| 秋津温泉 | |
| Akitsu onsen/Akitsu Springs/An Affair at Akitsu | 1962年 日本 |
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| 昭和二十年、太平洋戦争下の日本。東京の学生だった周作は、疎開先の叔母の家を空襲で焼き出され、岡山県山中の秋津温泉に流れ着いた。彼はそこで、秋津荘の一人娘、新子と出会う。病に体を蝕まれていた周作は、暗い時代に絶望し、生きる希望を失っていたが、彼女の快活さに打たれ、生きる力を取り戻す。 終戦を挟み、二人は次第に惹かれ合うようになっていった・・・ 三年後、周作は再び秋津荘を訪れたが、彼はすっかり自堕落な男になっていた。文壇での成功を夢見ながらも、芽の出ない周作は酒に溺れていたのだ。周作は新子に「一緒に死んでくれ!」と訴える。周作の愛を確かめた新子は、彼の願いを受け入れ、一緒に川原に向かったのだが・・・ |
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| 当時二十八歳にして、既に女優としての地位を確固たるものにしていた岡田茉莉子が、「映画出演100本記念」として自ら企画して製作に当たった作品。監督は、“松竹ヌーベルバーグ”の旗手、吉田喜重。 売り出し中の若手に過ぎなかった吉田を起用したのは岡田自身。この作品は岡田に数々の映画賞をもたらし、吉田も一躍評価を高めることになります。同い年の二人が64年に結婚したことは、もう皆さん御存知ですよね。 *レビュー内、黄色文字の部分にはラストへの言及も含まれます。ネタバレがイヤな人は飛ばして御読み下さい。 一口に「ヌーベルバーグ」と言っても、吉田監督の作風は“セーヌ左岸派”を思わせる理知的なものです。後年の『鏡の女たち(2002年日)』では『二十四時間の情事(1959年仏/日)』にオマージュを捧げており、実際にレネに強く影響されていることが窺えます。 伝統的なメロドラマとしての体裁を取っている本作『秋津温泉』も、そのプロットは非常に緻密であり、テーマを多層的に浮かび上がらせる構造になっています。 吉田監督自身が語っているように、この映画で描かれているものは、男たちが作った社会の中で苦しめられる女性の姿なのですが、周作、新子の関係を、そのまま国家と国民、国家と個人の関係として読み解くことによって、その批判精神はより明確になってきます。 死に誘惑されながらも、それ以上に生きることを欲し、体こそ病んでいれど、心は真っ直ぐな青年だった周作は、中年時代を迎えて、経済的に豊かになり、安定した生活を得たのとは裏腹に、精神的には廃退して行きます。彼の生き様は、近代日本の精神史と重ね合わされているのです。本作は62年の公開ですが、こうした歴史解釈は現在でも充分通用するものでしょう。 誤解を招かないように注釈しておきますが、吉田監督、そして原作の藤原審爾は、精神的な貧窮に陥った“現代”と対比する形で、戦中日本の精神性を美化するようなことはしていません。 ここが複雑なところなので注意が必要ですが、病弱なため、戦争に行くことができず、非国民扱いされている周作は、一見すると、「軍国日本」とは相反する存在として描かれているように思えてしまいますが、彼が日本という国家の象徴であるという前提に立って大局的に見た場合、心身を一元的に捉えるように、この二つが一体であるということに気付きます。つまり、病魔に蝕まれ、血を吐いているのは、日本という国家なのです。本作は、軍国主義へと突き進む日本という国家の本質を、心を病んだ自殺志向の人間として描いているわけです。 古き良き時代への回顧を描く物語は多いわけですが、この映画は全く別物です。時代は最初から病んでいます。美しく描かれているのは、“人間”の方なのです。 新子が焼け野原のような枯れ野を走り回るシーンが印象的です。色彩の滅した世界の中に真っ赤な襟巻きがなびきます。まるで美の化身が降り立ったかのような鮮烈さ。新子を演じる岡田茉莉子が、時代の中にすくっと立つような、「個」の美を体現しています。 さて、だいぶ遠回りしてしまいましたが、つまり私が言いたかったのは、岡田茉莉子がとても綺麗だということです。映画序盤のこれ見よがしにアピールされる初々しさもいいですが、中盤以降の物憂げな表情も魅力的です。 若々しさは勿論必要ですが、ある程度年齢が行っていないと中年期の深みが出せませんし、この役を演じられるのは、長いキャリアの中でもほんの僅かの期間だけだったでしょう。この映画の中の岡田茉莉子は、さながらイコンのようです。かのジャック・リヴェットは本作を見て、思わず周作のように「シンコサ〜ン!」と叫びたくなったそうですが、その気持ちも分かるというものです。 物語の主要な舞台となる“秋津荘”の存在感も、映画の魅力を引き立てています。階段下の布団部屋、長い長い外廊下、石造りの露天風呂、新子が住まう離れ家・・・。恐らくロケーションの問題もあったのでしょうが、個々の情景は印象的でも、その位置関係は曖昧で、全体像を掴み難いのですが、寧ろその事によって、ある意味、宇宙的とでも言うべき空間感覚が付与されています。 廊下から部屋へと移動しながら会話を交わす新子と周作。周作の結婚を知らされた新子は、ふすま越しの別れの後、廊下の突き当たりに置かれた椅子に腰掛け、一人煙草をくゆらせます。 二人の間に生じた距離感と、その心の道程を、背景の空間が表象しています。そこには登場人物たちの内的宇宙が投影されているのです。物語中盤以降、この秋津荘はだんだんと新子の位格と同化していくことになります。 終盤に、新子が周作に向かって「一緒に死んで!」と訴えることから、物語の前半と後半で二人の立場が入れ替わっていると解釈する人もいますが、それは一面的な見方に過ぎません。新子自身の言葉を借りれば、彼女は大人になって、“後悔することを覚えた”のかも知れませんが、本質的には“あの日”のままの「新子」です。 変わったのは周囲の方なのです。新子の切なる訴えを一蹴し、周作は彼女の体だけを求めます。新子は、周作との間に埋め難い距離ができてしまったことを思い知るのです。 周作が近代日本の精神を映し出す鏡だとすると、これは彼女が時代から拒絶されたということを意味しているのでしょう。もはや結末は目に見えています。彼女は自らの生きる場所を失ってしまったのですから・・・ 言うまでも無く、秋津荘の閑散とした風景は、新子の心象を反映しています。時代から取り残された秋津荘が解体の運命を辿るように、彼女も人生の幕を降ろすことになります。 桜の花が「日本の象徴」だとすると、その花びらを散らす木の下で新子の生涯を閉じさせたのは、単なる視覚効果の追求ではなく、時代に対する批判精神の為せる業だったのでしょう。周作は新子の亡骸を抱えて涙しますが、彼女の行動を理解することはできません。 「どうしてなんだ!?」、慟哭の声が空しく響きます。 美しいヒロインに魅力的な舞台、そして味わい深い物語・・・。本作はメロドラマの面白さを存分に堪能させてくれる映画でもあります。いや、何よりも先ず、優れたメロドラマであるという点が、本作を日本映画史に残る名作たらしめているのです。小難しい解釈などいりません。さあ、あなたも一緒に叫びましょう! シンコサ〜ン!!
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| DVDは松竹より発売された「吉田喜重 DVD-BOX 1」に収録されています。他の収録作品は、『ろくでなし』、『血は渇いてる』、『甘い夜の果て』、『嵐を呼ぶ十八人』、『日本脱出』の5本です。 特典は劇場予告編一本のみです。ハイビジョン・テレシネを売りにしているわりには、片面一層仕様だったり、ちょっと引っ掛かるところもありますが、古い映画特有の淡い映像だったこともあってか、画質の点でも特に問題は見受けられませんでした。 このBOXはかなり高額なので、是非とも単品発売してほしいですね。 |
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