はなればなれに
Bande a Part
1964年フランス

96分


製作: フィリップ・デュサール
監督: ジャン・リュック・ゴダール
脚本: ジャン・リュック・ゴダール
撮影: ラウール・クタール
音楽: ミシェル・ルグラン
編集: アニエス・ギュモ
録音: アントワーヌ・ボンファンティ
ルネ・ルヴェール
ナレーション: ジャン・リュック・ゴダール
原作: ドロレス・ヒッチェンズ
 
出演: アンナ・カリーナ
サミー・フレイ
クロード・ブラッスール
ルイーザ・コルペイン


ストーリー
 学生のフランツと伊達男のアルチュールは、性格こそ違えど、推理小説を愛する親友同士。二人共、コケティッシュな魅力を放つオディールに惹かれているが、彼女の叔母さんの愛人が家に隠しているという大金の話を聞いて、オディールを巻き込んで、大金を盗み出そうとする!
 でも、お金が見付からない内に、二人はオディールの叔母さんに見付かってしまう。もう、こうなったら居直り強盗だ! でも、叔母さんはお金の在り処を吐こうとはしない。
 その内、アルチュールのチンピラの叔父さんが出張ってきて、アルチュールは撃たれてしまう。車で逃走を図ったフランツとオディールは、南米行きの貨物船に乗り込んで、「テクニカラー・シネマスコープ」の世界へと旅立つのであった・・・
レビュー
 ゴダール&カリーナのコンビは、それほどゴダールに興味が無い映画ファンにとっても、60年代を代表する鮮烈なイコンとして輝いているわけですが、『気狂いピエロ』『女と男のいる舗道』『アルファヴィル』『メイド・イン・USA』『女は女である』に続いて発表された本作は、日本の映画ファンにとって、遅れてやってきた最後の“伝説”と言える一本でしょう。

<『A BAND APART』>
 『BANDE A PART』。このタイトルを見て、何か思い浮かびませんか? 英語だと「A BAND APART」・・・。そう、本作のタイトルは、クエンティン・タランティーノが設立した映画会社の名前の元ネタなのです。『キル・ビル』のオープニングにだって、しっかりと出てきますよ。

 タランティーノは本作のタイトルをそのまま自分の会社の名前にしました。この事からも『A BAND APART』が、英語圏を始めとして、世界中で愛されてきた映画である事が窺えると思いますが、我が国では、なぜか長年に渡って劇場公開もソフト化もされず、そのタイトルはコアな映画ファンの間で囁かれるのみでした。左記に挙げた五本の作品のネームバリューとは比べるべくもありませんね。

 まあ、なんとなく想像は付きますよ。地味なストーリーのモノクロ映画なので、興行的な価値を見込まれなかったのでしょう。当時は、ヨーロッパの映画は二、三年遅れて公開される事が普通でしたから(←今でもですが)、その二、三年という年月の間に、『軽蔑(1963年)』『気狂いピエロ(1965年)』『アルファヴィル(1965年)』と、立て続けに代表作を発表されてしまっては、間に挟まれた本作の事が忘れられても無理は無いです。同年の『恋人のいる時間(1964年)』も、やっぱり忘れられていましたね。
 それにしても凄いなあ、この時期のゴダールって・・・。66年にも、『男性・女性』『メイド・イン・USA』『彼女について私が知っている二、三の事柄』と、三本の長編が公開されてますし、人間技じゃないですよね。なんでも午前と午後で別々の映画を撮ってたとか・・・


 タランティーノの名前を挙げる事で、ゴダール映画に縁遠い人にまで目配せしようとしたわけですが、正直、無駄な努力のような気もして参りました(^^; まあ、とにかく、タランティーノはもちろん、ヴェンダースビルトル・エリセからもとりわけ愛されたという本作は、映画的な遊びに満ち満ちた楽しい映画なんです。

 カフェでダベくっている時に、「一分間沈黙してみよう!」という事になったら、映画のサウンドトラックまでホントに沈黙しちゃうし、家を出て街へ向かう時のカリーナは、渡し舟で川を渡っちゃったり、トラに出会ったり、まるで冒険紀行のノリ♪
 アメリカ人が作った記録に対抗して、ルーブル美術館鑑賞の新記録を作ろうという事になったら、主人公たちにホントにそれをやらせてしまうというゲリラ的撮影。
 映画を遊びに変え、日常を冒険に変える、空回りの陽気さとハグラカシの笑い、哀しいけど、とびきり楽しい♪ 『はなればなれに』は、そんな映画です。
(以下はヒマな人だけ御読み下さい。)

<ミシェル・ルグランと冬のパリ>
 ミシェル・ルグランの軽快なテーマ曲に合わせて、カリーナブラッスールフレイ、三人の顔のアップが凄い勢いで入れ替わり立ち代り・・・。スロットマシンの絵柄がぐるぐる回っているみたいで、ウキウキ感を盛り上げる最高にノリのいいオープニングです!
 でも、その軽快に過ぎる音楽が途切れた瞬間、同時に「ザァーッ」という街の雑踏・・・。打って変わって単調さを強調するような長めのカットで、ドキュメンタリー的なロケの映像が映し出されます。
 これは差し詰め、スロットの回転が止まると同時に、金無垢のコインなどではなく、現実世界の映像が流れ出したと言ったところでしょうか。冬を迎えんとする寒々としたパリの情景が、この映画の「心象」として、特別な意味をもって迫ってきます。

<’59〜’66>
 デビューから60年代中盤にかけての“ゴダールの映画史”においては、「逃避」というものが主要なモチーフとなっています。J・P・ベルモンドが演じた二人の主人公の物語、『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』という伝説的な二本の作品がそれを如実に顕していますが、そこに質的な変遷が見られる事にも留意しなければなりません。
 
ミシェル・ポワカールが犯罪(=自らの犯した罪、殺人)から逃亡して、日常(=恋人との関係)の中に生きようとしていたのに対し、フェルディナンは日常(=妻との生活)から逃避して、犯罪(=愛人との関係、殺人、無法)の中に生を見出そうとします。
 これは、ゴダールの出発点がアメリカ映画=アメリカ的犯罪映画であった事に由来するのでしょう。彼は映画的な「犯罪」から出発して、ヌーヴェルヴァーグ的真実である「日常(=現実)」へ到ろうとしていたのかも知れません。そして、ある種の獲得と喪失を経た後に、再び「映画(=映画的世界)」への回帰を見せた。少し単純化し過ぎですが、大体そんな解釈ができると思います。
<『はなればなれに』>
 本作『はなればなれに』は、『気狂いピエロ』の前年の作品であり、明らかに後者の作品、「現実」からの逃避を描いた映画に属しています。
 オディールは、一見、チンピラ男たちの悪巧みに巻き込まれたかのように振舞っていますが、寧ろ反対で、二人の男に犯罪をそそのかした張本人、ゴダール映画的“ファム・ファタール”の典型的な人物として見た方が正解です。
 叔母の家で暮らしながら、目的もなく英語教室に通う彼女は、展望のない人生から脱出する事を欲しています。それ故に、彼女は隠されている大金の存在を知った時、自分に魅了されているチンピラ然とした男たちを前にして、その話を持ち出したのでしょう。
 アルチュールは、見るからにチンピラ然とした男ではありますが、その性格は環境によって培われたもので、外では幅を利かせている彼も、一旦家に帰れば叔父さんを始めとするゴロツキ揃いの親族たちの中で虐げられています。彼は叔父さんに締め上げられて、犯行計画の事をバラしてしまいますが、呪縛から逃れるために彼らを出し抜こうとするのです。
 フランツだけが、家庭環境を始めとして、そのプライベートがほとんど明かされないまま終わるので、その閉塞感を憶測する事が難しいのですが、大学を中退しているゴダールからすれば、フランツが学生であるという事だけで充分だったのかも知れません。
 ちなみに、彼がラグビーをやっているシーンがあるのですが、意外にも、ゴダールはなかなかのスポーツマンとして知られているんですよ。何気にこのフランツが、ゴダールの心の内を一番代弁しているのかも知れません。
 アルチュール亡き後、フランツはアンナ・カリーナ扮するオディールと共に、「テクニカラー・シネマスコープ(←ゴダール談)」の世界へと旅立つのですが、ここにはゴダールの願望が投影されていたのかも知れません。
 ゴダールとカリーナの結婚生活には、既に『女と男のいる舗道』の時から影が差していて、この64年には離婚していたにも拘らず、ゴダールの方ではヨリを戻したくて、『気狂いピエロ(1965年)』にまで出演させているんですよ。「テクニカラー・シネマスコープ」って、他でも無い『気狂いピエロ』の事じゃないですか。結局、あっさり捨てられちゃってるだけに悲しいですね(笑)。
<「逃避の産業」>
 彼らは大金を手に入れる事で、閉塞した状況から抜け出そうとしていますが、本来手段であったはずの「犯罪」という行為によって、現実から逃避しようとしているようにさえ見えます。フランツとアルチュールは推理小説マニアですが、彼らが手の平でピストルを模って撃ち合うシーン(←ポスターの写真にもなっている)が象徴的ですね。これは犯罪映画などでは無く、犯罪ごっこの映画だったのです。
 ルーブル美術館を全速力で駆け抜けるという行為が象徴するものも、常識に対する逸脱であり、自由を希求する心の奔走です。カフェでのしょーもないだベくり、微妙に気合いが入ってないマディソン・ダンス。どのシーンも最高に楽しいのですが、それだけに哀しみが際立つのです。

 オディールは、アカペラで「苦悩」について歌います。すると映画が擬似的にミュージカルの様相を呈してきます。
「哀しみとは深くて深くて深いもの・・・」
 この台詞を、実質を欠いていると言って笑う事は簡単です。しかし、彼らの哀しみは、実質を欠いてしまっているという事、それ自体にあるのです。全てが「ごっこ遊び」に終わってしまうのです。唐突に挿入される「現実」の映像、夜の街、ホームレス・・・。これらのカットが物語との間に強烈なコントラストを作り出して、その虚無感に拍車を駆けます。「アカペラ」とは、礼拝堂で歌われる歌なのです。

 ところどころで挿入されるゴダール自身によるナレーションも、過剰に悲愴な内容で、明らかに物語から浮いています。でも、「苦悩」の映像も悲愴なナレーションも、登場人物たちとは“はなればなれ”になっているが故に、映写機がスクリーンから遠く離れているほどに大きな像を結ぶように、登場人物たちの内面に巨大な「現実」を投影するのです。

逃避の不可能性>
 彼らの「犯罪」は、無様な結末を迎えます。三人はゴタゴタの中で、部屋から部屋へ行ったり来たりして、ハシゴを昇り降りします。言うなれば、彼らは日常から逃れようとしていたのにも拘らず、日常的な動作の中に埋没してしまうのです。
 そんな中で、アルチュールは彼の叔父さんによって撃ち殺されます。彼は自らが逃げようとしていた「現実」に追いつかれて、命を奪われてしまったのです。

 一方でオディールとフランツは、海の彼方の船上にあります。二人は逃走を完遂できたのでしょうか? このシーンには、「B級映画的手法」によって、曖昧さがもたらされています。二人の船出には、ディカプリオとケイト・ウィンスレットに用意されていたような、直接的な映像が無いのです。
 二人は海を眺める事も無く、海と同じフレームに収められる事もありません。低予算映画らしく誤魔化された撮影で、“現実には船出していない”船の上で、二人をフレームに収めただけなのがミエミエです。
 その直後に挿入される、まるで“ユニバーサル映画のトレードマーク”のような地球儀の映像が、「次回はテクニカラー、シネマスコープで・・・」という嘘っぱちのナレーションと相俟って、彼らの逃避行を虚構性の中に埋没させます。つまりこのラスト・シーンは、「映画的」にデッチ上げられたものに過ぎないのだとも解釈できるのです。

<「哀しみとは深くて深くて深いもの・・・」>
 「映画とは逃避の産業である」という『映画史』の1Aにおけるゴダールの言葉が思い起こされますが、私たちは、ここで逃避の不可能性を目にします。ミシェル・ポワカールは恋人に裏切られて息絶え、フェルディナンはダイナマイトで自爆します。しかし、ゴダールは“映画そのもの”を曝け出す事によって、逆説的に観客を「現実」と向かい合わせようとしているのです。
 ピーター・グリーナウェイは、ゴダールを称して、「映画を通じて人々の思考や認識を変えようとした数少ない映画作家の一人」と言いました。
 ゴダールは「映画」を信じて・・・、いや、信じようとしているのです。

 本作はとてつもなく哀しい映画です。ここにはハグラカシの笑いがあり、空回りの陽気さがあります。でも、底抜けに哀しいのです。ゴダールは、私たちの時代の哀しみを描いています。今、映画を見ている私たちは、みんな、逃げ出したい気分なのです・・・

<おまけ>
 最後に、タランティーノが自作のタイトルを借用した事に対する、ゴダールの発言をご紹介♪
「タランティーノが自分のプロダクションの名前を『はなればなれに』から取ったのはオメデタイ発想です。『はなればなれに』は駄作です。オマージュとしても馬鹿げている。せめてタイトル借用の謝礼でも払い込んでくれれば良かったのに・・・」
 アンタ、ホントにヒネくれてるの〜(^^;
1 5 10
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マニア人気
オススメ度
ソフト
 まさかこの映画をDVDで所有できる日が来るとは!! 数年前では想像も出来なった事ですね。この勢いでゴダール最後(?)の伝説、『勝手に逃げろ/人生(1979年)』も出してほしいです。

 DVDは紀伊国屋より発売されました。素晴らしいですな。クオリティーにも大満足です! 特典としてオリジナル劇場予告編も収録されています。ゴダールは予告編も自分で作っているので、ファンは必見ですよ! ミシェル・ルグランの軽快なテーマ曲に乗せて展開される、まるで名場面集のような予告編で、これだけ見ても十二分に楽しい気分になれます。数あるゴダール映画の予告編の中でも、これはとりわけお気に入りです。

(2004/06/07)

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