昭和62年3月
 51、寺町・大覚寺
  檀家衆が演じる念仏狂言
 
 いろいろな宗派の寺院から成り立つ寺町は、年中行事も様々で各寺ならではの行事があり、四季折々の風景を見せてくれます。寺町中ほどにある真言宗大覚寺では毎年節分に念仏狂言が演じられるというので多くの善男善女でにぎわいます。
 およそ150年ほど前に念仏狂言が行われていたという書付けが襖絵の下張りから見つかり、これがきっかけとなって昭和28年の節分以来、毎年節分の日に大覚寺境内で上演されるという歴史があります。
 狂言師は檀家衆15人で銀行員、酒屋の主人、鉄工所に勤めている人達等で結成され、夜遅くまできびしいけいこを積んで2月3日の晴舞台に臨みます。この日、読経が流れる境内で日繰返し演じられます。また、かみしも姿の福男、福娘が紅白のお餅や福豆をまき、境内を埋めた人達はろうのに大わらわ・・・81歳のおばあちゃん「昔ここらはユウレイが出るいうてわてらよう通らなんだ。今はにぎやかで有り難いとや。寺町筋にはたくさんの出店が並び1日中大変なにぎわいです。(山神 一子)

【交通機関】阪神尼崎駅か
      南西へ徒歩5分。

  随 想
 尼崎市内で現存する寺院では最古の寺です。寺伝によると推古12年(604)聖徳太子が百済から招いた僧日羅に命じて創らせたとあり、平安初期の像といわれる日羅像も、優美な姿を今に伝えています。
 今年も節分会の季節になりました。大覚寺狂言が楽しみですね。(H8) 
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昭和62年5月

        こ う  し ん  ど う
   52、庚申堂
  庚申の晩村中集り夜明かし
 
 桜も散り今や春まっ盛り
の好天気に恵まれた一日、武庫川髭の渡しから西国街道沿いにたっている庚申堂を訪ねて散歩しました。
 武庫川河川敷の一角にひっそりとモチの樹、常夜燈、行者堂が当時の名残りをとどめています。江戸時代髭茶屋を東西に走る西国街道は、京都と中国地方を結ぶ二大幹線路の一つで参勤交代の大名行列等で賑わったところです。幕末の禁門の変に敗れた長州兵がこの地でホッと安心し多くの槍、刀を捨てて川を渡ったとの説があります。
 西昆陽歩道橋下の庚申堂(青面金剛菩薩)、十二支の暦の上での庚申の晩には、塚の前でお祭りをして起きていました。人間の体内にひそむ三匹の虫が、庚申の夜眠っている間にぬけ出し天の帝王にその人の悪行を告げ命を取らせるのでその夜は眠らず身を慎んで過ごしました。また庚申の晩に妊娠した子は盗人になるたたりを恐れ、お経をあげて一夜を明かしました。
 最近、この近くに約2000年前の遣跡が発掘され、弥生時代中期の住居、お墓等が見つかり調査した後、今ではマンション用地になっていますがこの下に大昔の生活があったと思うと何かしら感概深いものがありました。 
(山神 一子)

【交通機関市バス宮ノ北団地行き髪茶屋下車
      南100m

  随 想
庚申堂で手を合わせ西国街道を西え、武庫川髭の渡しへ行く途中の古いレストランが地震で倒壊。1年が過ぎようとしているのに今だにそのまま、髭の渡しの「髭老人地蔵ほこら」も倒壊したままです。復興の見通しはないのでしょうか。H7)

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昭和62年7月
  53、白井神社
  歯の神様として信仰される
 
「はがみ」さん
?それどこの誰と云いたくなり
うな名前ですね。これは東
園田にある白井神
       
あめのたじからのみこと
社に祭っ
ている「天之手力男命」いう、天照犬神岩戸隠れの神話で有名な岩戸開けの勇武の神さまであり歯痛の神さまでもあります。
 その昔歯医者さんがなかった頃、霊験あらたかな御祈祷で歯痛が治ったとかで、近隣はもちろん遠く九州からでも参拝にくる人がいたそうです。しかし医学の発達により歯神としての特殊信仰は自然に衰退し、神社本来の在り方に変ってこの地区住民の氏神さまとして奉仕しています。宮司さんの奥様の話によれば、神社の前には茶店があって人通りも多く大変にぎやかだったそうです。現在では夏祭りが一番にぎやかで夜店が40店程出るそうです。
 藻川の土堤、宮園橋のそばに建っていたらしい道標「右阿の村はがみ、すぐ伊丹中山道」と刻まれているところからかなり名の知れた神社だったと思われます。
 また神社から三十米程西へ入るとそこは江戸時代に戻った様なたたずまいの屋敷が4,5軒、この一角を散策するのも映画に出ている様な気分で楽しいですよ。
(山神 一子)

【交通機関】阪急園田駅北側下車西ヘ
      コープ園田店北

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昭和62年9月
  54、三平井組碑
    歴史ゆたかな御園周辺
 
高校野球が甲子園球場でたけなわの時期、くしくもちょうど1年前、三平井を訪ねた時と同じ真夏の太陽が照リかえす午後、今回は三平井組碑とその周辺に点在する古墳を訪ねました。 「三平伝説」は天正3年(1575年)5月、摂津平野がひどい水ききんに見まわれ、時の領主に猪名川から水を引きたいと願い出たが聞き入れられず、庄屋の息子三平さんが白分の命と引きかえに農民を救ったというお話。昭和になって御園杭ノ本に記念碑が建てられ、毎年5月には三平水利組合が主催で三平供養の法要が営まれていると組合長の岡谷さんにお聞きしました。また碑の隣には通称「スズリ橋」といって、岡院(こえん)の用水路の架橋になっていた割所形石棺の蓋石も保存されています。近くには御園古墳また南清水古墳は須佐男神社境内の帆立貝式前方後円墳で古墳時代中期の珍しいもの。その北側に隣接して前方後円墳の形跡だけをかろうじて残している天狗塚古墳。三平井組碑の近所には牛舎が十軒程建ち並び、少し田舎のにおいがしますが、のどかな雰囲気が漂っていました。 
(山神 一子)戻る

【交適機関】阪急バス塚口下車
      三菱電機東南角を東

昭和62年11月
           じん しょう いん
   55、深正院
    尼崎の「お菊の井戸」

 「一枚、二枚、三枚・・・八枚、九枚Lと井戸の中から聞こえてくる悲しげな女の声と言えば姫路城にある「お菊の井戸」ですが、これに似た井戸が尼崎は大の深正院にあると聞いてまさかと思い乍らも訪ねました。
元禄9年(1696)、尼崎城主青山播磨守幸督の家老のご飯から針が出てきた為、給仕をしていた待女のお菊が自分を殺そうとしたのだと怒り、その場でお菊を切って井戸に投げこみました。それ以後あやしげな事やたたりが続き、その為に誰も住まなくなりました。
宝永8年(1711)桜井氏が尼崎藩主となりお菊の霊を弔う為建てたのが深正院で、それ以来たたりはおさまったという伝説です。
 お寺の本堂は尼崎城の天主閣をそのまま納めたものですが、戦災で焼き払われ長い間廃寺同然でしたが昭和49年再建されました。
桜井家の菩提寺なので由緒ある墓標がたくさんありますが、戦災ですすけた墓石が何となく無気昧に感じます。
 今ではお菊の井戸はふさがれていますが、かってはこの井戸から悲しげな声が聞えたのでしょうか・・・。
 (山神 一子) 
 読売・阪神間民話散歩参考

【交通機関】阪神大物駅下車南西、
      大物主神社西へ

   随 想
 尼崎藩主桜井松平氏の菩提寺で、五代の城主達とその妻子の墓などがあります。
 尼崎城主七代目桜井忠興の墓碑もあります。この度の地震で多くのお墓に倒れた傷跡が痛々しく残っていました。
  (平成7年秋)
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