| 獣の血 | |
| Le Sang des betes/Blood of the Beasts | 1949年 フランス |
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| 『顔のない眼』(1959年仏)で知られる異色の映画作家、ジョルジュ・フランジュの最初期の短編映画。パリ郊外にある屠殺場を題材にしたドキュメンタリーです。 IMDbのデータベースを見ると、1934年に『Le Metro』という監督作がありますが、これはアンリ・ラングロワ(!)との共同監督作品で、フランジュ自身は、この『獣の血』こそが自分の処女作だと公言しています。 私事になりますが、高校時代、ジャン・コクトーの映画評論をまとめた「映画について」(フィルムアート社)でその存在を知って以来、ずっと見たいと思っていた映画です。日本未紹介の作品のため正式な邦題が存在せず、その本の中では『野獣の血』と表記されていましたが、「感動させぬ場面はない。そしてそれはほとんど意味のない、ただ偉大な視覚の書体の美しさ、文体の美しさだけによるものだ。」、「ヒットすることを問題にしない勇気あるシネアストたちは、再三再四、シネマトグラフとは現実性と叙情性の道具であること、すべては人生のありさまを観察するアングルにかかっていることを証明する。 その角度から見た物事の独自な見え方を、彼らはわれわれにどうしても分かちあたえようとする。それによってわれわれの眼に日常の奇跡を浮きだたせるのだ。」という賛辞に心を打たれてしまったのです。「真の映画とは、見ることのできない映画だ」というゴダールの言い草ではありませんが、どうしても見れないだけに、尚更に“幻の名作”としての地位を確固たるものにしていました。 そんな感じで十年余りが経過していたわけですが、先頃、なんの気なしに、アメリカで発売された「Eyes Without A Face: Criterion Collection」というDVD、つまり『顔のない眼』のクライテリオン盤の詳細を調べていたところ、特典の欄に「Blood Of The Beasts (Le Sang de betes)」の文字が!? 「獣の血」って、これはあの“幻”の『野獣の血』ではないか!!!!! うお・・・、不覚だった。『顔のない眼』がクライテリオンから発売されてることは知ってたけど、国内盤を持ってることだし、まあいいかと思って無視してたんですよ。すげえよ、やっぱりクライテリオンはすげえよ! というわけで早速注文して、感動の対面となったのであります。 勝手な想像で、動物が殺される様子を黙々と映し出すミニマルな映画かと思っていましたが、この映画は冒頭、ポルト・デ・ヴァンヴの蚤の市の長閑な風景で幕を開けます。 「パリ郊外、貧しい子供たちの遊ぶ空き地に、過ぎ去った富の奇妙な残骸がまき散らされていた・・・」 リリカルな音楽にリリカルなナレーション、そしてあまりにもリリカルな映像。腕を失くした裸のマネキン、地面の上に無造作に置かれたルノワール、枯れ木に吊り下げられたシャンデリア・・・。これだけで惹き込まれてしまいますね。シュールレアリスティックだけど、ずっとリアリスティックで、素朴な詩情を秘めた映像。 こうした“素朴”さには、ある種の陳腐さが付きまといますが、これは意図されたものです。一連の映像の締め括りに登場するのは、凝り固まったアングルで収められた、恋人たちのキス・シーンです。観光映画に使えそうなくらいイメージのいい映像。しかし、その背後には、列車の音が鳴り響いているのです。動物たちを乗せて屠殺場へと向かう列車の音が! 場所はポルト・デ・ヴァンヴにあるヴォージラール屠殺場へと移ります。ここからはリリカルなナレーションは影を潜め、ほとんど学術的とも言える、屠殺の行程の解説が始まります。 脳天にボルト・ピストルを打ち込まれ、力なく崩れ落ちる白い馬。頚動脈が切り開かれ、血抜きの作業が終わった後で、丁寧且つ迅速に皮剥ぎが行われます。 「足は取り除かれ、ひづめは肥料に、骨は骨炭や女性向け化粧品の原料にされる。」 ホロコーストのドキュメンタリー、『夜と霧』を思い起こさせるナレーション・・・ この映画は、度々、パリ郊外の長閑な住宅街の風景に立ち返ります。そして、私たちが生きる文明社会が、おびただしい量の獣の血の上に成り立っているということを思い起こさせてくれます。目は逸らしてはいけません。これは私たちの生きる世界の様相なのです。 ポールアックスを打ち込まれて倒れ伏せた巨躯の牛は、死んでも尚、手足をバタつかせます。反射を抑えるために、その脊椎にはリード線が押し込まれ、解体作業は進んでいきます。解体した頭数を明らかにするのは、地べたに並べられた生首です・・・ 動物たちを追悼するかのように映し出される教会。しかしナレーションが語ります。 「これは、肉屋の守護聖人、聖ヨハネを祀った礼拝堂ではありません。彼の憐れな子羊たちを弔うためのものでもありません。これは屠殺場の中にあるオークション会場なのです。」 列をなして断頭台へと向かう羊の群。中には抵抗を試みる者もいます。しかし多くの者は、「それが役に立たないことを知りながらも、最後まで歌い続ける死刑囚のように」、鳴き声を上げながら従順に続いていくのです。 その映像は、ほとんど悲劇的なレベルにまで達しています。処刑を待つ幼子のつぶらな瞳が、心を打たないなんてことがあるでしょうか! しかしこの映画は、憐れな動物たちに対する同情を誘うだけでなく、屠殺場の労働者たちが置かれている過酷な労働環境をも明らかにしていきます。 引きずられる義足、手首の上に出来た歪な瘤・・・。少ない賃金で過酷な労働に従事する人間たちの姿を通して、社会が抱える矛盾が浮き彫りになります。フランジュの言う「獣の血」とは、無垢なる者が流す血の総称であり、社会的弱者の犠牲のことを指しているのではないかと思われてきます。 しかしこの映画は、そうした告発に終始して、社会性を誇示することで満足するような、安易な良識、安易な美意識の産物ではありません。ここにはもっと強烈なポエジーがあります。まるで奉仕するかの如くに、最後には全てが「詩」に回帰していくのです。 「おお海よ 夏空の中で ただよう雲はまるで羊のよう その頂には天使が・・・ おお海よ 無限の青の中の羊飼いの娘よ 見よ 池のほとりの濡れた葦を・・・ 見よ 白い鳥たちを 波にさらされた家並を・・・ おお海よ・・・」 通俗的なシャンソンが流れる中、映し出されるのは皮肉めいたメタファー。羊のはらわたを引き摺り出す女性職人・・・、彼女が「無限の青の中の羊飼いの娘」なのか? 「池のほとりの濡れた葦」は、Reed(葦)はReedでも、牛の脊椎へと押し込まれた、血に濡れたリード線(Reed)です。言うまでもなく、ここで言う「海」とは、地面を覆うほど流された「獣の血」の海のことなのです。 この映画は多義的です。しかしこの多義性は、弱腰な姿勢によって付与されたものではありません。焦点は全ての被写体に対して正確に合わされています。世界の様相を正確に捉えようとする真摯な姿勢が、この豊かな多義性をもたらしたのです。 社会に捧げられたいけにえ、文明の下に流れる血の大河。残酷趣味と恍惚と、憐憫の涙の雨・・・。本当に多様な解釈が可能です。この映画は社会的であり、啓蒙的ですらあります。しかし、このレビューをまとめるに当たって、最後はあえて解釈を排して、ジョン・コクトーに倣い、フランジュの偉業をそのスタイルについてのみ言及して、賞賛したいと思います。「そしてそれはほとんど意味のない、ただ偉大な視覚の書体の美しさ、文体の美しさだけによるものだ」と。
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| 上記した通り、この映画は米クライテリオンから発売された『顔のない眼』のDVDに特典として収録されています。画質は良好で、モノクロ映像の美しさをしっかり堪能することができます。音声はオリジナルのフランス語音声の他に、英語吹き替えバージョンを収録。字幕はフランス語音声の方に対応したON/OFF可の英語字幕です。femoral
artery(大腿動脈)とか、普段あんまり目にしないような用語も出てくるので困ってしまいますが、まあ辞書の助けを借りながら見れば問題ないと思います。 「cinema de notre temps」というTV番組の抜粋をまとめた、「FRANJU ON BLOOD」も大変興味深いです。監督のフランジュ自身が、『獣の血』を作った理由、そして映画的な“真実”ついて語ります。 皆さんお忘れかも知れませんが、上に紹介したものは全て、『顔のない眼』のDVDに付いてる映像特典なんですよ。これだけでも充分お金を出すのに値する充実ぶりでしょ。クライテリオンの面目躍如ですね。『顔のない眼』の国内盤が廃盤中ということもありますし、興味を持たれた方は、是非、躊躇なく購入されて下さい。 |
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(2005/11/25)
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