意志の勝利
Triumph des Willens/Triumph of the Will
1935年ドイツ
120分
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| 製作: | レニ・リーフェンシュタール | |
| 監督: | レニ・リーフェンシュタール | |
| 脚本: | レニ・リーフェンシュタール | |
| ワルター・ルットマン | ||
| 撮影: | ゼップ・アルガイヤー | |
| カール・アテンベルゲル | ||
| ヴェルナー・ボーネ | ||
| 編集: | レニ・リーフェンシュタール | |
| 音楽: | ヘルベルト・ヴィント | |
| 出演: | ・・・ | |
| 世の中には「呪われた映画」というものが存在します。これは、普通、一般的ではない手法を用いて作られた映画、人々が目を背けたがる題材を扱った映画、異端の教義に則って作られた映画に対して使われる言葉です。例えば、ストローブ=ユイレ、フィリップ・ガレル、ジャン・ユスターシュ、ジャン・ヴィゴ、ジャン・リュック・ゴダールら「呪われた映画作家」の映画など。でも、ゴダールの映画などは結構人目に触れる機会も多く、この“呪われた”という形容詞は、売り文句の一環として用いられている感もありますね。「呪われた映画」とは、見る事さえかなわない映画に対してこそ相応しい敬称でしょう。 『意志の勝利』は、紛れもなく呪われた映画です。それは監督であるレニ・リーフェンシュタールの人生を呪い続けました。しかし、この映画は、異端の映画手法によって生み出されたわけではありません。人々の理解を拒絶しているわけでもありません。むしろ、御手本となるような映画です。フランシス・フォード・コッポラ監督は本作に感銘を受け、わざわざリーフェンシュタールのもとを訪れて、「編集」について教授を請うたそうです。 本作の呪われたる由縁は、その手法が呪われていたがためではなく、呪われた被写体を収めた事によるものです。皆さんも御存知の通り、『意志の勝利』は、ナチスの党大会を記録したプロパガンダ映画なのです・・・ <リーフェンシュタール略歴'02〜'35> 1902年、ベルリンに生まれたレニ・リーフェンシュタールは、若き時よりバレエのレッスンを受け、21歳の時にはリサイタルを成功させますが、膝の故障のためにダンサーの道を断念、山岳映画の巨匠アーノルド・ファンク監督に見い出され、24歳の時に『聖山』で映画女優としてのデビューを飾ります。芯の強さをうかがわせるその美貌はもちろん、危険な登山シーンも自らこなす積極性で、彼女は一躍人気者となります。本人はマレーネ・ディートリヒをライバル視していましたが、実際に、ドイツではかなりの人気を博していたようです。ファンクのもとで経験を積んだレニは、すぐに演出家としての才能を開花させ、30歳にして初監督した『青い光』でヴェネチア映画祭で銀獅子賞を受賞します。このまま行けば、彼女は映画史に残る偉大な監督の一人となった事でしょう。しかし、時代は彼女に特異な運命を用意していました。 1933年、首相に就任したアドルフ・ヒトラーの依頼を受けたレニは、予行演習とも言える『信念の勝利』を経て、1935年、遂にプロパガンダ映画史上の最高傑作と(悪)名高い『意志の勝利』を撮り上げたのです。 レニは本作で、ヴェネチア映画祭の最高賞である金獅子賞を受賞しました。もちろん、当時、イタリアはムッソリーニ政権下、第二次世界大戦時にはドイツと同盟関係にあった事を忘れてはならないでしょう。しかし、彼女の強固な美意識が生み出した圧倒的な映像には、否定する事の出来ない力が宿っている事も確かです。戦後、レニ自身と同様に、一転して轟々たる非難に晒される事になる本作も、公開当時は世界中で高い評価を受けていたのです。数年後にはドイツに侵攻され、占領下に置かれる事となるフランスでさえも、パリ国際芸術博でグランプリを受賞するなど、高い評価を受けていた事は皮肉と言う他ないですね。
< 〜'54> 戦前に『意志の勝利』を評価していた批評家たちは、戦後になって、この映画の力は、党大会の会場を設計した建築家アルベルト・シュペーアの功績にあったのだと、揃って訂正し始めました。確かにシュペーアの功績が少なからざるものであった事は了解できますが、しかし、それならば、偉大な建築物を撮影した映画は、皆、偉大な映画になるとでも言うつもりなのでしょうか? これは戦後ヨーロッパを席巻した“レニ・パッシング”の一つに過ぎないと思います。 ヨーロッパ、特にはドイツにおいてですが、ナチスの協力者、無意識的な共犯者であった者たちは、自分たちのスケープゴートにするために、レニを“負の偶像”として祭り上げる事に心血を注いでいたように思います。レニの芸術的な感性は、イコール「ナチス的美意識」として断罪され、彼女の経歴、人生からは、あらゆる功績が削ぎ落とされたのです。 戦争裁判で無罪となったのにもかかわらず、彼女の戦後の活動は困難を極め、度重なる妨害の中、やっとの思いで完成に漕ぎつけた『低地(1954年)』も、絶賛したジャン・コクトーらの擁護も虚しく、まともな興行は行えないまま終わりました・・・ 以後、レニは映画を撮る事が出来なくなりました。偉大な“映画監督レニ・リーフェンシュタール”は、歴史から姿を消す事になるのです・・・ 彼女の後半生についてはまたの機会に書かせてもらう事にしましょう。 |