1990年7月

  71、貴布禰神社
   船だんじりと不思議な燈籠
 梅雨に入っても雨は少しも降らず、まるで真夏のような日差しのある午後、貴布禰神社を訪ねました。
 昨年50年ぶりに復元された「船だんじり」について。眠っていた「船だんじり」は、当時元気な若者達(現在70歳代のお年寄)の間でぜひもう一度再現して勇壮な船だんじりを見たい、乗りたいという強い要望のもとに復活されたそうです。
 船の上に舞台をのせ庄下川に浮かべ、笛や太鼓、踊りで大にぎわいでした。五十年ぶりの復元によって「船だんじり」の技術保存が出来たのではないでしょうか。
今年はまだ未定ですが、せっかく復活したのですから実現してほしいですね。
 この神社の話題をもう一つ。客殿の中庭にひっそりと立つキリシタン灯ろうは、高さ1.2m江戸初期のもので土に埋めた軸石の部分に人か鳥のような物が彫込まれていて灯ろう全体が十字架に見えます。
 尼崎でも信者には残酷な迫害が加えられたらしいので、お宮に参拝のふりをして灯ろうをおがんだのではないかと考えられます。
 一度見ては如何ですか!
なお、お祭は8月1、2日です。 (山神 一子)

【交通】阪神電車出屋敷駅から東南300m

 先代宮司の江田政稔氏が二年前に亡くなられ、長男の政亮氏が継いでおられます。
先代が始められた貴布爾寄席は今年1月で丸8年になり、「昔は神社で芝居や見せ物が催され文化の中心」(先代宮司)と言われたように地域に溶け込んでいます。
 尼崎市内の地域寄席はこのほか、でやしき寄席、ポエム寄席、藻川寄席(近松会館)立花亭落語会(立花福祉会館)尼崎落語研究会(総合文化センター)などが定期的におこなわれています。 写真はキリシタン燈ろう。戻る


          

1990年9月
      
おお もの ぬし
   72、大物主神社
   源義経の盛衰しのぶ大物浦
夏祭りたけなわの8月はじめ、謡曲や歌舞伎でおなじみの大物浦を訪ねました。
 阪神大物駅の東側は昔、神崎川の河口にあたり大物浜といわれる浜辺でした。神崎川は淀川に通じ、京都まで船が通っていたため大物浦は四国、九州とを結ぶ瀬戸内海航路の港として、鎌倉時代海産物や木材の集積地として栄え、船宿が軒を並べる等活気ある町だったそうです。
 壇ノ浦の戦で大勝利をした源義経が瀬戸内沿いに大物に到着、京に凱旋したが半年後都落ちして再びここ大物浜から逃亡の旅に出た義経一行の悲劇のお話は現在に語りつがれています。義経、弁摩が追手を逃れ隠れ住んだとう「隠家」、静御前が化粧のため使った井戸等今は何も残ってないけどあったそうです。
 大物主神社近くの綿中万吉さん(85才)を訪ねていろいろ伺いました。この辺では奇跡的に戦火を免がれた格子のある古い構えのお家で、昔御用飛脚をしていたそうです。
上品で感じの良い綿中さんは、戦前の大物町の民家、しょう油蔵、伝説ゆかりの地、史跡等を印した地図を再現するため昔の記憶を頼りにコツコツと歩き、完成間近の地図を見せて項きました。尼崎市にとっても貴重な資料になるのではないでしょうか。
(山神 一子)
【交通】阪神電鉄大物駅から南へ200m
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1990年11月
 73、神崎渡し場跡
  灘の酒や三田米を船で出荷
 文学の世界に登場する神崎橋周辺を散策しました。
「太平記」に出てくる神崎橋は、合戦があるたびに破壊されたこの橋の哀しい運命を物語り、かっては楠木正成も渡り、この橋が戦局を左右した事もあったと記されています。また700年ほど昔には、神崎の関として舟の渡し場があり、人や荷物の往来が盛んになり、自然に集落が出来、商売や宿場町が出来ました。
 この地で先祖が宿屋をしていたという高田さん(69)にお話を伺いました。
「昔はこのあたりは米屋、酒屋が多かった。灘の酒や伊丹の酒、三田米等をこの渡し場から京都、大阪方面に出荷してたんや。家の先祖も宿屋してましてなア。」と神崎渡し場跡の名残りの石灯籠の下の方を指さして教えてくれました。そこには当時の商売人の屋号や名前が刻まれていました。風化されて消えかかった河内屋という文字がかすかに見えました。当時はかなりの賑わいを見せていたと思われる本陣跡や有馬・中国街道筋の町並みも少し残っているだけで今では当時の思影も時代と共にうすれ、ただ神崎川だけは今日も静かに流れているという感じでした。(山神 一子)

【交通】市バス神崎バス停下車、北へ50m

  随 想
 神崎川は今日も静かに流れています。このあたりは、余り地震の被害はなかった様です。石燈ろうもちゃんと立っていました。又有馬街道筋にあった住宅は、ところどころなくなって駐車場になっていました。地震のせいでしょうか。
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1991年1月
 74、西武庫公園の池
   浜田川へ流れ魚が群泳
水と人間は切っても切れない関係にあると、よく言われます。今回は西武庫公園と浜田川を探訪しました。西武庫公園は武庫川に沿う住宅団地の一角にあり、一部は武庫川河川敷緑地に隣接する交通公園と四季を通じて采とりどりの花が咲く分区園からなるユニークな都市公園です。その中の一角、昔は西武庫地域の水源地であり、近くの農家の菜葉を洗う池でもあったそうです。武庫元町に住む大城眞徳(80)さんの話によれば、回りはいも畑といちご畑で夏になると亀やカエルがたくさん出てきたそうです。現在は伏流水を利用したしょうぶ池になって大きな鯉がゆうゆうと泳いでいます。今では家族連れの行楽の場になっていますが昔は生活と切り離せない源だったのです。
 また、この水は農業用水として水路は枝分かれしながら浜田川へも流れこんできます。
浜田川公園の北側にある浜田樋門は赤いアーチ型の姿を水面に写して仲々な景観です。修景整備も終って川にはいろんな魚が帰ってきました。近所の人がえさをやり、往きかう人々の心なごむ川になりました。 (山神 一子) 

【交通】市バス武庫営業所行西武庫公園前下車

公園そのものは地震の影響は余りなかったようです。しかし172号線の甲武橋や堤防の道路は、一時通行制限されるほど傷みました。池のコイやカメたちも驚いたでしょうね。
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1991年3月
  75、時友神社
   行基が関係裏に友行神社
 寒風吹きすさび、時折り小雪が舞うとても寒い午後武庫之荘は常吉の近くにある「通りぬけの神社」を訪ねました。近所の人の話によれば・・・。昔は時友神社と友行神社は同じ境内の中にあって通りぬけが出来ていたそうです。友行神社の方が古いのですが、余り神社にお参りがないため、だんだんさびれ今では境内に県住や住宅が建ち並び狭くなった上にお参りもないそうです。それにひきかえ時友神社は僧行基に関係する神社でお参りも多くどんどん栄えて現在では中央に道路が出来、背中合わせの神社になってしまいました。お正月、お祭りにはたくさんの人でにぎわうそうです。
 また伊丹の産業道路、かつての西国街道のそばに朱ぬりの美しい楼門のある「行基寺」こと、こんりん山昆陽寺まで足をのばしました。

 この寺も壇家寺ではないため、経済的に成り立たずさびれる一方で昔は阪急塚口駅(現在)付近に一の門があったそうで想像もつかない程の広大なものだったそうです。境内の裏には四国八十八寺のミニチュア版があります。春になって暖かくなったらここで巡礼をしてみては如何ですか。〔山神 一子〕

【交通】市バス尼宝線時友下車、新幹線南側を東へ200m

 震災で新幹線の高架橋が落下し横の時友神社は、木造本殿は無事でしたが、燈ろうには倒れたキズ跡がついていました。
 しかし、南隣りの友行・須佐男神社は大鳥居が倒壊し、立派なものが再建されていました。神杜わきの切られた楠が、幹横から成長する姿に、何か強く心を打たれました。
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