくの雨模様。困っているところに民間の宅配業者の車が止まった。「近いところですが、配達してくださいますか」とお願いすると、「ああ、いいですよ」と快く引き受けてくださいました。翌日届いた息子の義足の上には、「がんばって!」という張り紙が貼ってありました。うれしかったです。
 これは十数年前、新聞の投書欄で見つけたものです。こんなちょっとした日常の出来事に、人のこころは温まり、それを伝え聞く者のこころも温かくなる。こころが温まれば、他者にやさしくなれるのではないか。こころ温まる投書や記事を意識的にたくわえていけば「ちょっといい話」の実行者になれるかもしれない。そう考えて、最近では「"ちょっといい話"を集めよう!」と呼びかけています。
 そんな呼びかけに応えて、「ちょっといい話」の収集に取り組んでくださっている人びとがいます。ひとつは岐阜県関市教育委員会の生涯学習課。集めた話をパネルにしてセンターのロビーに掲示している。もうひとつが、岐阜県瑞浪(みずなみ)市日吉町人権教育総合推進会議のみなさん。わたしは文科省指定「人権教育推進地域事業」のアドバイザーとして昨年6月以来4回、日吉町に寄せてもらっているのですが、さっそく実行に移し、『ちょっといい話』と題するパンフレットまで作成なさったのです(09/2)。
その日は、夜遅くまで出かける用事があり、帰りは一時をまわっていました。雨なのに傘を持っていなかった私は、交差点の信号で「早く変わらないかな」と待っていました。道路には、信号で止っているトレーラーがいて、「こんなに遅くまで働いている人は大変だな」と思いました。しばらくして信号が変わり、足早に家へと向かっていると、私の横で車のブレーキ音がします。顔をあげてみると、さっきのトレーラーらしき車で、助手席の窓が開いています。「濡れちゃうでこの傘持っていって! もういらん安い傘だから!」そう言って透明なビニール傘を差し出してくれます。正直、びっくりしました。あの交差点から、わざわざぐるっと回って見ず知らずの人のために傘を貸してくれるというのですから。本当にうれしい出来事で、少しの思いやりがこんなにも人を温かな気持ちにさせるのだと改めて思いました。

先日、用事があり、名古屋から岐阜に向かった。岐阜で用事をすませ、電車で帰ろうとJR岐阜駅に行った。(略)切符売り場で瑞浪までの切符を買おうとしていた。そしたら…。「えっと〜、大垣まではいくらだね?」隣のおばあさんが、ボソボソと言っている。「大垣までの切符ですか?」「そうなんですわ、一体いくらか分からんもんで…」「なんでしたら、買いましょうか?」「ありがとう、いいんかね?」あばあさんは、かばんから財布を出し千円札を出した。その千円札をもらい、切符を買っておばあさんに手渡した。「ほんと、すまんね。」何度も何度もおばあさんは私に言った。何かこちらが申し訳ないような感じがするくらいである。乗りたい電車があったので、急いでホームに向かった。後ろを振り向くと、あばあさんが、まだ頭を下げている。その日はなかなか用事がうまく進まず、イライラしていた。その帰りにおばあさんに出会ったのである。ちょっとしたことかもしれません。でも、ちょっとしたことでも、人のためになることをするとこんなに気分がよくなるんだと思った。この後、電車の中で「イライラした心」が「優しい心」になっていたのは自分でも分かった。

信号機がない横断歩道を子ども達が渡っていた。私は、子ども達が渡り終えるまで、車を止めて待っていた。すると、最後に渡った六年生らしき子(分団旗を持っていたので)が、こちらを振り返り大きな声で、「ありがとうございました!」と言って歩いて行った。とても気持ちのよいあいさつで、みている自分も清々しい気分になった。
 ささやかな、あまりにささやかな取り組みかもしれません。「そんなことで、この国、この社会が直面している困難な課題を解決できるのか」と一蹴されそうですが、「ものは考え様」です。新聞やテレビを賑わせている政治家・企業人などを眺めていると、柳田邦男さんではないけれど、「人間が壊れていっている!」という思いを強くします。「ささやかな、あまりにささやかな」ことを馬鹿にしていると、「人間の崩壊」は止まるところ知らずということになるでしょうね。

 なお瑞浪市日吉町のみなさんは、『心と心をつなぐ言葉』というパンフレットもつくっておられます。
何気なく使った言葉が
人を励まし勇気づけることがある
優しくあたたかい言葉には
私たちの心と心をつなぐ力がある

人からもらったうれしい言葉をテーマに
日吉町の皆さんからお寄せいただいた
人権のメッセージをここにまとめました
心が元気になる言葉がいっぱいです
 「あとがき」の全文です。詩のようなこの文章には、みなさんの胸いっぱいの思いがこめられているようで、ジーンときました。(09/2/21記)



2009年の年賀状
 08年の講演日程が終了したのは12/20でした。しかし、その後も『こぺる』191号(09/2)の「あとがき」(鴨水記=おうすいき)を書いたり、講演録を校正したりして、年賀状の原稿を戸田写植に送信できたのは12/24、出来上がりは12/25。「元旦にとどけなければ」という強迫観念からはとっくに解き放たれているので、宛名書きと一筆添え書きは元旦から開始。
 さて、わたしの年賀状です。

   謹 賀 新 年

 この一月で古稀を迎えました。体調はいたってよろしい。その証拠に、お酒がうまい。呵呵大笑。今年もこれまでどおり読書と講演と月刊誌『こぺる』の編集で過ごすことになるはずです。
 作家・柳田邦男さんの『言葉の力、生きる力』(新潮文庫)に「自らの体験を出発点として思索を深める人は、観念の遊びに陥ることなく、鋭い洞察力や先見力が発揮される」とあり、歴史家・鹿野政直さんの『近代日本思想案内』(岩波文庫)には「秩序への違和感、自己への懐疑として発現する意識こそが、思想形成への契機をなします」とある。これらの言葉を肝に銘じ、「よく生き合おう!」と語り続ける所存。
 己丑 元旦 藤 田 敬 一
 柳田さんと鹿野さんの文章を引用したのがミソ。「お二人とも大切なことを指摘してはるなあ」とこころにとめておいたのです。
 前者は、神谷恵美子さん(1914〜79、精神科医)の「日記」1960/1/3(『神谷恵美子著作集』第10巻、みすず書房)の、「清水幾太郎『社会心理学』読了。頗る面白かった。しかし社会主義革命により「個人と集団とが一つのものになり人間の中のもやもやした願望や欲求までもみな満たされてしまうという推測はあまりにも単純すぎないか。むしろ社会問題が解決したそのあとでも、もっと純粋に人間の精神自体に内臓される問題が出て来るのではないか」を紹介する文章の一節です。清水幾太郎(1907〜88、社会学者)といっても、いまでは知らない人が多いでしょうが、当時は安保闘争の旗振り役を担っていた、いわゆる「学者・文化人」の一人でした。そんな人が描く「人間の未来」像の危うさを喝破する神谷さんの眼の確かさ。「自らの体験を出発点として思索を深める」は、論理や観念に身をまかせて宙を舞うことへの警告です。
 鹿野さんの指摘もまた「体験を手放さない」ことに通じています。引用箇所の前には、「わたくしは、思想という言葉を、もう少しひろい意味に用いたいと考えています。(略)一つは、意識と思想を切りはなさず、むしろ意識を、思想発酵の素と捉えたいからです。自己を秩序に埋没させきらず、そこに芽ばえる」とあり、「秩序への違和感は…」と続きます(5頁)。大系化された思想にひるまず、自らを包み込み捉えて放さない秩序への違和感や、「これでいいのか。これからどうすればいいのか」という問いを大事にする。そこから、「わたしの思想」が形成される、とおっしゃるのですから励まされて当然。ぜひともみなさんに「おすそ分け」したくて引用しました。

 いただいた年賀状のうち、いちばん若い人は大阪市立御幸森(みゆきもり)小学校5年1組のT・Rさん。「あけましておめでとうございます。げんきですか。Rがあげたペンもってる?」とあり。去年、送ってくれたペンがどう扱われているか気になるみたい。住所が書かれていないので、「大阪市生野区桃谷 御幸森小学校5年1組内 T・R様」と宛名書きし、「ちゃんと大事にしまってあるよ」と返事しました。次は、数年前、インターネットを通じて「人はなぜ人を殺すのですか。人はなぜ自殺するのですか」と質問をしてきた岐阜市内に住む、いまは高校1年生になっているはずのK・Mさん。弟さんとのツーショットがいい。そして友人の娘さんのAさん。「今年成人式です。また藤田先生にお会いしたいです」には、「こころの成人になってね」と応答。
 今年の年賀状の特徴は、何といっても、わたしの健康状態を気づかい、励ましてくださるものが多かったことです。何があってもおかしくない年齢になった証かな。

 年賀状に添えられた「一筆」から。
 「ご多忙のようですが、お身体に気をつけて。ご自愛の程を」。住所も氏名も書かれていなくて応答できず。ああ残念。
 「日本中の少年少女に元気を分けてあげて下さいね」(京都 Tさん)。京都木屋町の、秋田の料理と冷酒がうまいお店「秋田屋」の女将さんから。年に1、2回ぐらいしか立ち寄らないのですが、こうして気にかけてくださるのがありがたい。
 「先生のおもしろい後半生を、楽しんで見させていただきます」(岐阜 Iさん)。岐阜柳ケ瀬のスナック「サフラン」のマスターから。たしかにおもろい後半生になってきました。それをかたわらから見つめてくださるというのだから、うれしいやおまへんか。
 「いつも『こぺる』、有難うございます。こちらの方で、しっかり読ませていただいています。藤田さんの人とのつながりを見ることができ、心を打たれます。寂しい思いもされているでしょうが」(鳥取 Wさん)。ふとこころによぎる寂しさも乗り越えていくしかないのでしょうね。
 「『こぺる』の鴨水記をいつも楽しみに読ませて頂いています。『ちょっといい話』は記憶にあり、心が温かくなりました。私も『世の中もまだまだ』と思ってもらえる人になりたいです」(岐阜 Tさん)。岐阜大教育学部の卒業生で小学校の教員をしている人から。新聞の投書や記事の「ちょっといい話」を読むだけで、こころが温かくなり、豊かな気分になる。こころって、ほんまに不思議です。
 「御幸森小のDVD見せてもらいました。おもしろい5年生と先生の熱い語り…感動的でした」(大阪 Nさん)。「御幸森小のDVD」とは、08/7/10、5年1組でおこなった授業風景を撮ったもの。あの出会いは忘れられない。子どもたちとは今年も会えそうで、いまから楽しみにしています。
 「昨年はとうとう同盟を退会しました。何にむかって生きているのかわかりませんが、とりあえず前をむいて生きていきます」(大阪 Nさん)。同盟とは、もちろん部落解放同盟のこと。生き方(人生への態度)はさまざまであっていい。ただ組織や集団からはなれることが、もっと広い世界への一歩につながることを念じるのみ。
 「藤田さんが古稀とは信じられない思いです。とはいえ、私もあと十年程で停年です。何を大切に日々を過ごすか、自分の心が試されているような気がします」(三重 Hさん)。元同僚だった友人。誠実な人柄が滲み出ている「一筆」です。さて、わたしは何を大切にして日々を過ごしているか。そうだなぁ、「人との呼応の関係」かな。電話を取るとき、「はいっ! 藤田です」と元気よく答えるのは、その一例。どなたからかかってきてもこの調子なんです。もっとも、「マンション経営のお勧めです」とかいう勧誘電話にはがっかりするけれど、だからといって自分の流儀を変えるつもりはありません。アッハッハ。
 「大切な御生涯の後半、健康に気をつけられ信念を貫く活動に一層専念されることを祈っています」(靜岡 Kさん)。学生時代、部落問題研究会でともに活動し、卒業後も賀状のやりとりだけは途絶えなかった数少ない友人の一人です。数年前、静岡県袋井市の講演会場で再会しました。Kさんは、わたしが来ることを知って出席してくれたのです。「信念を貫け」というメッセージには励まされます。

 何はともあれ、わたしの2009年は順調にスタートしました。「古稀青年」として自らの信じる道を進むつもりです。(09/1/16記)


    

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