1992年3月
    びゃくい かんのんじ
81、白衣観音寺
  伊丹城主跡取りの妻が自害
 武庫之荘7丁目に遺跡が発掘されたという報道を聞き訪ねましたが、捜しても捜しても見つからず、近くの中学校へとび込み聞いたところ、もう工事がはじまっているとの事。とにかく現場に行ってみると何と鉄骨がニョキニョキ、マンションの基礎工事にかかっていました。実際には見られませんでしたが、「南戸板遺跡」という集落の支配者クラスの人を埋葬したとみられる弥生時代中期のお墓
(方形周溝墓)の一部と土器片など約千点が発見されました。尼崎市内では田能遺跡に次いで7例目です。
 遺跡の場所より北へ200m程歩いた所に真言宗のお寺「白衣観音寺」があります。本尊は、とてもやさしい顔だちの観音様です。本尊の胎内仏は、5・5pの小さいもので開祖弘法大師の姿に似ていて、これを見た者は一夜にして死ぬと伝えられ、秘仏となっていて公開してもらえません。
 このお寺は、行基が草創した昆陽寺塔中の一院にして十六坊の一つと伝えられた古刹であります。史実は定かではないが、天正7年伊丹城落城の時城主の息子の荒木村次の妻がここで自害したとの悲話も残っています。(山神 一子)

【交通】阪急庫之荘駅より市バス友行下車北東100m

お寺の周りは、まだまだ田んぼや畑がありのどかな田園風景が見られたのですが、1月の大地震で変わってしまいました。ここ白衣の観音寺も表門だけ残り本堂他つぶれてしまいました。お寺さんの話によると「一時はどうなるかと思いましたが、檀家の支えで目途がたち工事にかかりました。来春には完成予定です」と少しは明るい表情。観音像は無事でした。
現在、お寺の中はいろんな機械が入り工事中です。一日も早く完成を!。(平成7年秋)  戻る


1992年5月

82、五兵衛さんの墓
  田つぶしに反対し打ち首に
 4月とはいうものの初夏を思わせる様な好天気の昼下がり、武庫庄(武庫之荘5)の“五兵衛さん”のお墓を訪ねました。
 昔、殿様が田んぼを池にすると言いました。すると武庫圧の五兵衛さんは「田んぼをつぶしたら米が作れんようになる」と言って反対しました。殿様のすることに反対したので、五兵衛さんは首を切られることになって、庄屋の門のところに連れてこられました。そこへ遠くから殿様の早馬がかけてきて「その首をはねるのを待て」と言ったのが遠かったため「その首早くはねよ」と聞き違え、五兵衛さんは首を切られてしまったのです。誤りがわかり村中の人が悲しんで、池を作ることになっていた田の真中にお墓を建て、命日には仕事を休んで村中で供養しました。
 さて現在は住宅の建ち並ぶ奥まった所にひっそりと“南無阿弥陀仏”の石碑が建っています。偶然にも三反田の延光寺住職さんがお参りに来られ「子孫の方がこの近くに住んで居られて檀家ですので月に一度はお参りに来てます。過去帳もありますよ」とおっしゃってました。土地の人は「首塚」さんと呼んでいます。
 参考資料・尼崎の伝説  (山神一子)

【交通】市バス武庫之荘4丁目北へ信号東、平田  戻る


1992年7月
   83、大関琴の浦
     明治時代の尼崎出身名力士
 妙法本照院琴浦日熊信士、姓は伊東、名は熊治郎。文久3年尼崎に生まる・・・。
寺町本興寺にある高さ3mもある墓碑で裏面には、大関の生涯が刻まれています。
 江戸の終わり、尼崎は中在家の蒲鉾屋さんに誕生。生まれたときから大きかった熊やん(愛称)は、グングン成長し、あるとき貴布禰神社の祭りで山車をひき、みりんを振る舞われ、一升飲み干しても酔った気配もなかったそうです。
 21歳のとき、大阪相撲の猪名川部屋に入門。シコ名を何回も変えた後琴ノ浦に。ふるさとの誇りを抱いて土俵にかけ、38歳で大関に昇進しました。
 大阪相撲は元禄15年に始まり、全国にあった力士団は大阪めざしてやって来、やがて江戸に中心が移りましたが、大阪相撲は大正末頃まで続きました。
 尼崎中央商店街にある蒲鉾の老舗「桝千」の娘さんにお話を聞きました。「おばあさんのひいきぶりは並のものではなかったらしい。昔は電気がなかったのでおすもうさんが石うすで魚の身を練っていたそうね。カ持ちだから・・・。琴ノ浦も手伝う替りにご飯を食べさせてもらっていたそうよ」琴ノ浦が活躍した時代は遠くになってしまいました。  (山神一子)

【交通】阪紳尼崎駅より南東三百メートル本興寺内

  随 想
 本興寺はかなりの地震の被害を受けたのに開山堂のうしろにある大関・琴ノ浦の墓碑は、堂々と立っています。一際目だっ大きな墓碑は、天下に名をとどろかした事を物語っています。お墓は本堂左奥の墓地にあります。
(平成7年秋)戻る


1992年9月
       いわながひめ
   84、磐長姫神社
             このはなのさくやひめ
    美しい木ノ花開耶姫が妹
 真夏のうだるような暑さの昼下がり、武庫之荘にある磐長姫神杜を訪ねました。
 あたりは旧村のおもかげの残る閑静な住宅街の一角に建っています。玉垣などはまだ新しいのですが、境内にはかなりの年代を経た樹木があり、折しもせみの鳴き声に暑さもひとしおでした。                    おおやまつみ
古事記、日本書記などに書かれている山ノ神大山舐の長女、磐長姫命を御祭神として祀っています。
 磐長姫には、妹姫の木ノ花開耶姫がおられ、この姫はとても美
        みこと
しく皇孫ににぎの尊
(天照大神の孫)の妃として三人の尊を生みました。花木の神とも言われました。それにひきかえ姉の磐長姫は
        ばんじゃく
、みにくい容姿で磐石の神と言われました。姉妹はとても仲が悪かったようです。

 昨年、尼崎市で磐長姫を主人公にしたシナリオが舞台化され、人気を呼びました。しかしこの物語がこの神社と関係あるかどうかは定かではありませんが、磐石の神と言われた通り、この神社には長寿・延命と家運長久を祈る人々が訪れるようです。
 
(山神一子)

参考 神皇正統記 神道大辞典

(交通)阪急武庫之荘駅 南側線路沿い西へ踏み切り北へ
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1992年11月
   85、伊丹・有岡城
    石牢に秀吉参謀黒田官兵衛幽閉
 10月半ば、秋も深まりゆくある昼下がり、尼崎より少しはずれますが、伊丹の有岡城跡を訪ねてみました。
 昭和50年よりの発掘調査でわかったのですが、出土した石垣にはたくさんの供養塔石が組み込まれていて、これは石牢の一部ではないかと推定されました。
 この石牢の中には、豊臣秀吉の参謀格であった黒田官兵衛が一年もの間幽閉されていました。それはなぜか? 天正6年(1578)秋、伊丹有岡城主荒木村重は織田信長に対し謀叛を起こし、そのとき黒田官兵衛が有岡城に説得に出向いたが捕らえられて、うす暗い石牢に幽閉されました。約一年後、伊丹有岡城は信長勢の攻撃を受けて、強固な城もついに落城。この直前に官兵衛は救出されましたが、長い間牢に座ったままだったので足が弱くなって歩けず、しばらく有馬で湯治しましたが、生涯足は不自由になってしまいました。
 ちょうど今、テレビで「信長」を放映していますが、村重が謀叛を起こしたところで興味深いものがあります。伊丹有岡城跡の廻りは、駅前再開発ですっか
り整備されていますが、つわものどもの夢の跡がちょっぴりうかがわれました。(山神一子)

【交通】JR伊丹駅前

  随 想
 伊丹も、震災で阪急伊丹駅が全壊するなど大きな被害を受けました。全・半壊は2万戸にのぼり、仮設住宅が1千戸建てられています。数々の歴史をもつ伊丹市の復興を願わずにはいられません。
 JR伊丹駅の有岡城跡から西へ抜けると、白雪の酒造や柿衛文庫館、美術工芸センターが見どころでしよう。(平成7年秋)
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