昭和60年7月
   41、発電所跡

一、大阪城の松よリも
  栄えは尽きぬ大阪市
巡る電車を乗リかえて
出で立つ梅田の停留場

二、賑ふ旅客の出入橋
  過ぎて波風福島は
義経平家を討たんとて
船揃せし港の地

三、浦江の莱種野田の藤
  新淀川の月の秋
稗島、大和田、神崎の
西の川岸には佃あり

四、杭瀬、大物、尼崎
  琴の浦なる城あとも
今は名のみの礎に
かはりて立てる小学校

1905年(明治38)4月、
阪神電車が開
通した時、作られた
「阪
神電車唱歌」です。当時のお
もしろいエピソード
を紹介します。
電車に下
駄をぬいで乗るお客、山
から狸がおりて来て電車
にひかれ
て狸汁になった
とか等々・・・。
 うどんが一銭五厘の時節に一区
間5銭の運賃で
大阪-神戸間を90
分で
走った。180年後の今日25
分のスピ
ドは夢想だにしなかった
でしょ

 県立尼崎病院北側のレンガの建物
は電車専用の
火力発電所で日本最古
ものです。
 (
ナニワ 山神一子)

資料提供・阪神電鉄尼崎駅

【交通機関】阪神尼崎駅よリ
      東へ200m
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昭和60年9月
    42、松原神社
    崇徳上皇島流し時に寄る
 住宅の密集した、そしてかなりの車が往来する道路脇にこんもりと木立ちの茂った閑散とした中に松原神社があります。
 浜田伝承によれば崇徳上皇が讃岐に流される途中、大風が吹いて、この地に身を寄せられた。その時村人達が海の物、山の物を差し上げて手厚くお慰めした。上皇が讃岐で亡くなられてから現在に至るまで上皇の喜ばれたものをお供えしてその霊をお慰めしているそうです。3月13日の春祭りの朝、中央市場へ買い出しに行き(このしろ、蛤、牡蠣、蜷貝、湯葉、午旁等)、「ダンゴーボー」というお供えをつくってみんなでお祭りした後、おさがりとして配り一組は浄専寺へお供えします。
 崇徳上皇は在位18年御歳23歳で異母弟の近衛天皇に譲位なされた後、保元元年後白河天皇に叛して保元の乱を起こすが敗れ、讃岐に流され悲劇的な死のため、長い間御霊として恐れられた。
江戸時代農業用水として
利用された浜田川の水をめぐって水争いがあり浜田村のお百姓八名が水争いのため入牢させられ全員死亡、他に庄屋、年寄リ10名の霊が浄専寺の墓地に眠っています。
 (ナニワ 山神一子)

【交通機関】阪神尼崎駅よリ市バス40・6番、
      浜浦町下
車南へ200m

  随 想
 松原神杜へ行く道の右に、浄専寺の墓地があり、お百姓8人を祭ったお墓があます。尼崎市の建てた解説板のすぐそばです。
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昭和60年11月
        い こ た
    43、伊居太古墳
    尼崎市内最大の前方後円墳
 尼崎市域の古墳時代遺跡は、その大半が荒廃した消滅しており現存するものや近年まで存在していた遺跡は古墳で7、8基、遺物出土地十余ヵ所となっています。
 なかでも市内最大を誇る
伊居太神社の前方後円墳は荒廃がいちじるしくまた調査が部分的であったために形、規模、構造等にわからない点が多いが出土された遺物(鉄鏃、鉄剣刀、土師器片、須恵器片等)や地形からみて五世紀末の古墳であったと推定されています。現在ではかつての墳形は全くなく周辺の地形よりやや高く神杜の境内になっています。
 若王寺遺跡は古墳時代の
大規模な集落跡で堅穴式住居跡の床面と壁面の一部がまた高床式建築様式を思わせる太い柱根と大きな柱穴を残す住居跡遺構としてその規模の大きさは阪神聞でも珍しいそうです。ここでも鉄刀、鉄斧、鉄鏃等の鉄器が多く出土しているところから製鉄工房の遺存を推定させる遺跡でもあります。
 現在は遺跡らしきものは何もなく日本電気試験所構内に印だけ残っています。 (ナニワ 山神一子)

【交通機関】阪神尼崎駅よリ市バス@AB番、
      阪急塚
口駅よリB番、近松公園前
        下車東へ50m
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昭和61年1月  (注)現在は有りません。
 44、出屋敷天満演舞場
  役者と観客の心がふれあう大衆演劇
 拍手喝采、縞の含羽に三度笠、旅から旅への旅鴉、弁天月太郎がさつそっと花道から舞台へ「まってました二代目、カッコイイ!」と客席から声がかかります。
 ここは出屋敷天満演舞場、
12月興行の風劇団の初日です。この劇団の座長近衛竜之助さんは道意町に住んでおられ、しかも若手二代目は弱冠16歳、目鼻立ちの整った美少年で今年中学卒業と同時に何の抵抗もなく二代目座長を目ざしてこの道に入り、今は芝居が面白くてたまらない時だそうです。
 2代目勝竜吾君曰く「カッコイイ役やるから気持ちいい」とあどけない表情しかし稽古は大変厳しく座長が気に入らなかっら手がとぶそうです。毎日違う出し物で15日間興行。
台本なしで口うつしでセリフを覚え、芝居、歌、楽器、踊りと稽古に明けくれライベートな時間はほどないそうです。
 今大衆演劇が盛んにマスコミの注目をあびて人気を呼んでいます。尼崎にもかつては富士劇場、武庫川日光劇場、杭瀬の寿座等五、六カ所に劇場がありました。中でも寿座にはまれに見る奈落があったそうです。興行も長くて5日、普通は3日で次へ移動してました、今では尼崎に唯一の劇場がここ出屋敷天満演舞場です。昭和58年10月オーブして2年余り、なかなか評判で遠くから見に来てくれます、とは支配人談。この他にもテレビでおなじみの美里英二さん等の興行あり人気上昇中・・・。
 私は若手二代目勝勝竜吾君に早く一人前の役者になてカッコイイ座長になっほしいと心から願って、まだ興奮さめやらぬ思いで演舞場を後にこ冷えのする町に出ました。

開 演 昼0時〜3時半 ・夜6時-9時
入場料 大人1,200円 ・小人600円
 興行案内テレフォンサースは 
 06−
413−1350
 “にじと健康1月号持参の方は入場料
  200円引きにしていただけます。
( ナニワ 山神一子)

【交通】阪神電車出屋敷北出口より5分。
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昭和61年3月
   45、楠霊神社
  心霊が宿るという楠の巨木
 「武庫川堤防辺に樹齢200年以上を経たりと思わるる楠の老木あり遠近人目を引く」と大庄村志に記されている様に、ここ楠霊神社には市内で最も太い幹周り5、3mもある楠が祭られています。
 今から約100年程前此の地に洪水があった時この楠に登って難をのがれたとか、この地にあった墓地を移転した後雑木が生い茂り、追はぎが出没し人々から恐れていたが、誰とも知れずこの木に締め縄を張り、小鳥居、厨子などを構えて霊木としたと伝えられています。また昭和11年頃近くに住んでおられた酒井秋子氏、この地を歩いていて或霊感に打たれたが、これがそもそも祠の起源なったと伝えられています
その後まもなく、この地一帯払い下げの指令が県より下ったので、此の楠も競売に付せられそうになったが楠の周囲40坪余りを買収し楠霊祠と名づけました。当時楠の下に競売阻止のため「此の木を伐るものに天罰あり、昭和の和気清磨」という立札が見られました。現在この楠霊神社には代の神主さんは亡くなられ
          
ひさし
弟子である二代目佐藤永郎
さんが東京に住んでおられるため月の内2日この神社で霊を見られるそうです。
 この時は遠方からたくさんの人達がつめかけるそうです。今マスコミに大きく取りあげられている心霊の世界だけに人気が集まっているのではないでしょうか。 (山神子)
参考 大庄村志

交通機関】阪神電車武庫川駅車南へ1分

  思い出
 10年程前、楠霊神杜を取材に行った時は、大雪に見舞われ、あたり一面銀世界で、雪を知らない私は、子どもの様に嬉しかったのを思い出します。H7年秋)    戻る