2006年トップページに載せた短編の体験談集  ホームへ
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   お知らせ 長い間ご利用いただき有難うございました。本年10月31日をもって このホームページを終了させていただきます。 尚、リニューアルして引き続きアップしますので宜しくお願いします。 
            引っ越し先https://www.dansyu.jp/ 渡辺和宜・順子
 拝
   

2月のある寒い日いつもの様に酒が切れて、いつものように酒を探す。
一人暮らしの汚い部屋にいくら探しても空ビンしかない。
買いに行かなければ酒を手に入れる方法は無い。

ピンク色のパジャマの上にオーバーをはおり、毛玉の付いたパイルのソックスを履く、毛糸の帽子をかぶり透けて見えない花柄の手提げの袋を持つ、いくらかの小銭を持ち「ヨシ!行くぞ!」その前に鏡を覗いた。自分の顔がむくんで青白く目は腐った魚の様です。

「ワアーーこれが私の顔?この顔では外に出れない」もう少しましな顔にならないとお日様に恥ずかしい。又、酒屋さんも「あんたに酒は売らん」と言って帰されるに決まっている。
 せっかく外に出ても無駄になる。諦めてオーバーを脱ぎ毛玉の付いたパイルのソックスを脱ぎ、毛糸の帽子も脱いで、冷たい汚いベットに入る。


 その時、毛布の中から髪の毛がいっぱい出てきた。「何なん?」髪の毛は大きな丸いかたまりになり、針の様に私の足に突き刺さる「痛い痛い」でもその髪の毛をよけて布団に入る。大息をして、「ああ・・・しんどい目したわ」。
 布団が温もりもしないのに、酒を買いに行きたいと思っている。
頭も体も酒の事で、明日が見えないし考えもしない。「これから私はどうなるの?」そんな事どうでもいいんです。今ここに酒があれば良いのです。
狂っていました。完全に。悲しいけど、事実そうだったのです。

 10分位じっとしてます。限度です。又起き上がります。さっきと同じ事を懲りもせず繰り返すのです。オーバーを着て、パイルのソックス履いて、毛糸の帽子をかぶり、袋をさげて鏡を覗くのです。人が見たら狂っているのがすぐ解ります。
自分の顔を見て、又ベットです。
 日が沈み薄暗くなると、さあ酒屋に走ります。1本900円のレッドを手にした喜びは、どんなものを貰うより嬉しいのもなのです。明日の朝自分の体がどうなっていようと。 

 髪の毛玉は、いたるところに出るようになりました。もちろん布団の中にも出ましたが、トイレに座りタイルの角っこに目をやるとそこにも見えました。
黒い毛玉が見ている間に大きくなり、あっという間に飛びついて来るのです。
怖い、それが幻覚の始まりでした。
 いつも駆け込んでいた内科の先生に相談すると、神経科の先生を紹介してもらって心療内科を訪ねて行き症状を言いましたが、何の説明もありませんし何の治療もなしで帰されましたので、アルコールが切れた時に出てくる禁断症状だということを教えてもらえないままでした。
 人のせいにするわけではありませんが、今思うと私は、その時アルコール依存症の治療を受けるチャンスだったと思います。
 アルコール依存症になっていることを知らないで、まだまだ飲み続けた後にやっと岡山の県立病院へたどり着く事が出来ました。
 


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      順子です

昭和から平成元年に年号が変わる、2月28日の夕方5時過ぎ、寒くて薄暗くなった尼崎に、生まれて始めて岡山から出てきました。46歳でした。 

 酒をどんなにしても、止めることが出来ず、明日は命が無いかもしれないとこまで落ちていました。「酒飲んで死んだら本望じゃあ」と思いながら、どうせこの世には未練など無いし、生きていてもなんの値打ちも無い。
身内にも縁を切られ、仕事も出来ないし金も無い。
 死んだ両親の所に早く行きたい、と自殺未遂何度繰り返しても死ぬ事さえ許してもらえない。どうしたらいいの・・・汚い布団の中にも身の置き所がない。
目をつむると、真っ暗な穴の中に落ち込んでいくのが怖い。
最後は怖くて眠る事さえ出来ませんでした。

 こころの中で思うことは33歳で離婚して、置いてきた二人の子供でした。
「逢いたい、一目でいいから逢って死にたい」でも酒を呑んでいては子供には逢えない。それじゃ酒をやめなければ逢えない。酒を止めるのに何年もかかり、こんなに苦労しているけど止められない。最後に思いついたのが渡辺でした。
記念大会や断酒学校で顔見知りになっていました。そしてまだ単身者とも聞いていました。
 何より一生懸命断酒していることを見ていましたので、私は、狂った頭ででも電話をかけました。「酒を止めて生きてみたい。子供に逢いたい」と留守番電話に何度も何度も入れていました。
 遠くの記念大会に行っていた渡辺から、夜になってから電話があり明日来てくれる事のなりました。(電話の様子がおかしいと思って電話をしてくれたそうです)

次の日、ボケた頭で朝10時頃バス停に立っていました。何台もバスを見送り、アパートに帰り考えてみました。「今日本当に家に来てくれるの?」と思いながらも汚い部屋を少しきれいにして、コーヒーの仕度をして待っていました。11時頃チャイムが鳴り、おもてに渡辺が来ていました。
 運命を感じました。そして、その日のうちに私は新幹線で尼崎に来たのです。
色々ありましたが尼崎の生活に馴れどんな事をしても止められなかった酒が止まっております。もちろん子供達と交流出来ています。
「本気になって断酒をすれば私だって出来るんだ」とつくづく思うこの頃です。 
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 順子です
 4月になると、22歳の頃の本当にイヤな事なんだけど思い出します。
岡山の寿司屋に住み込みで働く事になり、イキナリ水商売らしき仕事、ミシンや百貨店からすればまったく違う仕事です。でも、1ヶ月住み込みの9,000円は魅力がありました。朝8時起き、夜11時が閉店と言うのは若かったから出来ました。

  春になり、初めて店から慰安旅行に連れて行ってもらい、すごく楽しかった。温泉に入り、そろいのゆかたに着替え、記念の写真も撮り、うぐいすの声を聞きながらウキウキしていました。

皆揃ってお膳を囲み、社長のカンパイで酒盛りが始まりました。ここまでは良かった。私は飲める口を持っていたので、皆に面白半分で酒を飲まされ自分の飲める範囲をしらなかった。ヨッパラッテしまい泣き出した。「順ちゃんは泣き上戸だ」と大笑いされお膳の並んでいる真ん中でワーワー大泣きした。向かいの2階にいる人達が「あのお姉さん泣いてるで」と笑っていた。私は、上を向いて寝ていたので自分からも見えました。とても恥ずかしかったことを思い出します。

 帰る時には、一人で歩けずにお店の男の人におんぶされ、自分の靴をぶらさげて、タクシーに乗せてもらいました。

その後も、なにかの話にいつもその時の話が出てイヤでした。酒の飲める量を知らなく大恥をさらしたお花見でした。まだ時効になりません。 

 色々ありましたが尼崎の生活に馴れどんな事をしても止められなかった酒が止まっております。お陰さまで、あれほど逢いたかった子供達との交流も出来るようになりました。「本気になって断酒をすれば私だって出来るんだ」とつくづく思うこの頃です。
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  5月になると色々の事が思い出されます。

26歳の時5月の末初めてのお産です。前夫は事故で他の病院に入院。
私は、荷物を作りタクシーで岡山の博愛会病院に一人本当に心細い思いで入院しました。付き添いは、誰もいませんでした。
23時間20分かけて、2800グラムの息子の誕生でした。

 次の日看護婦さんに「お母さん、おっぱいの時間ですよ」と言われ、始めて我が子を抱きました。昨日まで私のお腹の中に居た子供がお乳を飲んでくれている、この柔らかさ、この暖かさ。この子の為に私は命を掛けて育てて行くのだ。その時の気持ちは嘘ではなかった。  

 子供を抱いて退院したけど、前夫の退院は時間がかかり私は、夫が勤めていた仕事を、かわりに働く事になり、小さな赤ん坊を人に預けて、長靴を履いて魚屋の仕事に復帰しました。
時間が来るとお乳が張り辛い思いをしたのです。
 入院中の夫が、夜になると抜け出しお寿司を食べに行ったり、お姐さんの所へ酒を飲みに行っている事を耳にして「女の辛さが解るん
か!」と腹を立てていました。
 夫は、体調もおもわしくなくて、入退院を繰り返えし、事故の補償は入ってくるしで仕事に実が入りません。
「なんとかしなくては」と考えて、二人目の子供を作る事にしました。
 2年目に娘が産まれました。お産の10日前まで、私は長靴で仕事していました。大きなお腹が、まな板についていました。ゴムのエプロンの紐が、結べないぐらいになっていました。
 そんな頃に、自分達の店を持つことが出来るようになり、仕事は
一緒にしていましたが、前夫は夜家に帰らなくなって来ました。子供を二人育てながらの仕事。休みの無い毎日。クタクタです。

 私の飲酒が始まりました。眠りたい。最初はそれだけでしたが、疲れを取るため、もちろん夫の女の事もです。みえみえの浮気でした。
「私はしんどいんだよ、疲れてクタクタなんだよ」と訴えても、夫は聞く耳をもちません。酒がドンドン増えました。仕事が出来ません。もちろん子育ても出来ません。
  息子が1年生になり、ぴかぴかのランドセルをしょって小学校に行くのを見て間もなく、私は精神病院の中に居ました。

一度目は早い時期に退院させてもらったんですが、

私の留守に、二号さんが家に入り込み、店に私の長靴をはいて出ていました。
 私は、入院費も払ってもらえず、ナプキンも買えませんでした。
現在、息子は38歳になりますが、親がヒイキ目に見ても立派なアルコール依存症です。もちろんACそのものです。
 私は、息子に対して酒を飲んでいない姿を見てもらうより他に、方法が無い事は知っています。辛いですが、見守ってあげるしかありません。

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   6月


 もう36年前になります。娘が生まれる日も私は大きなお腹をかかえ、2歳の息子を夫の母に預けてタクシーで産婦人科に一人で行きました。
寂しいとか、不安は前と違い、すでに諦めの状態で、人様を羨む気にもなりません。現実はこの子が産まれたら、夫が少しは身を入れて仕事をしてくれるのでは?の大きな賭けでした。
 2600グラムの小さな可愛い女の子でした。
私の期待とうらはらに夫の外泊は止まりません。
 子供二人になると、私はそれまで以上にしんどくなり、仕事、子育てにまたまた身も心も、くたくたの毎日です。

 眠れない、寝なければ明日が辛い、もんもんとした日が過ぎて行きました。町医者に眠り薬をもらいに行きました。3日分しかくれません。
店の空いた時間に、薬をもらいに行くのは大変な苦労がいりました。
 店の隣が肉やさんです。ある程度の事情を知っていましたから「そんな薬飲んでいたら本当の気違いになるよ。ビール飲む様にした方が良いよ」と教えてもらいました。
その夜からビール2本さげて、二人の子供を連れて団地に帰る様になりましたが、もともと飲める口を持っている私はビールで収まるはずがありません。
すぐ1升瓶になり、瓶はかさばるので、すぐウイスキーに変わって行きました。
 レッドのウイスキーは、気持ち良く私の身も、心もとき放ってくれました。
でもそれがアルコール依存の入り口だとは思ってもいませんでした。
 子供を寝かせた後私の一番楽しい時間です。おかずなどいりません。
そうなると、今まで帰ってきて欲しかった夫が、1ヶ月に一度帰って来るのがうとましくてたまりません。気分良く飲んでいるのに、なんで帰ってくるん?「そうか、今夜女にフラレて来たのか」まじでそう思っていました。
 二日酔いが始まりました。朝酒になりました。店で酒が切れます。手が震えます。伝票が書けません。トイレに行く振りをして二階の喫茶店に走ります。コーラの中にウイスキーをダブルで入れてもらい、一息入れるのです。
 でも悲しいけど、これも長く持ちません。数日で夫に知られてしまい「お前二階のママさんに聞いたぞ、ウイスキーを飲みに行っているそうじゃな」と怒鳴られてしまい、行き場を無くした私はふてくされて酒のある場所を探すはめになりました。客やのに、いらん事しゃべるママさんに腹を立ててました。

 もう酒が無ければ辛い体になっていました。やがて子供の世話が出来なくなり、店にも出してもらえなくなり、すべて出来なくなって行きました。
 お金は一円も持たせてくれません。でも私の酒にかける執念は半端でなく、酒の地獄に落ちて行ったのです。そして、精神科へ。

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      7月梅酒を漬ける季節になると、又、思い出されます。

 精神病院から、兄と妹に連れて帰ってもらって実家の一部屋をあてがわれ、何をするでもなく悶々としていた頃の事です。
 まだ自分がアルコール依存症なんて考えてもいなかったし、酒が私を支配しているとも知らず頭の中は、ただ一杯の酒が欲しくて他の事などなんにも考えられない。モチロンお金も無い。
 兄は、「順子に酒を飲むからお金を持たせるな」と言っていましたが、兄嫁さんから「ジュースを飲みたい」と言って100円玉を貰い、それを貯めてはポケットウイスキーを買って飲んでいましたが、すぐに、後の酒が欲しくなります。

ある日、妹が子供の参観日に行くから、留守番に来てミシンの下手間にして欲しいと頼まれました。里にいてもする事もないので、手伝いに行った時のことです。
 アイロンしながら「今なら誰もいない、台所に酒があるはずだ、今を逃したらチャンスは無い」と妹が留守をいいことに、急いで台所に行きました。
  この前に、婿さんのワインを盗んで飲んだ戸棚を開けて見ると、漬けたばかりの梅酒が見えた。まだ氷砂糖が溶けてなくて、青い梅は鮮やかでしたが、梅酒の瓶は手におえず、コップは入らず、少し考えて「そうだ、おたまだ!」我ながら酒呑みの悪知恵に感心しながら、グラスとお玉で梅酒をゲット。もちろん最初は一杯のつもりで・・・
知らん振りでアイロンをしてるのですが、すぐに又台所です。
「もう一杯」で、終わるはずのない酒、気が付くと瓶の底が見えるようになるまで飲んでしまっていました。
 「どうしよう、バレてしまう!」もうショウチュウの35度でぐでんぐでんなのに。又、知恵が出る。グラスで何度も水を入れながら瓶を一杯にした。
 アホな知恵と笑われると思うがその時は自分でも驚くぐらい真剣でした。
その後の事は何も覚えていません。妹がいつ帰ったのか、私はどうなったのか・・・
 33歳の時のおおごとの話は、今も妹から聞く事が出来ません。
いまさらながら申し訳ない気持ちで一杯です。ごめんなさい。

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  酒を呑む様になり、一番辛い季節が8月でした。

 風呂に行く220円の金も、パンと牛乳を買える220円の金もすべて酒代にかわり、ワンカップひとつで足りるはずも無いのに酒を求めていました。
金も無い、仕事にも行けない汚い部屋の中で、アセモと、汚物にまぶれてその日暮らしの生活が続いていました。
 そんなある日、お隣に新婚さんが引っ越して来ました。窓から洗濯機や、冷蔵庫を運んでいるのが目に入りました。ピカピカに光る所帯道具を見て、「いいな〜新婚さんは。20歳代の若夫婦かー」私にはなんの関係もないけど。でも夜若い二人の笑い声がシャクにさわり、金も無いのに外に出ます。
 朝目が覚めると自分の汚いベットで気が付きます。
鏡を見て昨日の事は何も覚えていませんが、顔のすりきずで昨夜のしでかした事を必死で思いだそうとしますが、何も記憶にありません。
その夜から、禁断症状が出ます。もう酒は受け付けません。水を飲んでも、噴水の様に噴出してゲー、ゲーを夜どうし繰り返すのです。細い電気の明かりが、壁と柱の間から私の暗い部屋にすじを通します
 私は、大声で叫ぶのです。「これから幸せになる私の邪魔をしないでよ」「お願いだから、私を放っておいてよ」その後はゲーゲーの繰り返しです。
お隣の新婚さんは、気の毒に3日目に新品の所帯道具持って、出て行きま
した。大家さんにどう言って出たのか知るよしもありませんが、今思い起こせば大変な事をしていた事に気づかされています。(ごめんなさい)
 そんな事があっても私の酒は止まるどころか、ますますひどくなり、しまいには、救急車の人もこのおばさんこの前乗せたで」と言う始末です。

 自殺しても、死ねない生きる屍。今まで診てくれていた病院は「うちではよう診んから行くべきところへ行ってくれ」と言われて、もう診てくれなくなってしまいました。
 それからまもなく、兄と、福祉のケースワーカーとで相談したみたいで、アルコールの治療をしている岡山県立病院に入院になりました。
 この病院で断酒会との出会いがありましたが、これからが「断酒会に入会しても酒を止められない順ちゃん」の始まりでした。

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  10月は今も昔も変わらず、秋祭りの季節です。


 47歳で、寝たきりの母が、寒い1月に天国に逝ってしまい、16歳の私は、
一番大泣きした事を、この歳になっても忘れる事は出来ません。

 生前に、母は私の知らない間に、おめしの着物と、長じゅうばん、名古屋帯を作ってくれていました。15歳の時、秋祭りに「着物を着てお宮に行く」と言う私に、兄はカンカンになって怒りました。「お前はお母ちゃんがこんなに悪い(病気)のに着物着てお宮に行くんか!」と怒鳴り、私が泣きベソをかいていると、母は蚊の鳴くような声で「ええがな、せっかく着物作ったんだから、これ着てお宮に行っといで」と言ってくれましたが、私の心はとまどってしまい、結局は、母に晴れ着を着て見せる事は出来ませんでした。

 私が兄に逆らえなかったのは,その時だけでなく、もう何年も私と、三歳下の妹への、今で言う虐待です。
殴る、ける、ゲンコツが飛ぶ、自分の手が痛いとほうきの柄でなぐられ、頭のたんこぶが7つ8つがざらにあり、手も足もいつもアザだらけでした。
 今笑い話で、妹と「たんこぶをお互いに数えたね」と話せますが、あの頃の私は毎日が地獄で、かまどで炊くご飯が焦げても、味噌汁が辛くてもげんこつ。鍋を洗い忘れたら大きな足で寝ている私の頭を蹴飛ばし、怒鳴りまくられ、冬でも井戸水を汲み外の寒い流しで、それも月の明かりで、泣いて洗っていました。
 この事を、母は全部知っていたと思います。宿題忘れたとか、通信簿が悪いならこれは叱られてもしかたのないことでしょうが、ご飯食べてても「お前のふーふーする息が掛かって汚い」と言うし、横を通る時もイヤなようでゲンコツがくる始末で「兄ちゃんは、私たちが此処にいるのが憎いんだ」と思っていました。
 一番辛かったのが生理の時、今の様に水洗トイレではありません
「汚い、いつまであるんなら!」この時、私は女である事を怨みました。

 そんな長い日が過ぎて、母は、私の手をにぎり「順ちゃん、順ちゃん」と呼びながら息を引き取りました。もう目が見えていなかつたと思います。
スイセンの花が満開で、梅の紅色が辛かった。

 葬式が終わり、親戚の人達が帰り、父は行商に出て行き、家に三人残りました。薄暗くなる頃、兄がポツリと一言「明日からお兄ちゃんは優しいお兄ちゃんになるから」私はその言葉の意味が解らずキョトンとしていました。
 
 次の日から兄が180度変わった。いままでの兄と別人の様に優しく穏やかで映画や、鷲羽山に連れて行ってくれるし、欲しい物も買ってくれる優しいお兄さんになったのです。
 兄の心境などわかりません。最近になってから気が付いた事ですが、兄が産れて直ぐ、父親は、召集令状が来て中国へ行ってしまい5歳になるまで父親の顔を知らないままで母親だけで育てられていた所に、父親が現れ、私と妹が出来て、おまけに父親が、私たち二人をすごく可愛がってくれていた事が、兄には、堪らなかったのだと思います。
 そして、行商から帰ってきた父親に寝たきりの母が言いつけます。そして、兄を叱っていたので、私達に八つ当たりしていたのではないかと考える様になりました。

 長い間の酒地獄の中で、虐められていた分、迷惑を掛け続けてきた私ですが、兄はどんな気持ちで暮らしていたのかと思うと、逢えるものならもう一度会って積もる思いを語り合いたいと思うこの頃です。

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  昭和17年11月22日午後4時生まれ。

 「空がぬける様なお天気の日に産まれたんだよ」と母は、私の生まれた日を幼い頃そう教えてくれました。
 もうすぐ64歳になる私、色々ありました。
私も、母親になった日があります。26歳の時もう後1週間で予定日の夕方、大きなお腹の私に、父親になる人が事故を起こして怪我をしたと知らせがありました。
「順ちゃん、心配いらんよ、検査してるから、すぐ帰って来るから」と・・・
 後で知った事ですが、大怪我で,生死にかかわる程の大事故でした。
倉敷の兄嫁や、又妹に何日か泊まってもらいましたが、予定日を過ぎても生まれそうにないので、医者に相談して、陣痛も来てない体で荷物を持って、初めてのお産で心細い思いをしながらタクシーに乗り病院へ行きました。

 5月31日午後4時頃に23時間半掛けて2800グラムの男の子を生む事が出来ました。
 次の日「お母さんおっぱいの時間ですよ」と言って看護婦さんが抱いてきました。私はやわらかくて、ふんわりした昨日産まれた自分のあかちゃんを抱っこしてお乳を飲んでもらいました。この子が元気で、幸せな子に育ちますように、神様にお願いしました。いとうしくて、「誰にも渡せない、きっと良い子に育てるんだ」と心に誓った事は嘘じゃない。

 でも結果は2歳下の娘と二人共、息子が一年生、娘が4歳の時離れ離れになってしまったのです。
 子育てをしながら、魚屋の商売をしながら、そして寝るために呑み始めたアルコールに囚われてしまって、子供よりも酒を求める私になっていったために・・・

 あれから38年経ち、私は今断酒会の皆様に支えられて、アルコール依存症と言う病気になりましたが、元気で暮らす事ができております。
 昨年子供達の父親は癌で死んでしまいました。64歳で太く短い人生に幕を降ろしました。
 息子や、娘はそれぞれの生活をしておりますが、まだ孫の顔をみせてくれないのが寂しいです。でもこれは自分でどうにもならない事です。
そして、誰を怨む事も憎む事も出来ません。
 これから先、年を重ねてもしあの世とやらで、母に会ったら叱られるかもしれないけれど「母さんいろいろあったけど、私の人生まんざら捨てたもんじゃなかったよ」と素直に言える様な気がします。 
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  12月になるといつも思い出します。

 忘れてしまいたい事ですが、忘れる訳にいきません。仕事に行かなければ食べていけない、というより呑み代がありません。
ひどい二日酔いの為、むかえ酒をして仕事に出るのは地獄です。昨日少し控えていたらと思うのですが、いつもの事です。
 その頃の体重が70キロで、かがんでする仕事はとても辛い体形でした。制服もサイズが合わず自転車に乗ればフラフラです。
いつも嘘をついて休んでいるのでもう休めません。
こんな辛い、呑みながらの生活でもクリスマスやお正月はやって来ます。
12月24日一人暮らしの私も100円の小さいケーキを買いあいも変わらず酒を呑みはじめます。もちろん呑み始めると止まりません。又嘘をついてサボります。
 12月の終わりには、お餅や、かしわ、ほうれん草などおせちらしき品を買い込みお正月の仕度をするのです。紅白などどちらが勝ったか何年も判りません。
 目が覚めたら1月の5日か、6日になっていました。酒を求めて何度も出入りしてたのでしょう顔はすりむき、手足は傷だらけです。それでも冷蔵庫を開けて数の子が見えると、又、酒を買いに行きます。お餅にカビがはえて、ほうれん草はべたべた、かしわは腐っていました。
 そして、体中が痛くて身動きできません。
私を訪ねて来てくれる人は誰もいません。水も受け付けません。ゲーゲーもどして胃液をはきながら、涙と汗で「もう酒はいらん、もう酒はのまん、こんなに苦しい思いをするのはもう沢山だ」と言いながら。何年もそんな生活繰り返しました。
そして、親から元気に生んでもらった体を、痛め続けていました。

06
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