1991年5月
  76、酒樽の菰造り
   日本全国やハワイまで出荷
 桜の花も終り、春の嵐が吹き荒れる午後、尼崎の地場産業の一つ、慶事には欠く事の出来ない酒樽の菰造りで知られる塚口本町にある矢野三蔵商店にお邪魔しました。ポンポンと小気味のよい大阪弁で、のれん百余年を語って下さった四代目社長はとても爽やかな方でした。
 尼崎は伊丹・西宮・灘等近くに酒造地帯があり、樽に番良い吉野杉も比較的近くに位置する等好条件に恵まれ、江戸時代の初め樽の回りにワラを巻いて保護したのが菰冠りの始まりで、神崎の渡しから江戸へたくさん出荷したそうです。
 良質のワラが取れる尼崎北部の農家で菰造りが盛んでしたが現在では同商店の他、2・3店で全国の9割近くの生産をしています。
又需要も年末年始の贈答用、慶事、選挙時期等と時と共に変ってきています。昔ながらの手造りで、後継者がだんだん少なくなっています。
 建物も昔の建築で昨年尼崎市の都市美形成とし指定されました。
ワラの香りが漂う作業場からハワイ・台湾等外国にも出荷されています。(山神 一子)

【交通】阪急塚口駅から東北300m

 震災のために母屋の屋根はかなりの被害があったのか、きれいにふきかえられていました。壁はたてにヒビわれて後遺症が残っていました。
(平成
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1991年7月
      こうの もろなお
   77、高 師直塚
    髭の渡し場で最後を遂げ
 梅雨の合い間の晴れた午後、伊丹と尼崎の界(伊丹市)西国街道ぞいにひっそりと建つ「師直塚」を訪ねました。
 かつては将軍足利尊氏の執事として権勢を誇った高師直は、南北朝の動乱で大将尊氏に見放され、「髭の渡し場」附近で待ち伏せしていた敵軍に殺されました。
 師直が殺きれた場所については、さだかではないのですが近所の村人によって供養のために現在とは違う場所に建てられたそうです。
 近所に住む中島さん(81)に面白いお話を伺いました。
 敵に討たれた師直達が息も絶えだえ逃げて来た所をお百姓さん達が刀ほしさに首を切ったとか。また、ある場所で師直塚を粗末に扱ったため、そのあたりは逼塞(ひっそく)してしまったとか・・・。やはり塚にはお正念が入っていたのではないかと中島さんは話してくれました。今は中島さん宅の一角で供養されています。

戦乱の世を生きぬき、はかない最後を遂げた悲劇の主人公師直の塚は交通の激しい171号線の道端で風雨にさらされ「無念なり」と哭いている様に見えました。
ちなみに今年の大河ドラマ「太乎記」に登場しています。 
(山神一子)

【交通】昆陽の里いづみや南、171号線の北側。

師直塚は震災の被害はなかったのですが、当時お話を伺った中島さんのお宅はすっかり変わってしまっていました。
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1991年9月
  78、船詰神社
  昔の海岸線に建つ交通神社
 時折小雨がぱらぱらと降り、木立で雨やどりをしているとせみがしゃんしゃんと鳴きはじめ、むし暑さも一段と増してくる真夏の昼下がり、東園田にある交通の神様「船詰神社」を訪ねました。
 建物は本殿が権現造りで創立年代は明らかではないが、当地は千余年前海岸線にほど近く、猪名川の河口に位置していました。当社はこの港に鎮祭された社で海上安全・船舶の守護神として奉斎されたと伝えられています。
 宮司(栃尾光一氏)の奥様は「昔はこの近くの港から京・大阪へいろんな船の出入りがあったんじゃないですか。昔はこのあたりは猪名川の堤防だったそうですよ」と話して下さいました。
      とりのいわ くすぶねのみこと
御祭神は「鳥之磐楠船命」とよばれており天照大神よりの使者に従って、大国主命の許へ行き、出雲の国譲りの大業を成し遂げられた神様として「古事記」に記されています。元来、海路交通の神であるところから交通安全の神様として祈とうを受ける人が多いそうです。
 とても広い境内をチャボの親子が5・6羽楽しそうに散歩しているのが滑稽でした。(山神一子)

【交通】阪急電鉄園田駅より北東約500m

 震災の被害はほとんどなく、10月17・18日のお祭りの準備に大わらわ。邪魔にならない様にチャボの親子が散歩していました。この親子四年前の取材の時の孫かも知れません。それだけ時は移り変わっているのですネ。
(平成7年秋)  戻るんが、道標に向って目を閉じて当時を偲んでみては如何が・・・。(山神一子)



1991年11月
   79、有馬街道
   湯治の旅人や近松も往来
 街の片すみにそっと建っている「道しるべ」を見た事はありませんか。車社会の現代の人々には、見当もつかない時代の標識だったんです。この道しるべを見ていると昔の人々の行きかう姿が浮かんできます。
 神崎村(神崎町)のはずれの中国街道と有馬街道の分岐点に建っている非常に立派な道標で、東面には地蔵尊像を浮き彫りしており「右、伊丹中山、左尼崎」と刻んであり市内では逸品だそうです。
 街道に面した通りで酒屋業を営んでいる近藤さんに伺ったところ「昔は、この近くに本陣があったので大名行列もよくあったと聞いている。また戦前は阪急バスが通っていて道がせまく、ほこりはたつし、迷惑だった」と話して下さいました。
 近くにもう一つダイセル工場の塀沿いに道標がありました。昔、京都・大阪方面から有馬温泉へ湯治に行く道筋を旅人達は「有馬街道」と呼んでいました。戸時代、近松門左衛門等多くの人々がこの街道を通って久々知の広済寺を訪れたと思われ、人々の往来で大変にぎわっていたと云われています。現在は思影はありませんが、道標に向って目を閉じて当時を偲んでみては如何が・・・。
(山神一子)

【交通】市バス西川下車、神崎浄水場を北へ
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1992年1月  す さの う
  80、戸ノ内素蓋鳴神社
   御神体救った鯉を食べない
       くらはしのしょう
 現在の戸ノ内が椋橋庄と呼ばれていた頃の伝説を耳にしたので訪ねてみました。
 いつの頃か、昔、大水にあって家もお宮さんも浸かりそうになった時、コイがたくさん寄ってきて神様を川向の庄本(豊中市)にお移ししたとか、また、やはり大水の時に御神体がコイの背中に乗って流れついたのでお奉りしたのが、現在の「戸ノ内素蓋鳴神社」であって、それ以来村の人たちは、コイを捕らえたり食べたりしないようになったそうです。村の人が他所で捕らえたり食べたりしても激しい腹痛をおこすし、他の土地から来た人でも村にいる間は、食べないように注意するほどでした。
「戸ノ内では今でもこだわりをもっている年輩の人は、料理屋でコイを出さたら気にしながら食べると話してくださった上田さんのお宅は旧家で、玄関を入ると天井から大きな心太鼓がぶら下がっており、壁には旧猪名川を汚さな"定め"の触書がありました。
 ご主人曰く「コイの伝説だけではどうしようもないが、何とかして村おこしをして文化を残していかなければ!」と、情熱を燃やしおられました。(山神 一子)

 【交通機関】阪急園田駅より市バス戸ノ内2丁目下車

地震で鳥居が倒れているという話を聞いて、相当被害があったのかと訪ねましたが、鳥居はちゃんと立っていました。手洗いの所が全壊していました。
 境内の木の枝を切ったのでバチが当たって大地震になったと近所の人が言てたそうです。冷たい風のなか、珍しい輪くぐりが目に映えていました。
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