1993年1月
86、西川八幡神社
  湯治客が参る厄除けの神様
 12月も半ばだというのにとても暖かい昼下がり、潮江診療所近くにある「西川八幡神社」に行きました。こじんまりと整ったお宮が建つ八幡神社は、大陸文化を採り入れ、我国の発展に大きな功績を残された神様で、文化神として、又厄除の神様として多角的なご神徳をもっておられるそうです。
 創立年次は不詳ですが境内に1684年善兵衛奉寄進、手水鉢と又社殿内には1672年大阪五兵衛奉寄進御幣が奉納されており、それ以前の鎮座であると思われます。
 平安の昔、神崎の浜は京への宿場として繁栄しました。神崎の渡し、本陣も近くにあり、又有馬街道の間道にも近く有馬に湯治に行く人たちが行き帰りの道すがら立寄ったように思われます。とにかくたくさんの参拝者があったと伝えられています。
 又神社の西北角に「尼崎藩界碑」が建っています。この碑は尼崎に2基ある中の1基で「従是東尼崎」と刻まれています。これと同じものが武庫川の近くの岡太神社(西宮)の境内にもありました。(山神一子)

【交通】JR尼崎より市バス西川又は神崎橋下車3分
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1993年3月
87、旧塩田邸
  昔の庄屋の風格を残す豪邸
 2月に入って三寒四温の温かい昼下がり、尼崎信用金庫の富松寮地所内にある旧家を訪ねました。阪急武庫之荘駅より500mほど北東、近くに富松神杜があり旧家もありますが、寮の廻りはほとんど近代的な家が建ち並ぶなかでも昔の町並みが残っている閑静な所です。
 以前は塩田半兵衛さんの家で庄屋さんでした。桧の一枚板の門を開くと1千坪の敷地には右手に広い庭園があり、正面に玄関のある二階家屋が建っています。
 かつては池に鯉が泳ぎ、枝ぶりの良い松があり、雪でも降れば、それは見事な庭だったといいます。
 昭和35年頃、尼崎信用金庫の寮として購入し、一階は土間を板張りにして太い梁の見える大広間は剣道場として寮生の娯楽の場となり、また職員の研修会等の場として使用、二階は寮としていましたが、建物の老朽化に伴い隣の土地に鉄筋の寮を建て現在では使用していないため、手人れが行き届かずそのままになっています。8年ほど前までは、市内の旧蹟めぐりの一つとして大勢の人が立ち寄ったそうです。管財課の話によれば次の計画を考えているとのこと。無くなる前に一度散策の道すがら如何・・・。
     (山神一子)

【交通】市バス富松北口南

 一時は旧蹟めぐりのコースとしてにぎわった旧塩田邸も1月の大地震で木造の立派なお屋敷の屋根が落ち、お蔵もつぶれ、近所迷惑になるので全部とり壊され、更地になつてしまいました。美しい庭園も荒れはて、ここでも地震の強烈さを感じさせられました。尼信管財課のお話では現在の所、今後の計画は考えてないそうです。(平成7年秋) 戻る


 

1993年5月
88、はかり資料館  
      はかり

 江戸時代の秤など千点展示
 春とは名のみの4月中頃.西長洲八幡神社南の「はかり資料館」を訪ねました。
 平成元年オープンした資料館には、江戸時代から明治・大正・昭和と歴史を物語る秤たちが所狭しと展示されています。元禄時代、主に砂金等を量ったわずか20pほどのさお秤や、両替商で貴金属や宝石を量った針口天秤、また、数百年前にインドで使われたビスマーと呼ばれるさお秤等、古い物、新しい物と1000点ほど展示されています。
 ご主人の山下喜吉さん(64)は、戦時中、海軍で人間魚雷を手がけた経験もあり、戦争が終わって職を探している時、人募集の一枚の貼り紙ではかり屋に弟子入りしたのが昭和24年、それから秤一筋に現在があるそうです。古い物を捨てることに憤りを感じるとおっしゃる山下さん、日本でも数少ない秤の権威者です。 NHKの「琉球の風」のなかで医者が使っていた秤は明治時代のものだったと指摘されました。テレビ、新聞に何回も紹介されて一躍有名人、と同時に医療生協の組合員でもあります。資料館見学は電話(481−4447)をして、ぜひ一度ご覧になってはいかがでしょう。     (山神一子)

【交通機関】尼崎市バス西長洲下車、
      八幡神社南

 随 想
 この度の地震でかなりの被害があったのではないかと心配して訪ねますと、幸いな事に余り被害はないとの事で安心しました。若干、こわれたものもありましたがたいした事もなく、資料的なものは形が整っていれば良いし、値うちのあるものはこわれなかったそうです。まずまずは良かったですネ。(平成81)
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1993年7月

    じょうこうじ
 89、浄光寺
  弘法大師が創建戦乱で焼失
 どしゃぶりの雨もあがり夏を思わせる日差しにまぶしく映ったあじさいの花。
今回は、常光寺3丁目にある浄光寺を訪ねました。
 現在、浄光寺は真言宗総本山善通寺派の末寺で、天長六年(828年)弘法大師が創建されたもので、七堂伽藍を備えた大きなお寺でした。御本尊は観世音菩薩(約六糎)です。
 昔、昆陽にいた釈恵満という僧が海辺でピカッと光る観音様を見つけ、小さなおやしろを造って大切におまつりしました。やがて釈恵満が亡くなった後、弘法大師が諸国巡歴の途中この地に立ち寄り、立派なお寺を建立され浄光寺と名づけられました。そのことが近在に響きわたり、浄財をつのり、いっそう立派なお寺となり、近所の人々の精神修養の道場となりました。
しかし天正七年、伊丹の城主荒木村重が織田信長に謀叛を起こし敗れて、落城のとき寺は焼失してしまいました。その後寺は再建されました。豊臣秀吉の時代に寺名がそのまま村名になりました。
 桃山時代に描かれた「浄光寺縁起図」は尼崎市文化財に指定されており、博物館に寄贈されるとか住職さんにお聞きしました。
 
(山神一子)

【交通】市バス常光寺下車  戻る

1993年9月
90、杭瀬熊野神社
  楠の繁みに安産、子安の池
 台風一過、前日までよく降っていた雨も上がり、8月になって久し振りの夏らしいお天気に、せみもシャンシャンと鳴き始めました。
 阪神杭瀬駅のにぎやかな所から北へすぐ、国道2号線に面して杭瀬熊野神社が建っています。
 都会の雑踏の中に建っているにもかかわらず、鳥居を一歩踏み入れば、境内には樹齢千年という楠の大木がうっそうと繁っていて、まるで別天地です。
 御本殿は、元和年間(17世紀)に造営されて、素盛鳴命・応神天皇等がお祭神として鎮座しています。
また、境内右手に「子安の池」という池があります。

 その昔、池を掘っていたところ、石の地蔵さまが現れたので池のほとりにお祭りしました。いつの頃からか、妊婦がこの池の水を飲めば安産するという言い伝えがあり、池の中央に神功皇后をお祭りしています。現在では水は全然ありません。
 4年に一度、例大祭日に盛大な稚児行列が行われるそうです。神社の向かいに大きな公園があり、お年寄りたちの憩いのひと時になっていました。(山神一子)

〔交通機関〕阪神杭瀬下車、北へすぐ。
      阪神バス北杭瀬東へ2、3分

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