昭和57年1月20日
   20、
寺町・法園寺
   
武将、佐々成政自害に地
 NHKの大河ドラマ「女太閣記」でおなじみの佐々内蔵助成政=九州肥後の国(熊本県)の国守。50万石の大大名でありました。織田信長に仕えていた佐々成政は、本能寺の変以後、ことごとく秀吉と意見が合わなくなり、成政の支配下に起った農民一揆がもとで責任をとらされ、量後には尼崎で自害して果てました。
 今回はこの佐々成政の自害して果てたといわれる寺町にある浄土宗法園寺を訪ねました。尼崎では余り知られていないと思われますが、この成政は前田利家、柴田勝家、また加藤清正らと共に名を馳せた人です失策の罪を問われた成政は、天正16年正月上方にのぼる様に命令をうけ、2月には尼崎に到着そして4カ月後についに命じられて切腹して果てました。
 尼崎藩戸田氏鉄によって近世尼崎城の構築が始められ城下町の建設が進められる、その過程で成政の墓は寺町に移されたのであろうと推定されます。
 現在の法園寺は、寺というより幼稚園になっており、成政の墓も境内にはなく、いずれかにまつられいる由。寺の人の話では、最近富山・秋田方面から系図をもって、「自分こそ佐々成政の子孫である」と来られる人もあるそうです。寺自身は400年にもなる由緒あるものです。現在の御住職で26世、門の上には菊の御紋とあおいの御紋がきざまれていました。
(山神一子) 尼崎市史参考 

  思い出
 法園寺には最近足を運びましたが、変わりなく幼稚園の子供たちの可愛い声が聞こえてきました。佐々成政の墓はここにはありません。「前奥州大守庭月道閑居士」と刻まれた墓石を私はさがしています。(S60年秋)
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昭和57年3月1日
  21、猪名川・自然林
  蝶蝶もまう自然林都会に残るオアシス
 ポカポカとお天気のよい昼下り、尼崎で唯一の猪名川自然林(公園)を訪ねました。
 ここは豊中市と尼崎市の土地が入りくんでいることはなはだしく、昭和47年からの区画整理工事で、自然が破壊されるのを残してほしいと、猪名川自然と文化を守る会(岡野錦也阪大名誉教授会長)らのねばり強い行動で、今では自然林はほんの一部分だけですが残されています。
 大きな楠の木、むくの木ややぶつばき、やぶにっけ、榎の木などなど、またツグミ、ヒヨなどの小鳥が木から木へ、また地におりて来て土の中の虫をついばんでは木々へと飛びかっていました。
 小鳥のこえをきいていると、もうすぐそこまで春がおとずれてきていることがひしひしと感じられ、ウグイスも春をつげにくるそうです。管理人さんは「自然林を荒しまわる者が多くて困る。もっと自然を大切にしてほしい」となげいておられましたが、「反対に日曜日など近くの子ども達が団体でおとずれて、公園内の清掃をしてくれることもある」と、うれしそうに目を細めておられました。
 公園の近くの民家で冬の間さなぎをふ化させ、やがて暖かくなってちょうちょに成長したら、自然公園にはなして人々の目をたのしませてくれます散歩道はアスファルト(豊中市側)もありましたが、もっともっと自然を残してほしいと思いました。
 春も近いことですし、一度ハイキングでもいかがでしょうか。    (山神一子)

  随 想
 尼崎市では二番目の広さをもつこの公園は三ヶ月湖や自然堤防を残して、手入れのゆきとどいたものになっいます。そして広場や野球場、健康マラソンコース等のスポーツ施設もあり、日曜・休日には親子連れで賑わっています。子どもたちのための新しい故郷づくりの一環として「親子夏まつり」が催され、市民の憩いの場であると共に、地域のコミュニティの広場にもなっています。 
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昭和57年5月
    22、富松神社
  
本殿は兵庫県重要文化財指定
 富松神社は、市内の保護樹林では、最も広大な面積で約6000平方メートルもの境内です。樹齢700〜800年の楠の木もあります。建造物は本殿・幣殿・拝殿・翼殿・回廊・社務所・参集殿とあり、本殿(御神殿)は、昭和43年兵庫県重要文化財指定になっています。覆屋内にある一間社春日造りで壁等は絵画が施されており、華麗な桃山時代の余風をよく伝えています。
 入試時期には、小学生から大学生に至るまでの人がたくさん合格祈願の絵馬をかけにきます。中には交通安全、家内息災の絵馬も見うけられます。10月10日の大祭には、お神楽等が見られ、また2月4日の節分には「鬼やらい」という富松神社ならではの催しがあり、とてもたくさんの参拝者でにぎわうそうです。
 むかしはこのあたり田んぼや畑ばかりで、ところどころにぽつんとわらぶき屋根の農家が点在していたのではないかと思われます。ところが現在では近代的な住宅が建ち並びマンションや市営団地がところせましと建っています。道路はきれいに整備され、むかしを偲ぶ田園風景はどこにも見られません。人口もどんどん増えているので、神社への参拝者もかなり増えているそうです。
 近くには尼崎市では有名校の県立尼崎北高校があります。

 富松神杜祭祀の儀
○大祭-秋例大祭10月10日
 新年祭    3月1日
 夏越祭。   7月16日
 新嘗祭    12月16日
○中祭-歳目祭   正月元旦
 愛岩火祭    8月24日
 七五三詣り   11月15日
 大祓祭     12月31日
○厄除大祭  毎年2月節分日 

【交通機関】阪急神戸線、塚口駅北口より
尼崎市バス、尼崎北小学校前下車、徒歩3分

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昭和57年7月

     23、守部十三重塔
   鎌倉時代から今日まで地域見守る
 小雨降る昼下がり、南武庫之荘8丁目にある守部十三重塔を訪ねました。(すさのお)神社にあるこの十三重塔は高さ約4・5メートルで、塔身の月輪(がちりん)内に金剛界の四仏の種子(じゅじ)を肉太に薬研(やけんぼり)し、笠、下端に種形(たるきがた)があります。13の笠のうち、大半は別の笠で補充されていて作った時の相輪は、町内の共同墓地に残っています。
塔は鎌倉時代14
世紀初期に造立されたそうで、立派そのものです。
 霧のような雨もやんで境内を散策していると、ちょうど通りかかったこの神社の氏子会々長さんにお話をうかがうことができました。最近尼崎神社会で調べたところによると、ここには300年ほど昔の一番古い石燈ろうが建っていることがわかったとのこと。300年もの間風雪にたえぬいたようには見えないほどしっかりと地に立ち、この地域の歴史の移りかわりを見守っていました。またこの神社には、日本に3体しかない身の丈一尺三寸(約42cm)程の観音さまがまつられています。この観音さまは木でも金属でもなく、なんと和紙でできた「はりこの観音さま」です。
 1年に1回だけ、8月18日の夜この境内で「観音おどり」が披露され、ひと目お姿を拝見しようと大勢の善男善女で、にぎわうそうです。
 折りしも一人の女性が一心不乱に合掌し、立願する姿が目にとまりました。若い善女はいったいなにをお願いされているのやら・・・
(山神一子)
●市バス 出屋敷駅I番にて守部公園前下車、東へ3分。
●阪神バス 南武庫之荘5丁目下車西へ5分。

 2年前取材に行った時に1人の女性に出合いました。その女性は何をお願いしていたのか、一心不乱に合掌して、とても印象的でした。
 私と同行して下さった斉藤元編集長が最近、素蓋鳴神社の前を通りかかった時、その印象的な女性が今だにお参りして一心に合掌している姿を見られたとの事、ほんとうに何をお祈りしているのでしょうね。(S60年秋)
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昭和57年9月
    24、塚口御坊
   庶民の抵抗=一向一撲の本拠地
            げにん
 戦国時代、尼崎地下人と呼ばれる有力な住民たちが町をとりしきっていました。この時代には、尼崎の地は多くの武将か往来しましたが、尼崎地下衆は、経済的な実力で尼崎を保護してきました。
 天文2年から5年まで(1533〜1536年)の間、尼崎では一向一揆がさかんでした。その本拠地となったのが、200m四方の規模をもつ塚口御坊(現花の正玄寺)です。真宗興正派別院で御本尊は阿弥陀如来です。応永16年(1409年)真宗興正派第11世性曇上人かこの地に建てられました。
 現在は、市街化のため、その面影をほとんど失なっていますが、旧村の東端・北端部及び西南部に遺構をわずかに残しています。高い土塁をめぐらした外側に広い壕をもち、町四方の土塁壁で囲まれていたようで、要所要所に入口門を設け、外敵を防くための出城、いわゆる砦であったようです。
 現在では、東と北に小祠を祭った祠堂のある土塁が一部残されていますが、これが当初の面影を残す城塞跡であります
 東の祠堂の近くに、石で出来た小さな道標(右昆陽中、左西宮)が、土ほこりをかぶってひそかに建っていました。
 この道は、昔の街道であったのでしよう。
(山神一子)


  
随 想
 夏の暑い盛りに正玄寺を訪ねた時、たくさんのせみがところせましと鳴いていました。大木の下の方にいたくまぜみを素手で捕まえて子どものおみやげにしたくらいです。
 自然破壊と云われている昨今ですが正玄寺のせみは、今年もにぎやかに鳴いた事でしよう。
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昭和57年11月
   25、大物公園
  日本列島を形どった「ふるさとの森」
 大物公園に、日本列島を形どったこんもりとした森があるのをごぞんじでしょうか「ふるさとの森」といって、12年前につくられました。公園の一角には産業郷土会館もあります。
 尼崎市は、人口の7割までが地方からの出身者によって構成されているそうです。故郷を思い出すという一時のいこいの場所として思いやりをこめて、全国から持ちよせられた県木が植えられています。
 今ではそれがおい茂り、木陰がりっぱです。おとしよりの散さく、子供たちの遊び場として広く利用されています。尼崎の地点には、尼崎城の石がきが置いてあります。
2号線にかかっている「いながわばし」は、義経と静御前の涙の別れの橋の伝説があります。 
 (山神一子〉
【交通機関】阪神バス大物北口、産業郷土会館前。阪神電車大物駅北へすぐ

  随 想
 日本列島を形どった「ふるさとの森」は今でも健在です。ところせましとおい茂っています。丁度「ふ在、県立尼崎病院建設のために工事中です。病院が成の予定ですので入院患者が病室の窓から、この「ふるさとの森」を見てなぐさめられたらどんなに良い事でしよう。
(S60年秋)  
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昭和58年1月
    26、白壁へい
    旧国道に新名所?
 国道2号線の南、東西に走る通称「旧国道」は、近世には西海道と呼ばれ、尼崎と西宮を結び西国街道につながって兵庫への道となっています。昭和2年阪神国道が開通するまでは、尼崎の幹線道路でありました。
 この旧国道にかかっている明倫橋を西へ渡り、琴浦神社に手を合せてしばらく歩くと武庫川に出ます。武庫川の少し手前に、最近建てかえた大庄団地(市営庄宅)の自転車置場がなんと歩道にそって武家屋敷のような白壁へいができています。
 市の文化健康推進本部のプロジェクトチームの考案でつくられたもので、市営庄宅の美化、また名所、史跡の多い尼崎のムードを出そうと、モデル事業の一つとして試みたそうです。  昔は松並木で「下に―、下に」と大名行列もあったかも知れません。今は松の木3本が植えられ、塀のとぎれたところに茶店の軒先きの格好をしたバス停もまた風情があります。お年寄りの散歩道としても絶好のものだと思います。
 ぜひお茶のみ友達とどうぞ。
(山神一子)

【交通機関】市バス大庄小学校前

  思い出
 旧国道に武家屋敷風の白壁へいが出来たと人づてに耳にしたので早速取材に行って少しガックリしました。というのは、せっかくの白壁のへいがコンクリートだなんて考えもしなかったからです。しかし現在この道を通るたびに昔の情景がしのばれます。
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昭和58年3
    27、雉が阪
   きじに助けられた臣秀吉
 旧国道を西へ、武虜川の土堤にかかる「雉ケ坂」と呼ばれる坂道があります。雨がしとしとと降る午後伝承の地「雉ケ坂」を訪ねて見ました。昔この附近一帯に竹や葺が生い茂っていたそうです。
 天正10年京都本能寺で、明智光秀が織田信長に対して謀叛を起こした時、豊臣秀吉は今の岡山県の備中高松城に毛利勢と戦をしていました。光秀はその秀吉をもうつべく、ここ尼崎市の武庫川近くに待ち討ちの陣をしいていました。(大庄地区の松内町はこれに由采しています)光秀叛逆の知らせを受けた秀吉が急ぎ引き返し、武庫川近くに到着した時は夜明け前なのに、川岸の竹やぶからあわただしく雉が飛びたったのと農民の知らせもあり、この辺りに伏兵ありと悟った秀吉は、進路を北の茶屋街道(西国街道)へ変えまんまと光秀の背後をつき主君信長公
の無念を晴らしました。
 その後、太閤となった秀吉はこの土地を訪ね「雉ケ坂」と名づけ附近の田を土地の人々に与えたと伝えられています。
〈山神一子)
交通機関 市バス大圧西1分
       阪神電車武庫川駅北へ3分

  随 想
 かっては葦の葉が生い茂り、きじがたくさん飛びかっていたのでしょう。秀吉の軍勢と光秀の軍勢が戦かったこの地も今ではきれいに整備され、きじが鳴くどころか葦の葉一本はえていません。
丁度取材に行ったこの日は朝から雨がしとしと降り、まるで敗れた光秀の家来達がくやし涙を流している様にひしひしと感じられました。 

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昭和58年5月
   28、
金楽寺貝塚
  境内いちめんに貝がら
 現在の金楽寺・長洲のあたりは当時の記録に浜地250町と記されている海岸地帯であったらしい。
ここには漁業を主とする人達が住んでいて東大寺領として「長洲浜」とよばれています。長洲浜の住民は貴族や皇族に奉仕し、身分上の特権を得て運輸、漁業などに従事、瀬戸内を渡ったり京都に上つたりその活動範囲は大変広かったようです。やがて領主の東大寺がしだいに権威を失うと魚や貝を納める役目をもって鴨社に仕える様になりました。
鴨社は朝廷の信任があつく、長洲の住民もその保護のもとに特権を得、有利に活動しました。しかし、鴨社はその後活動に制限を加えて束縛する様になり、そこで住民達はもう一方の領主である東大寺に訴え助けを求めました。こうして東大寺と鴨社との間で長洲の領有権をめぐって数百年の間争われました。
 この様な文献からこの金楽寺貝塚は古墳時代から鎌倉時代にわたる歴史のあとを残しています。 
 (山神一子)

〔主な出土品〕魚骨、鳥骨、石包丁等、赤貝、しじみ、他土製玩具、土人形

〔交通機関〕市バス天満神社前西
 
  思い出
 境内いちめんに貝がらの破片が敷きつめられています。断面図を見ると地下何メートルかは貝がらの種類によって断層が出未ているのです。当時の住民の生活様式の一部をかいま見た様な気がしました。
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昭和58年7月

   29、長州天満宮
    菅原道真公停泊の地
 本殿は一間社流造り。桧皮葺で慶長12年(1607)に建立。桃山時代の特色をよく残しています。また、この神社には伝説として菅原道真公が太宰府に流される時、淀川を下ってこの地に停泊したと伝えられています。
 こ近所の氏子総代の西村さん(80歳)にお話を伺いました。
当時、村人達が集って「罪もないのにかわいそうだ」と同情したこと、翌朝一番鶏がいつもより早く時を告げたので出発が早まり、それからこの地域では鶏を飼わない風習が始ったこと、そして戦後物資のない時に氏神様に御祈とうして鶏を飼うようになったことなど氏子のみなさんの信仰心に強く心をうたれました。
 尼信の北側に「菅公足洗いの池」、長洲小学校北門の所に「菅公舟つなぎの松」等があります。


 人しれず移る泪は津の国の
   長洲と見えて袖ぞ朽ちぬる


と菅公が詠まれて、自画像が本殿奥深くに祭られているそうです。
 (ナニワ 山神一子)

〔交通機関市バス天満神社前1分

  随 想
 長洲天満宮を取材に行った時訪ねた西村さ
んの話によれば、明治32・3年頃この長洲の地から阪神電車が走るのがよく見えたとか、見わたす限り田んぼや畑で何も建物がなかったそうです。
 
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        菅原道真公です。
昭和58年9
    30、尼崎城
   シーボルトにも推賞された城
 尼崎城は元和元年、一国一城令が出された直後戸田氏鉄みずから指揮のもとに、豪華な四層の天守閣を備え、本丸、ニノ丸、三ノ丸の三重の堀をめぐらした水陸両用の堅城が完成した。この城を中心に侍屋敷や寺町が形成された。
この時今の大物
町に点在していた寺を城廓に集めたのが現在の寺である。
 またドイツの医学者シーボルトをはじめ外国使節が尼崎を通過した際に船上より見れば浮城の様であり、街道より見れば丘の様に美しいと推賞したそうである。
 明治6年の廃城令で、ほとんど取りこわされ第二阪神国道建設の際に全く姿を消し、今は地名のみ残っている。ありし日の尼崎城は昭和15年模型として完成、現在城内小学校の庭に残されている。
(
ナニワ 山神一子)
 尼崎市史参考
〔交通機関〕市バス阪神尼崎より南東へ10分

 城内小学校内の尼崎城ミニチュアは地震で無残にも壊れました。百年以上の歴史をもつ学校も大きな被害を受け、現在工事中でした。(平成7年秋) 
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  尼崎城のミニチュアです