昭和63年11月
   61、上ノ島遺跡
    田能遺跡より以前の集落
    いかるが
 奈良県斑鳩町の藤ノ木吉
墳は謎の解明で話題をよんでいます。そこで今回はだ紹介されていない遺跡めぐりをしました。 上ノ島遺跡は立花中学校校庭北西一帯が遺跡で今から約2200年前の弥生時代初期に人々が住みついた集落です。海抜3mの低地にあり、まわりは低湿地帯でおそらく稲作に適した土地であったため近畿地方でも最も早くから人々が住みついたわけです。 土器・木器をはじめ稲の穂先を刈る石包丁等が発掘され、農耕文化もかなり進んでいた様です。しかし浜水や高潮等自然の災害で壊滅的な被害を受けて人々はこの地をすてさり庄下川上流等に移動し、その後、上ノ島の地には再び生活の場として復活する事はなかったそうです。だから上ノ島遺跡は弥生時代初期の遺物のみを出土する遺跡として貴重な存在です。出土品は、立花小学校校庭の一角にある文化財収蔵庫に展示されています。
 他に縄文晩期から弥生時代の遺跡として猪名川々床遺跡・藻川々床遺跡を探しましたが、どちらも川の中で現在では標識もなく推測するのみでした。(山神 一子)

【交通機関】市バス立花三3丁目または裁判所前下車、
      立花中学校の北西すみ

   随 想
 上ノ島地区も大きな震災を被りました。
立花行政区の全・半壊家屋は8800戸と市内最大でし
た。街のあちこちに空地
が目立っています。写真は文化
財収蔵庫
に展示されている農耕風景です。
(平成7
年秋)  戻る
昭和64年1月
   62、濟寺
   愛に生きる人間を描いた文豪近松
“東洋のシェークスピア”といわれる江戸時代の文豪、近松門左衛門の墓所廣濟寺を訪ねました。
 廣濟寺のある久々知一帯は新しい住宅が建ち並ぶ中に古い民家や寺社、田畑があちこちにあり、昔の雰囲気を感じさせる尼崎では数少ない町並の一つです。
 近松と廣濟寺との関わりは、荒廃していた禅寺を昌上人が法華道場として再建された時、建立本願人の一人として貢献し、現在の廣濟寺となったのです。
 歌舞伎役者を連れて参拝したり、本堂裏の小部屋に泊まって浄瑠璃の台本を書いたといわれています。
 73歳で亡くなった近松は、寺の境内の一角に葬られ、樹齢260年のモチの木に見守られて小さな墓石がひっそりと建っています。
 廣済寺の東隣、財団法人近松記念館には近松の遺品約60点が展示され、二階は舞台付のホールがあり、近松の作品の上演や講演会等に利用されているそうです。遺品は、近松愛用の黒漆塗りの文机や過去帳、浄瑠璃本の版木等で、また中村扇雀や千代の富士等各界有名人の色紙も展示されています。この記念館の管理をされている松木さんが立て板に水の如くの解説をして下さり、しばし近松の世界に没頭したひとときでした。
 記念館の北側には、池を中心に回遊式につくられた庭園のあるすばらしい公園があります。正面入口には羽織りはかま姿であぐらをかき、右手に扇子、左手に台本をもった近松の銅像が鎮座しています。
 愛に生きんとして死への道を急ぐ哀しい人間、いわゆる心中物をひたすら書き統けた近松門左衛門。昭和61年に市制70周年を迎えた尼崎市は、文化都市尼崎のイメージチェンジをねらって「近松大フィーバー」をまき起こしました。廣濟寺周辺は“近松の里として整備され、9年前の夏、取材に来た時とはすっかり変わり、時の流れを強く感じました。
 毎年11月には記念行がた<さん行われます。
(山神一子)

交通機関】市バス近松公園前下車、西へ200m     戻る

1989年3月
    63、琴浦神社
    毒蛇を防ぐ伝わる白砂
 2月半ばにしてはとても暖かい陽気の昼下り、阪神電車センタープール近くにある琴浦神社を訪ねました。   
 この神社には、嵯峨天皇
の第12番目の皇子、左大臣源
とむる
融公が祀られています。

伝説によれば寛平年間(889-898)京都六条浦川原の院(融の邸宅)にて日々浪華の浦より潮20石を汲ませられ、奥州塩釜の風景を真以て庭園をつくり塩を焼いて遊び楽しまれました。融公亡くなられた時、この地にご縁があると比処にお祀りし、神名を琴浦大明神と敬い奉りました。また境内の白砂は毒蛇にかまれないと言い伝えられ遠くより遥々載きに参詣する人があるとか聞いています。
 近くに松内町、千島町と呼ぶ町名が並び、この神のある所だけが小高くなっており、海岸の景色が他所より勝れているので“異浦”とも呼ばれていました。
 またこの神社より西へ細い道を歩くと子安地蔵尊があります。ここは市内でも唯一のお社のあるめずらしいお地蔵様です。くわしい事は9月号にて紹介します。
ちなみに昔海であった潮江地区にも潮汲の伝承があるそうです。
  
(山神 一子)

【交通】市バス琴浦神社前      戻る


1989年5月
   64、農業公園
    全国でも有数の花の公園
 桜も散って、春うららというより初夏のようなお天気に恵まれた4月半ばの午後、田能遺跡の近く、猪名川沿いにある「農業公園」を訪ねました。
 市民の憩いの場として四季折々の美しさが楽しめる全国でも有数の花の公園で、広さ約18000平方mもあります。ちなみに園内には4月は桜、4月半ばから5月にかけて約7300本の牡丹が咲き、6月には2500株の花菖蒲が色とりどりの花を咲かせます。また5月から7月と10月から11月には約4000本のバラが開き、あたりは良い香りに包まれることでしょう。また数百本の若竹が生えている竹薮に立って心地良い風に吹かれて、竹のざわめきを聞いていると身心共に洗われる様な気がします。
 その他、園内には約250年程前の夏、水害で亡くなった多くの人達のための供養塔や、猪名川と藻川とが流れているこの辺りの人々は、水の苦労が絶えなかった様で、用水をめぐって水争いをした「田能村大和守」の記念碑等があります。
 ちょうど牡丹の花がちらほら咲き始めた頃で、猪名川一帯ののどかな田園風景を満喫してきました。
(山神 一子)

【交通機関】市バス「田能口」下車、北へ徒歩15分。

   随 想
 天高く雲ひとつない青空、バラが咲きはじめたごろから公園内には、午後の一刻を過ごす子ども連れ、仕事の合間の休憩をしている人、読書にふける人、それれの情景がみられした。 
何も言わない花たちも大地震はこわかったかな・・・。
 (平成7年秋)   戻る


1989年7月
   65、甘露寺
   寺町の地蔵さんをたずねて
 町並や、家の軒先に何気
なく祀られているお地蔵さんにひかれて、寺町周辺を探訪しました。
 あのまるくて柔和な顔をしたお地蔵さんは、実はお釈迦様の生まれ変りだったのです。
 お釈加様の没後、弥勤菩薩が出現するまでの間56億7千万年(現在はその中のほんの一瞬でしかない)、その間は無仏の時代で、様の代りに人々を救済するためにお地蔵さんが存在ているのです。これは寺町、甘露寺のご住職にお聞きたものです。また甘露寺では、めずらしいお地蔵さんが祀られています。
 一般には左手に宝珠、右手に錫丈を持ち、頭を丸た僧形の像で親しまれているのですが、ここには、お釈迦様の位牌を抱いた姿、また耳に手をあてて考え事をしている姿のお地蔵さん、これらは人々を救済するにはどうしたら良いか考えているお姿だそうです。
 寺町には他に善通寺「首なし地蔵」は有名ですね。
開明町にある「北向地蔵」は、皆んながいやがる北向の方角の人々を救うお地蔵さん。町の辻々に祀られているのは子供達を交通事故から守るため、といろいろなお姿で私達を見守ってくれてます。 (山神 一子)

【交通】阪神電車尼崎駅より南西300m
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