昭和54年12月
    11、 残念さんの墓
    線香の煙がたえない
 幕末から明治維新にかけて、いくつかの戦いがありましたが、その中の一つに蛤御門の戦いがあります。この戦いに敗れた志士たちが長州へ落ちる途中、各所で捕えられました。山本文之助も尼崎藩兵に捕えられ、尼崎の北口御門の牢舎で「ああ残念だ!」と連呼しながら割腹自殺したといわれ、その後、里の人がその心情をくんで杭瀬・二の坪(産業郷土会館東側)に葬って、その霊を慰めたので、誰いうとなく「残念さん」と呼ばれるようになったそうです。現在では、この残念さんのお墓は「願かけ神様」として、多くの人々がお参りにくるそうです。悩み事が少しでも軽くなるように、そして残念なことにならないようにとお参りにくる人があるといいます。
 また、昭和何年の項からか、入学試験の神様としても有名になり、新聞などに記事が出てからは入試時期になりますと残念さんのお札を貰いにくる親子が相当の数にのぼるそうです。

墓守りのおじいさんはこう云っていました。「山本文之助他、何人かの人が殺されたのに何故この人だけがこの地にこうして手厚くまつられるようになったのかは、やはりこの人の人徳ではなかったか。だから人間、人が見ているかいないかにかかわらず良いことをしていれば、きっと後世にむくわれるのではないかなあ・・・」と。
 残念さん墓には、山本文之助の魂がまつられているので願いをかければ必ずかなえられるそうです。13年ぶりに親と子がこの墓の前で再会した話しも実際にあるそうです。 今では観光地の一つとして遠くから団体客も訪れ線香の煙が絶えることがないとか。 哀愁を誘うこの破念さんの墓にお線香をともして、墓守りのおじいさんの言葉を思い浮かべながら墓地を後にしました。(山神一子)
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 昭和55年2月
     12、遊女塚
  いにしえへ心をはせさす古い墓石
 尼崎の東、神崎川をまたぐ新幹線のふもと大字神崎にこじんまりとこぎれいな遊女塚があります。梅ケ枝公園の一隅に、史跡遊女塚と黒々と御影石に刻まれた碑が目に入ります。その後方に玉垣に囲まれ、風雪に耐えた墓石(元禄5年の銘あり)の南無阿弥陀仏が古いいにしえへと心をはせさせます。
 ―鎌倉初期の建永2年(1207)宮城ら遊女が法然上人に、河竹(遊女)の身で罪業の深いことを懺悔し訴え、法然が仏の教えをとき、念仏をとなえると、5人の遊女らは涙を流しつつ入水した。人々は川岸にねんごろに葬り遊女塚とよんだ― と伝承しています。

その後、荒廃と修築がくり返され、工場、新幹線の出現のため、今の梅ケ枝公園におちついたといいます。郷土史家の田中大庄次郎さんの提唱で8月の盆に、遊女の供養のため「神崎川の水祭り」が31年から行われました。神崎川の工事のため一時中止していますが、今も昔もかわらずあわれな遊女を葬い供養し続ける、いつの世の人々の心が身にしみて感じられ、何かしら大切なものがここにあると思われました。

寒風ふきすさぶ1月中旬、遊女塚にたたずみ合掌したとき、新幹線のものすごい騒音にすべてがかき消され、時代の進歩のいたずらが気にかかり、遊女のあわれさを一層深める思いは私一人ではないでしよう。齊藤和義
 参考資料 尼崎市史 小田村勢  
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昭和55年4月
   13、  水堂古墳
    尼崎にも前方後円墳があります

市内水堂町1丁目の須佐男神社にある、南面の前方後円墳を訪ねてみました。
 この古墳の敷地は、弥生後期の集落址であり、弥生後期遺跡の上に盛土をして古墳を築造した、近畿地方でも数少ない粘土榔古墳であります。
一図表参照一

 発掘調査の結果、割竹形木棺が発見されました。朱塗りの棺内には、頭を北にした(いわゆる北枕)人骨が骨粉状で遺存し、歯などは比較的よく残されていたそうです。副葬品は、その人骨の両側に鉄刀、鉄剣二本がおかれていました。その他にもいろいろなものが埋葬されていて、弥生古墳時代を通じて、強力な豪族がこの地域にいたことを物語っています。

水堂古墳から約250mほど歩いたところに、代官所があります。この代官所屋敷は、江戸末期から明治初年の廃藩に至るまでの、旗本青山氏の地方代官所で、摂津八ヶ所(尼崎市水堂、潮江、浜のそれぞれの一部、次屋、西宮市の一部)の管轄統治したところであります。
 明治、大正の両年間、昭和41年と3回に渡り、改築移転が行なわれ、建設当初のものとはいい難いが、門がまえ、敷台の形にはやはりその昔の代官所時代の面影が残っていて、今では人気のない大戸ロは閉ざされたままで、昔がしのばれます。(山神一子)
 参考資料;尼崎市史   戻る