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2007.1.29アップ
2013.7.12更新
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         酒を飲むだけの青春時代でした     かずのり

プロローグ

 最近の事です、がやがやと保育園の子供たちが、保母さんに連れられて前の道を通りながら、私のほうを指して「あっ、お爺さんが松ノ木に登っている」と言って、見上げながら「何をしているの」と声をかけて通り過ぎて行きました。
そうなんです。私は植木屋さんなのです。
 いつの間にか66才のおじいさんになってしまいました。断酒会に入会し、酒を止めさせてもらっているお陰で元気に仕事が出来て、長生きが出来ているんです。
私にも、青春時代はありまして夢もあり、希望に満ち溢れていた頃がありましたよ。思い起こせば、ついきのうあったことのようですが、ずいぶん時間が経っているんですね。

 子供の頃、田植えの後のお祝い事や、結婚式のお祝いで酒を呑んだり、タバコを吸ったりしている大人の人を見て「早く大人になって、大人のしている事をしたい、腹いっぱいおいしいものを食べたい。早く働いて親孝行がしたい」と思っていました。
 中学3年生になると自分の進路を決めなければいけないわけですが、何をしたいのか自分では皆目分かりません。9年余り母親の実家の離れを借りて生活をしていましので、叔父さんが父親みたいな存在でしたから、どんな仕事をしたら良いか相談をしました。
でも、叔父さんは「自分の事なんだから自分で決めなさい」と言っただけで、私は、どんな仕事がしたいかも分からないまま、学校へ一番先に人探しに来た会社へ就職する事になりました。この頃は、『金の卵』と言われていた時代で、卒業式を待ちかねて神戸のダンボールを作っている会社の寮に入り、あくる日から仕事に就きました。

  大量飲酒   加速・始める

 入社してすぐに桜の花が咲いて、夜桜に連れて行ってもらい、はじめてアルコールを口に入れたのですが、食べ物と同じ感覚で、合成酒を吐いてもはいても呑んでいたんです。そして、タクシー乗り場までオンブをしてもらって、会社の寮まで連れて帰ってもらったそうです。(まったく覚えておりません)
 15歳でブラックアウトを経験したわけで、アルコールの怖さを知るはずもなく、ただ「自分は酒に強いんだなあ」と思っていただけでした。祝い事の席で、私は、『からし味噌』を付けて食べるフカを蒸した料理が好きで、よく食べていましたが、これを見て叔父さんが「お前は、大人になったら大酒飲みになるぞ」と、言っていたことをずっと覚えていました。
それと、父親が大酒飲みだったのを、母親が無理やり止めさせたら、甘党になってしまって、黒砂糖をご飯の上に乗せてお茶漬けにして食べる様になり、胃潰瘍になって死んでしまったと聞いていました。
自分は酒を飲める男なんだと思い込んでいましたので、まったくアルコールには無防備なまま大人になってしまったわけです。

 でも、この頃は、まだ酒を飲む習慣は付いてなくて、もっぱら食べる事が一生懸命で、会社の食堂で、釜の焦げ飯の取り合いをしたり、仕事が終わればお好み焼きを食べに行ったり、パン屋へ行ったり、駄菓子を買ったりで貰った給料は殆んど腹の中へ入れて、無くなっていました。
そして、思い出したように、特に誕生日などは酒屋へ行ってトリスの丸瓶を買うのですが、それを一人で、食べ物と一緒の感覚で、いっぺんに飲んでしまってはトイレの中で朝まで寝てしまったり、通路に吐いたりして、寮の同僚に迷惑をかけることや、恥ずかしい思いをすることもあり、徐々にアルコールを飲むと後味の悪い思いをするようになっていきました。

大量飲酒   暴走・止らない

 20才になって体だけ大人になった私は、結婚をした姉の近くで、念願の母と二人の生活を始めました。
私は、長距離の運転手になり、最初はまじめに働いて幸せな生活をしていましたが一年余りで母親を置いて家出をしてしまったのです。
 そのわけは、職場の先輩にネオン街へ連れて行ってもらったのがきっかけで街の赤い灯、青い灯の中で飲む酒の味を覚え、時々嘘をついては夜中に帰ってくるようになって、母の小言を聞くのがイヤになったことや、会社の車で事故を起こしたり、付き合っていた従妹に結婚を断られた事など色々と理由をつけて、このまま運転手をするのがイヤになり、真剣に自分の職業や生き方を考えた末、子供のときから山の仕事や、農作業を手伝っていたのを思い出して、年をとってからでも出来る仕事が良いと思うようになり植木屋をしたいと考えつきました。

今になって思えば、ただ自由に酒が呑みたかっただけのような気がします。少年時代の純粋に母親を思う気持は、酒の味を覚えた私にはもうどこかへ行っていたんです。
それからの私は、各地を転々としながら働いた給料はほとんどが酒代になって慢性金欠病になり、心の中は、何時も隙間風が吹いているような侘しさがつきまとっていたのを思い出します。二十歳半ば過ぎた頃には、大酒を飲んでは仕事をサボる癖が付いてしまい、職場の人たちともうまい事いかなくなっていました。
「又、メガネに蜘蛛の巣を張らせて寝ていたのか」とか「あんたは、幸せ者だよ、好きな酒を腹いっぱい飲んで働いたお金は全部腹の中へ入れてしまって、これだけたしかな事は無いよ」などと冷やかされても、私は、「自分は、35才迄生きていれば良いんだからこれで良いのだ、太く短く生きるんだ」とうそぶいていました。
そして、二日酔い、三日酔いで仕事を休む時、職場にする電話もだんだんと理由が無くなり、無断欠勤をするようになっていました。     

 何日も仕事をサボった時、特に給料日の後などは職場へ出る時が大変でした。タクシーの運転手をしていましたので、一週間も仕事を休んでいると他の人が、私がのる車に乗っているので、いつから乗務出来るか分らず、恐るおそる電話をかけるわけですが、ダイヤルを回すまでに何日も時が過ぎていました。
今度は、何を言われるかと億劫になり一日伸ばしに休むわけです。
「もうこんな事はイヤだ、もう少し酒を控えて真面目に仕事をしよう」と思うんですが、そのときだけのことでして、こんな同じことを10年余り繰り返していました。

 やっと食事が喉を通るようになってくると体は元気を取り戻し、このまま仕事を休んでいては生活が出来なくなるし、クビになってしまうと思い、気を取り直して会社へお伺いの電話をするわけです。
出勤しても、出来るだけ同僚と顔を合わさないように早いめに出かけて車にのって流しに出るわけですが、無線が入って「○○号車、車庫へ直行」と言われると胸がドキドキでした。

 二日酔い、三日酔いで寝ている時には、時間の過ぎるのが遅く、いつまでたっても時計の針が進みません。
天井の節穴を見ながら考えていた事は『何でこんな自分になってしまうんだろう。人に馬鹿にされ、さげすまれても平気で生きている自分。同年代の人たちが、結婚をして家庭を持ち、子供を何人くらいつくってと真剣に話をしているときにも、私は、鼻で笑って「この世の中何が起こるか分からないし、おれは一匹狼だ、好きな酒を飲んで太く短く生きていければ本望だ」などとうそぶいていたのに、とても寂しくなって涙ぐんでいる自分「こんな生き方をするために大人になったんじゃあない」と、思いながら自己嫌悪に陥ってしまって、どうにもならないでもがいている自分。そして、空想の中で、死体が見つからない死に場所を一生懸命探している自分。等など』。
 何日も寝ながらどうどうめぐりをしているだけで何の解決も出来ません。「あの時に一軒の店だけで帰っていればこんな思いをしなくて済んだのに」と思っても、飲みに行く時は必ず「今日は早く帰って寝て明日は仕事に出なければ」と毎回考えていましたが、ひと口アルコールが入ればどうしようもありません。
ひと口のアルコールで考えが変わってしまう情け無い自分に愛想をつかして自己嫌悪は増すばかりです。それでも懲りずにほとぼりが冷めない内に飲みに行くんです。

  大量飲酒   ブレーキ・かかる

 こんな大酒を飲んでいた私が、32才の頃、ある日突然2・3合の酒を飲んだら後は飲めなくなったことがありました。
「今日は、給料日だから巷へ出て酒を飲もう」と思い、「まず近くのホルモンの店で下地を作ってから」と、いつもの段取りで出かけて飲み始めるのですが、胸が息苦しくなり、動悸は激しくなるわで、巷へ行くどころかやっとの思いでねぐらへ帰って寝てしまいます。
「この前は、どこか調子が悪かったからだろう」と思い、又、非番の日に挑戦するんですが、やはり2・3合の酒であとは飲めません。
何ヶ月もこの状態が続くと、自然に少しの酒でも納得ができて、これで少しはまともな生活が出来るんではないかと、希望が持てるようになり、気持ちがずいぶん楽になりました。
  深酒をしなくなると、仕事を休む事が無くなり自然にお金も残って来るし、体が楽になる、人から嫌味も言われなくて済む、売り上げも上がるしでやっと生活が楽になったと喜んでいましたが・・・つかの間の夢みたいなものでした。

  大量飲酒  ブレーキ・壊れた

 酒が、あんまり飲めない状態が6ヵ月位続いたでしょうか。
 ある日、綺麗なお客さんから名詞を貰い、昔の癖が出てきてデート出勤の約束をして飲みに出かけるようになったんです。飲めなくなっているのに無理やりカンバンまで飲んでいると、何回か通っているうちに、又、以前の様に飲めるようになり朝まではしごをして飲み続けます。
 「私と酒とどっちを取るの」と彼女に言われても、最初に名詞を貰った時の心のトキメキはもうなくなっていました。
 彼女とデートするよりも、次の酒を求めて飲み屋街をウロウロするようになっていたんです。
 もうこうなってしまった頃には、飲ませてくれる店も少なくなっていました。
行きつけの店の入り口を入るなりママさんが「あんたに飲ませる酒はないよ!」と金切り声を上げるのに、まだしつこく止まり木に座ろうとする私を、抱きかかえて表に連れ出される。それでもまだしつこく「酒を飲ませろ」と言う私。追い出されてすごすごと立ち去る後ろの方で、「塩を撒いとき!」と叫ぶママさんの声がする。
 職場の同僚が「昨日は、街で見かけんかったが、どないしていたんや」と言うくらいに巷をさまよっていました。

   大量飲酒 サイドブレーキ・かけてみる

 私の飲酒は、お金があれば大酒を飲み何日も寝ては酒を切る、いわゆる渇酒症タイプの飲み方で、素面でいる時もありましたので、真剣にこの生き方を変えなければと考える時もありました。
 丁度そういう時に、知り合いから仕事の誘いがあり、転職をして果物屋の店番をすることになりました。
 住み込みで、深夜まで店を開けている仕事なので、これなら酒を飲みに行く暇が無いから酒を飲まないだろうと思い、頑張ってみました。
それも、半年たった頃には、朝起きれなくて店が開けられなくなってしまいました。
朝店が開いていないので起こしに来てもらったんですが、仕事が終わってから明け方まで酒を飲んでいたので、前後不覚になって寝ていて「死んでいるのではないか」と大騒ぎになってしまいました。店のオーナーには、大変迷惑をおかけして、この店も半年あまりで辞める事になりました。
 住込みでしたのでたちまち寝るところが無い、どうしよう、どうしようと知り合いに電話をして行き場所を探しましたが、誰も相手にはしてくれません。かと言って、母親のところへ帰るのも気が咎めてなかなかその気には慣れません。2・3日駐車場においてある店のライトバンの中で寝ながらあちこち仕事を探しましたが、とうとう金沢を離れる事になってしまいました。
 金沢に10年も住んで居れたのは、、この街で知り合った大勢の人たちに寛大な心で支えられていた事をこの時には気が付きませんでした。

  
大量飲酒     故障・動けない

 丁度この年が、35才になった処でして、私が、二十才半ばに考えていた死亡年齢です。体は元気でも、世の中からは見放され住む所も無い、助けてくれる友達も居ない、一人ぽっちの行くあての無い私になってしまいました。『一匹おおかみ』は、生きていけなくなってしまいました。断酒会にたどり着く五年前の出来事です。

  
節酒  母親や姉の監視つきで1年

 6月に入り梅雨の走りの大雨の降る中、行き場のない私は大阪駅から姉の家へ電話をして、拝み倒してやっと「話を聞いてやろう」と言ってくれて尼崎の姉夫婦の家を訪ねていきました。・・・つづく

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