昭和53年1月
   
2、田能遺跡
   弥生式時代
 尼崎の東部を流れる猪名川左岸(園田競馬場の北)に、12年前発掘された、田能遺跡があります。弥生式時代(約2200-2300年前から始まる)のほぼ全期間(約500〜600年間)に、私たちの先祖が生活していたと出土品や遺跡で分かりました。
 採集生活から田能に定住して、稲をはじめ狩、魚、貝などで生活し、遺物が大量にでています。石器から鉄器へ、壼・かめ・鉢や、装身具としてガラス玉や首飾り・腕輪も使用していました。
 家としては円形平地式二軒、円形竪穴式一軒が確認され、あとは分かっていません。工業用水工事中に発見され、当初遺跡保存の方針が無く、多くの人々が遺跡を破壊から守り、永久に保存する運動に立ち上がり、家屋の復元と資料館が建てられ、広く市民に開放されています。

  雑 感
 大昔、尼崎の大半は海であったと知った。田能遺跡へ行こう。行って見て驚いた、保存されている遺跡が狭い、あまりにも狭い。保存運動がおきてこの広さ5219u。写真の復元家屋もかなり傷んでいて、こちらの心が痛む。国の指定史跡なっていて、この現状。
 しかし、保存された事が嬉しく、弥生時代の人々の生活実態が手に取る様にわかり、粗食な人生や、と思えた。 
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昭和533    
       3、西武庫公園
  見ごろ、手ごろの桜花
 尼崎市の北部、武庫川沿に花と緑と水の西武庫公園があります。ここは兵庫県が各地の公園を参考にして昭和40年につくったもので、面積22000坪(甲子園球場の約2倍)年間100万人もの利用者があるという市内最大の公園です。
 
 公園の中には武庫川からわき出る清流を利用してつくった池があり、二羽のあひるとたくさんの鯉が泳いでいます。
下流には子供たちが水遊びできる「じゃぶじゃぶ池」、ゲームやボール遊びなどができる「芝生広場」がつくられています。
ミニチュア都市の交通公園もあり信号機、踏切り、交通標識があり職員の指導で遊びながら交通知識を学ぶことができます。
 公園内には、つげ、けやき、プラタナスなど7000本もの樹木があり春になると600本の桜が咲きみだれ花見の人でにぎわいます。
 また花木園を中心にチューリップ、バラ、菖蒲、ススキなど四季折々の花々が家族連れなど入園者を迎えてくれます。市内にも、こんなに広く、ゆっくりくつろげる公園があるのです。花と緑と清流が心を豊かにしてれるでしょう。 

 雑 感
 訪ずれたのは、良く晴れた日であったが、とにかく寒かった。事務所へおもむき、色々聞いた。一緒に歩きながら、親切に教えていただいたお年寄は忘れがたい。
武庫川の伏流水を利用した池には見飽きない。きれいな、冷たいわき水がよい。小さな砂をふき上げながらわいている。そこには、藻はなく、白い砂ときれいなわき水があり、いつまでも見ていたかった。(S60年秋・齋藤)  戻る


昭和5211 
 1、明治18年ごろの尼崎
 
 私たちが生活している尼崎は、古い歴史をもつ街です。古くは弥生時代から、中世・近世・近代へと、その時代を構成し生きつづけ現在に伝承するものや、また遺跡や史料として残したものもたくさんあります。その時代を掘りおこし時代背景も合わせて連載することにしました。
 第一回として、明治18年に測定された付近の地図です。
 中国街道・尼崎城を中心に人家が集まり南部に新田、北部に点在する村々は農業を中心に生計をたてていて、東西に日本で二番目の鉄道(大阪・神戸間現在の東海道本線)があり、長洲停車場(現国鉄尼崎駅)から北へ川辺馬車鉄道(現福知山線)が走っています。 明治22年、町村制により、尼崎町、大庄・武庫・立花・園田・小田と村制がしかれています。 

  雑 感

 尼崎には古いものがある。連載するには古いものからがよいのでは・・・と、思いたったが、力不足で捜し出せない。色々取材して結論に達したのが、第一回目に載せた地図。
 尼崎市立中学校の副読本になっている「尼崎の歴史」が参考になった。すでに鉄道が走り、今の商工都市尼崎とちがい田園風景も、偲ばれる。武庫川も本流から支流もあり、現在の地名で残っているところには、村が点在している。
すべり出しは、これだと思ったのですが。
(S60年秋・齊藤)
 
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昭和535
      4、さつき展
    市民に喜ばれる無償苗
 皐月(さつき)の季節となリました。
尼崎の名物となったさつき展が、尼崎皐月協会・尼崎市・尼崎市緑化協会の主催で開かれます。昭和三十八年から、かぞえて今年で、25回目を迎えます。期間中、会員(約400人)の中から、日頃丹精こめた美しい色とリどりの自信作品が展示され、逸品は圧巻そのものです。
 また、即売コーナーも設けられ、見ごたえのある美しいさつきが、市価の半値ぐらいで購入できるそうです。苗木もふくめ5千鉢ぐらい、毎年用意されています。
 その上、市民が一番喜ぶのは「無償苗」がもらえることです。日曜日の午前九時から先着3000名ぐらい用意されていて、会場には長蛇の列が毎年でき、受けとる人の喜びあふれた光景が見えます。
 会員の協力でよい「鉢もの」が出品されることを反映してか、遠く九州をはじめ、西日本全体からこられる人もあるそうです。会場では、いろいろな相談も受けられ、素人さんも大いに歓迎されています。
昨年は30万人が入場し、終日大盛況だったそうです。また協会として、グループの依頼要請があれば出張指導、講習会なども行っているそうです
  
 
  雑 感
「季節物」と考えていた矢先、さつき展”が開かれると耳にした。尼崎皐月協会会長宅へもおしかけ、ご迷惑をおかけした。「人の心は、花木の心に通じる」様なお語しを聞いた事を思い出す。会期中会場にも出かけたが、自信作品がずらり出品されていて、圧巻そのものであった。いうまでもなく「無償苗」をいただいたが、枯れて今はもうない。面倒みいが悪い。さつき展があると思い出す。
(S60年秋・齊藤)  戻る





昭和53年7月
   5、中国街道 
  昔をしのばせる道しるべ
 わが尼崎は、早くから開けた町であり、その中でも阪神電鉄尼崎駅の南の方がいちん古く、尼崎市発祥の地であります。
 明治42年(66年前)の地図を見ますと「川辺郡尼崎町」とあり、北竹谷町のあたりから蓬川までは、ほとんど水田で農家が点在していたに過ぎません。現在の竹谷小学校の北側の道路は、今でも「旧国道」と親しまれていますが、当時は中国街道と呼ばれて、西は琴浦神社、武庫川、西宮小松の岡太神社へと続き、東は、学校の東北端の辻から東へ進み、南下して西本町から寺町へと続いていました。今でも竹谷派出所から東120メートルの四つ辻に、昔の道しるべが立っています。147センチの高さの御影石の大きな立派なもので、昔の面影を残しています。弘化3年と彫まれていますから、ちょうど江戸時代の後期、今から129年前に建てられたものです 
  思い出

 倒れかかっていた道標は、少し位置を変えて建て直されました。というのは写真で見られる建物がなくなり、新三和商店街に入る道路にそってきれいに整備されたものです。
 その昔西本町から出屋敷にかけてとても栄えた町です。戦後もまず出屋敷にバラックの店が立ち並び、そこから現在の新三和商店街へと続いていたそうです。「地盤沈下」した出屋敷の復興をねがわずにいられない気持でいっぱいです。(S60年秋・山神)
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2009年4月8日撮影

昭和53年9月
     6、広徳寺
    
太閤秀吉ゆかりの寺
 今回は、寺町にある秀吉ゆかりの寺、広徳寺を訪ねました。そもそも寺町というのは、元和3年(1617年)に、戸田氏が尼崎城を築城し、城下町を建設するにあたって、新尼崎城区画内となる地区にあった寺々をはじめ、尼崎の各町内にあった寺々が城の西に移し集められ、ここに寺町を形づくることとなった。
広徳寺は、最初尼崎近郊大物の庄にあった。羽柴秀吉が、備中高松城を水攻めに毛利軍と戦っている時、本能寺の変が起った。
 秀吉は、信長の弔合戦のため、京都へ向かう途中尼崎にさしかかり、敵智光秀の伏兵に包囲された。その時、行く手に広徳寺の山門が見え、とっさに山門に逃げこんだ、この時、秀吉を助けかくまった功績により広徳寺は、秀吉より300石の寺領を受け、朱印を得たと伝えられている。
 当寺には、危難の時に秀吉が用いたという、摺鉢と蓮木が所蔵されている。 

思い出
 阪神尼崎駅のすぐ南西にある寺町。その中でもこの広徳寺付近は、いつ通っても門を閉ざして辺たりは閑寂として一歩ここから外へ出れば繁華街。都会の中で寺町らしい雰囲気をもった場所はここだけですね。
(山神)
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2009年4月8日撮影

昭和53年11月
   7、寺町界隈
    歴史をしのぶ寺めぐり

 三和市場の雑踏から、ほんの少し東へ行くと、閑静とした寺町があります。
 お天気のよい昼下がりその寺町の土塀づたいにのんびりと歩いていると何だか江戸時代にもどったような錯覚におちいります。
戦火をのがれて、風雪にもたえ。半分かたむきかけた土塀。また、最近修繕されてきれいになった塀もあり、時々、子供たちの声が「ワアーツ」と聞こえてくるだけで、ほんとうに一人で歩いていると誰かによりそいたくなるような静かな町です。
 近所の人の話では、普段の日は静かですが、お彼岸には、この道もお参りの人たちでにぎわうそうです。
 真言宗、浄土宗、禅宗等あらゆる宗派のお寺がありますが、比較的新しい浄土真宗のお寺だけはないそうです。
前回掲載された廣徳寺もその町の一角にあり、道をへだてた向こう側に本興寺があります。記者が訪ずれた11月1日は、たまたま年に一度の「宝物虫干会」が催され、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公御自筆の掛軸や、徳川時代の御朱印状の入った文箱、家康公の御愛用になった茶わん等、いろいろ展示されていました。

  
思い出
 東から全昌寺、本興寺、広徳寺、甘露寺、法園寺、大覚寺と並び、広徳寺の裏筋に東から常楽寺、善通寺が並び、大覚寺の表筋には、長遠寺、如来院、専念寺と11ケ寺が軒をつらねています。
 
(山神) 
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昭和54年3月
    8、西武庫十三重塔
    風雪に耐えて建つ石塔
 お天気のよい、ある日曜日、宝塚行きのバスに乗り、武庫之郷で下車。にぎやかな商店街を西へぶらぶら歩くと西武庫公園へ出ました。
 以前、この欄で報道しましたように、尼崎では唯一の交通公園であり、小学校の見学場所としてまた、これから春が訪れるとお花見の場所としても絶好です。
 そこから南へ、西武庫団地を横目で見ながら約300メートルほど歩くと武庫川の東岸にある、須佐男神杜境内に「西武庫十三重塔」が建てられています。
 鎌倉末期の元応2年の年号があり、神主、三室某が両親の供養のために建てた供養塔です。花こう岩製で軸石には阿弥陀如来像や、地蔵菩薩像が刻まれています。ちなみに県指定文化財です。
 ここは、尼崎のサイクリングコースの中の1コースでわずか2〜3時間で楽しめるコースです。これからだんだん暖かくなります。家族ぐるみで楽しんではいかが。 

 随 想
 今から5年程前、小学校五年生だつた息子を連れて、伊丹の近くにある場所を取材に行ったのですが、どうしても目的地が見つらず途方にくれて、交通公園の近くまで帰って来たのです。原稿〆切も迫っていてやはり今日中に何とかしなければと気がはやり、近所の方に聞いたところ公園の近くに西武庫十三重塔があるとの事。急遽変更して文句タラタラの息子をひつぱつて取材に・・・。未だにその時の事をチクリと言われます。(S60年秋) 
 今回の地震で塔は倒れて、その周りに散在、本殿はとり壌され、常夜燈も倒れ、石が飛び散って、地震の強烈さを物語っています。

(H7
年秋・山神)      
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昭和54年7月
 9、近松門佐衛門
  ひっそり風雪をしのぎ

 梅雨のあいまのよく晴れれた午後、久々知にある広済寺と近松記念館を訪ねました。このお寺は、日昌上人が法華経の道場として再興した禅寺であります。
 かの有名な、「曽根崎心中」や「心中天綱島」等心中ものをたくさん書いた江戸の文豪近松門左衛門は、日昌上人と深い親交があり、このお寺にたびたび訪れて執筆したといわれています。没後はこの広済寺に葬られ、お墓は樹齢250年というモチの木の大きな根元にあり、ひっそりと雨風をしのいでいる様に小さな墓石が建っています。

 お寺自体、現代的なまわりの環境の中に、ぽつんとわびしく忘れられたように感じられますが、近松の墓の前で手を合わせると、まわりの雑音から閉ざされて、何かホッとするような気がします。

ちなみに昭和41年3月、国の史跡に指定。その朽ちかけた寺の隣りに近代的な建物、近松記念館があります。ここは「大近松250年祭」にあたる昭和48年に計画され、昭和50年11月22日の近松命日に完成されました。約60点の近松遺品が展示されているのをはじめ、二階には浄瑠璃の舞台ホールがあります。毎年11月22日の命日には盛大に近松祭が行なわれます。昨年は中村鴈治郎等が来て、大いににぎわったものです。 

  
思い出
 廣済寺の境内、本堂脇の墓地には高さ50センチ程の緑泥片岩の自然石があります。
     あのくいんぼく にちいちぐそくこし
表面には、「阿褥院穆い日一具足居士」と彫られています。生前、近松門左衛門が自分でつけた戒名であり、辞世にも残されているものです。裏に享保9年11月22日の寂日が刻まれています。享保九年は1724年ですので260年前のことです。
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昭和54年9月
      10、市内5ヶ所のポール
     台風の悲惨目にうかぶ
 空は澄みきって、ぐーんと高くなり、静かにおちついて充実した季節。芸術・スポーツ・食欲の秋とおしゃれの秋・・・秋にもいろいろありますが、もつ一つ忘れてはならない台風の季節でもあります。
 ここ尼崎市は、大阪湾の奥深くにあるため、風が北上してきた場合、高潮の猛威を最も受ける宿命的な位置にあり、その上、年々の地盤沈下ため、海岸の近くでは海面よりも低くなったところができ、海水が堤防をこえて町に流れこんできて、住民の生活は恐怖にさらされていました。昭和9年9月、室戸岬、徳島、淡路島を経て尼崎附近を通過した「室戸台風」は想像に絶するもので、死者145人、行方不明7人、中でも城内及び小田地区では、小学校の倒壊による児童と先生の災害死者が相当に出たそうです。
 また、昭和25年9月、室戸岬東方四国を経て、淡路島、神戸へ上陸した「ジェーン台風」は国鉄東海道本線以南を泥の海と化し、その惨禍は目を覆うばかりであったそうです。

ジエーン台風の後、高潮対策を根本的なものとするため延長約12キロメートル、30億円の経費をもって昭和31年大防潮堤が完成しました。
 現在、市内に五力所、「室戸、ジェーン」台風の浸水の悲惨さを物語るポールが立っています。見かけたことはありませんか? ふだんは何気なく見過ごしてしまうポールも、台風シーズンがやってくるとあらためて見なおす気持ちになります。

■市役所、■国鉄尼崎駅南口、■阪神尼崎駅南北、
■城内児童館西側、に写真のようなポールが立っています。

(山神一子)

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