昭和61年5月
   竹谷新田村
  46、出屋敷絵図
  三和商店街にかき船が往来
 
出屋敷で150年も続いている表具師、岸田さん(84歳)に70年程昔(大正5年頃)の出屋敷界隈のお話を伺いました。
 貴布弥神杜から西本町筋は、現在の三和商店街の発祥地とも言えます。今も地名が残っている様に玄番堀(鉄砲川)という川が流れていたところが現在の三和本通、サンロード、新三和商店街等です。わずか70年程前は、この川にかき船が往来し、今の出屋敷周辺は芋畑でした。ここで収穫された甘芋は京都方面に出荷されそれは名高いものでした。
 農耕用の馬や荷馬車用の馬を集めて草競馬に興じたお百姓さんたち、何とのどかな事でしょうね。それが現在の竹谷小学校です。
 逢(よも)川も今の三倍位幅広く、道意新田へ行き来る唯一の交通機関、渡し船がありました。船守は農家から交替制で船賃は五厘でした。川には鯉・鮒・鰻・川えび等がたくさん棲息していて子ども達は学校から帰るとバケツをさげてそれらの魚を取りに行くのが楽しみの一つだったそうです。
 当時尼崎には尋常小学校が三校しかなかったので中学に進学するには伊丹まで通学しなければならなかったのです。国道43号線も当時は川だったそうで昭和38年うめたてて完成しました。 こうしてわずか70年程の間に時代の流れと共に移り変わっていく出屋敷の姿をとどめておこうと5年程前に郷土絵図を作成したそうです。現在尼信出屋敷支店にかざられています。
 (山神 一子)

交通機関】阪神電車出屋敷駅 北へ200m。

  随 想
 時代の流れと共にすっかり変わった出屋敷。私が住んでいる街ですが、6年程前に駅前再開発により店舗付マンションが出来、阪神電車も高架事業で立派な駅舎が出来て、新しい街づくりに活気が出て来た様に思われます。しかし、大地震から1年、空地やガレージもたくさん出来ましたが新しい住宅も建ちはじめ、街並みも変わりつつあります。街並みは変わっても、庶民的で人情深い街の気風は変わってほしくないですね。(H8年)

 戻る

昭和61年7月
      あ   じ ゃ り    けい  ちゅう
  47、梨契沖
   尼崎が生んだ国学者
 今回は真言宗のお坊さであり、江戸時代前期に学の学問的基礎を築いた古典研究家の契沖について紹介します。
 契沖の祖父下川元宜は、肥後熊本の加藤清正に仕え五千石の家老職でありましたが清正の死後、父の代になって尼崎城主青山幸成(よしなり)のもとに移って来ました。そして寛永17年(1640年)下川元金の二男として生まれました。契沖は幼ない頃から聡明で5歳の時母の教えに百人一首を暗記し、父が實語教を教えた時にも全て暗記したといわれています。7歳で大病にかかり、11歳の時尼崎の地を離れ、大阪今里の真言宗の寺院妙法寺の住職かい定(かいじょう)について国学を学びました。13歳で高野山に入り24歳で阿闇梨の位を得ました
 やがて寺を去り、放浪の旅をしながら独学で古典を学び、老母を養うために妙法寺の住職となりました。母の没後は研究に没頭しすぐれた多くの業績を残し、表著書には「万葉代匠記」があります。また契沖は士的気魂があり信念に対ては一歩も屈しない反面、人情に厚い性格も持ち合せていました。
尼崎の生んだ国学者契沖に本居宜長等もかなりの影響を受けたそうです。(山神 一子)
 参考:日本人名大事典兵庫県大百科辞典

  
随 想
 「万葉代匠記」は、徳川光国の命で著した万葉集の注釈本で、読み方、解釈と鑑賞を加えてだれにでも読める書物にしました。その他にも古今集、伊勢物語、源氏物語等の注釈も行いました。
    戻る

昭和61年9月
      さんぺい ゆ
   48、三平井
  水に命をかけた悲しい物語
 せみが鳴き、真夏の太陽が照りかえす午後、猪名寺廃寺近くにある「三平伝説」で知られる三平井を訪ねました。
 天正3年(1575年)5月摂津平野一帯はひどい水ききんにみまわれました。日照りつづきで田圃は白田になり、村の年寄りたちが時の領主に猪名川から水を引きたいと何度も願い出ましたが許されませんでした。そこで庄屋の息子三平さんは底を抜いた樽をつなぎ水を田畑に引く事に成功、三平さんは水と自分の命をとりかえる事で農民たちを救おうと覚悟したのでした。
 昭和44年3月大井樋門・三平樋門と印した立派な樋門が竣工されたものの悲しいかな昔のおもかげはみられません。
 何げなく流れる水音を聞いていると、この用水路にも祖先の汗と涙・泥にまみれた長い間の努力のつみ重ねのあとがうかがえます。最近、劇団「かすがい」によって上演され、又「新大井音頭」のレコードも出来、大いに三平さんの心いきが伝えられています。 三平井組碑は塚口三菱電機東南に建っています。
(山神 一子) 参考 高校演劇叢書

【交通機関】阪急塚口駅北側より市バス園田行きで猪名寺下車北へ300m   
 戻る








 
昭和61年11月
   49、武庫庄鎮守の杜
   焼き討ちにも残る鎮守の杜
…村の鎮守の神さまの 今日はめでたい…
今にも聞こえてきそうなのどかな情景です。
 阪急武庫之荘駅の北側に位置する武庫之荘本町は武庫庄と呼ばれていた荘園から名づけられた歴史のある地名です。この広場は武庫村民の鎮守の杜であると同時に戦国時代までは荘園の鎮守でもあった春日社の境内地です。樹齢数100年のむくの木が四方に枝をはりこんもりと。その下に鎌倉時代のものといわれている十三重塔(実際は七重塔)が、歴史の古さを物語る様にひっそりとたたずんでいます。近所の西村謙治さんにお話を伺いました。「この地は藤原時代に政所があったとつたえられていますが、今から160年程前、村全体が焼き打ちにあい、近隣との約束事、水利の事等、その頃の事記したものは何一つ残っていないのでわかりません」との事。西村さんの家は焼き討ちの後天保2年に建てられたもので、玄関には当時使われていた水樋・屋敷には槍、刀等歴史を語るものがありました。ちなみに秋祭りは10月15、16日です。
  (山神 一子)

【交通機関】阪急武庫之荘駅北側より市バス尾浜線乗車、武庫荘下車北へ100m。 
 戻る








昭和62年1月
    ご  が ずか
50、御願塚古墳
  開発に残る帆立貝古墳
 
猪名野の平地に水濠をめぐらして、うっそうと茂った木立の中に古墳があります。平面形が帆立貝に似ているところから帆立貝式古墳とよばれる古墳時代中期の御願塚古墳を訪ねました。ここは阪急伊丹線稲野駅の近く、家並の向うに緑の木立が見えてきます。橋を渡って石段を上ぼりつめると江戸時代に建てられた神社の前で狛犬さまが目をむいていらっしゃる。
木々は茂り小鳥がさえずながら飛びかう姿を目で追い、しばし都会の雑踏か解放されて、遠き古代に想いを馳せていると心なごむ気持ちになります。
かつて付近には掛塚・温塚・満塚・破塚と御願塚を含めて五つの塚をなした古墳が点在していましたが原野の開発と共につぎつぎとなくなり現在では御願塚唯一つ残っています。
 お年寄の参拝が多く、夏と秋のお祭りにはお神楽があり一層のにぎわいを見せます。近くには勝海舟の父小勝ゆかりの西光寺や須佐男神社があり、古い構えの民家もあってこのあたりはまだまだ田舎が残っています。 
(山神 一子)

【交通機関】阪急電鉄伊丹線稲野駅下車、西北200m

  随 想
 10月だというのに日中は汗ばむ程の陽気です。ここは地震の被害はなかった様です。
 階段を登ると木立の間から街が見えたのに8年もたつと木立が成長し、何も見えず、たださらさらと吹く風に、さえずる小鳥の声にボーとなってしまいました。 
(H7年・秋〕        戻る