昭和63年1月
            えびす
   56、尼崎戎神社
     日本で三番目の大鳥居
 
 「商売繁盛で笹もってこい」でおなじみえべっさん。

尼崎戎神社鎮座のあたりを“琴の浦といいます。
  ここは殊の外の
      よき浦なり

 これは菅原道真公が太宰
府に左遷される途中、余りの絶景に感嘆されたものでこの地を「琴の浦」と呼ばれる様になったそうです。その昔43号線が出来る前までは、海岸の近くに鎮座し、「海幸大社」「戎の宮」と呼ばれ大漁と海上安全の神様でありましたが近代になってからはむしろ商売繁盛の「福の神」として多くの人々に親しまれています。
 天にそびえ立つ巨大な大鳥居は日本で三番目に大きいものだそうです。昭和34年皇太子御成婚記念事業として、高さ18m、笠木24m、柱直径2mという朱塗の大鳥居が社前の空に高々と建立され鳥居に揚げる額面は畳三畳分の大きさでその壮厳なる雄姿はまさに尼崎のシンボルではないでしょうか。
 1月9・10・11日の3日間は約25万人の参詣者で賑わうそうです。宮司さんはとても気さくな方で「もっともっと宣伝してほしい」とおっしゃっていました。 (山神 一子)

【交通機関】阪神尼崎下車西へ徒歩5分

さすが日本で三番目の大鳥居だけあって地震にはびくともしないでふんばつています。お百度石が根元から折れ、セメントで修復し各所にヒビ割れが生じています。被害にもめげず、今年の正月はにぎわいを見せていました。(平成8) 戻る



昭和63年3月
  57、西難波熊野神社
    いろいろな梅が咲きそろう

  梅一輪一輪ほどのあたたかさ
 今年の冬はことの外暖く、難波の梅もいつも
の年からから比べると2週間程早く咲いています。 難波熊野神社は旧村のなかにお寺と隣り合せて建っています。夫婦梅、蝋梅摩耶紅梅等100本近くの梅の木が植えられており、なかでも紅玉枝垂梅は、枝が柳の様にしだれてピンクのつぼみをたくさんつけていました。

 難波津に咲くやこの花
   冬籠り、今を春べと
        咲くやこの花

 応神天皇、仁徳天皇の御代に度々行幸されたとき御歌を詠まれた時の一句です。
当時より梅の名所として知られていた神社も戦争で爆弾が落ち、ジェーン台風でお社が風でとんでしまったと近所の方が話していました。3月第2日曜日には、「梅まつり」が行なわれ、境内でお茶席なども開かれて一日中賑わうそうです。
 国道2号線より南に足をのばせば蓬川の梅林があります。ここも百本近くの紅梅、自梅が競って花を咲かせます。梅が終り桜の頃になるとそれはみごとな桜並木が見られます。お花見にどうぞ・・・。
(山神 一子)

【交通機関】市バス 産業高校前下車、
      南西へ2、3分。

 震災で手水用建物が全壊し、建替えられています。本殿は大屋根ふきかえ、入り口の燈ろうも全壊で新しく、鳥居はセメントで固められています。神杜全体かたり被害がありました。その中でけなげに咲いている一輪の白梅を見て心なごむ気持ちになりました。(平成 8)  戻る


昭和63年5月
  58、上坂部西公園
    花咲きみだれる緑化植物園
 
 桜並木が短い春をおう歌
したあと葉桜となり、公園の縁も一段と濃さを増し、コンクリート砂漠の都市の中にいても、萌え出る緑が私たちの心をなごませてくれます。市街化が進むにつれて潤いと快適な環境づくりに緑化運動は盛んになってきています。都市緑化植物園として、緑の相談所・温室・花壇等のある上坂部西公園を訪ねました。少し風が冷たい午後でしたが子ども通れやお年寄りが散歩している姿が見られました。最近、新しく水のあるまちづくりの一つとして、子ども達が遊べる池や流れ、芝生の広場もつくられ、花壇にはパンジー、チューリップが咲きほこり、サボテン、熱帯植物の温室に入るとまるでテキサスの荒野に迷い込んだ様な錯覚におちいります。
また、緑化と共に街の景観も重視されている今、修景整備を終えたピッコロ通りを紹介します。南塚口町ピッコロシアターへの東西道路でアーチ型の照明灯を設置、歩道の一部にパイプのベンチが持かれ、座ると「どんぐりころころ」が流れ、夜になると足元が光り、ちょっとした憩いの場所になっています。
 
(山神 一子)

交通機関】阪急塚口駅より東南500m

  思い出
 あれから8年、ピツコロ通りの歌が流れるベンチは、座ると、今でもかわいい童謡が流れているのでしょうか。又一緒にベンチに座って話をしてくれた子ども達は、高校生かな、大学生かな!  
(平成7
年秋)    戻る


昭和63年7月
59、寺町・本興寺
   こんこんと湧き出る御霊水

 本興寺は、応永27年(1420年)日隆上人によって開山され北城内にありましたが、尼崎城築城の折、現在地に移転、市内では最大規模のお寺です。
 方丈(客殿)には襖絵や壁画が、開山堂は室町時代のすぐれた建築、三光堂は装飾的要素が豊富な桃山時代の建築、日隆上人坐像等いずれも国指定の重要文化財がたくさんあります。
 法華宗大本山である本興寺には、僧侶を養成するための学校「興隆学林」専門学校があります。朝6時のお勤めに始まり、夜9時の点呼までびっしり。仏の道をめぎして厳しい修行に励んでいます。
日隆上人開山の時に自ら掘られたと伝わる御霊水、こんこんと湧き出る水は良質で、大正5年、市に水道が付設されるまでは本庁地区唯一の水源地でした。今もかれる事なく湧き続ける水は“おいしい水と好評で喫茶店や近所の人たちが毎朝くみに来るそうです。
 最後に本興寺七不思議の一つとして伝えられているたぬきのお話し。明治の頃たぬきが僧に化けて境内に整列していたり、夜中枕げりをしたり、てんやものをとって木かげに鉢だけ重ねておく等、寺を困らせていたそうです。養寿院三浦住職さんが面白おかしく話して下さいました。 
(山神 一子)

【交通機関】阪神電車尼崎駅より南西200m

 早いもので私が「尼の散歩道」を書き始めて今回で10年を迎えました。「楽しんで読んでるよ」の一言に励まされ今日まできました、今後もがんばりますのでよろしくご愛読の程を!

   随 想
 寺町の中でも、本興寺が一番被害が甚大だつたのではないでしょうか。土塀がすっかり新しくなりました。J寺町参照12月半ばというのに桜の花が一枝開花していました。まるで地震を知らなかったかの様に! (平成7)  戻る


昭和63年9月
   60、寺町・如来院
   身を投げた遊女の黒髪まつる
 思いおこせば八年程前、神崎の「遊女塚」を紹介しました。奇しくも最近その遊女の黒髪が寺町の如来院に納められていることを知、神崎の遊女塚とどの様なかかわりがあるのか、寺町を訪ねてみました。
 如来院は、奈良時代、第45代聖武天皇の厄除けを祈願して、行基菩薩が神崎に、神崎釈迦堂を建立したのが始まりです。 鎌倉時代、法然上人が讃岐に流される途中、この釈迦堂如来院)に立ち寄られた時、五人の遊女が救いを求めに法然上人を尋ねました。【一心にお念仏をとなえるなら必ず往生できる」と教えると、5人の遊女は涙を流して神崎川に身を投げ、自らの生命を絶ちました
その時、橋の杭にひっかかった長い黒髪を引き上げ、ねんごろにまつられています。その後如来院は、戦国時代に城下へ、そして江戸時代に現在地へ移転しました。黒髪は秘仏になっているので見せてはもらえませんでしたが、11月1日には公開され、また今年から舞の奉納といって、京都の舞子さんを呼んで舞を舞って供養するという行事ができ、一般公開されるそうです。ぜひ一度、妖しいまでに美しかった遊女の面影を見に行きませんか・・・  (山神一子)

【交通機関】阪神電車尼崎駅より南西300m。
  
  思い出

 7年程前、尼の散歩道の10年を記念して組合員さんに呼びかけ十人ほどで、寺町を散歩しました。
 京都の舞子さんを近くで見て、「ワーツ、きれい!」と思わず声が、そしてお抹茶のサービスもありました。(平成年秋)

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