樋口 雅山房<ぴ>
180x200 1965年






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    井上有一<愚徹>     
森田子龍 <灼熱>


井上有一 <骨>


加納守拙
<白雲無心>

加納守拙先生


樋口雅山房
吉祥文字展

開催のお知らせ


会期 2月7日(月)~2月27日(日)
月~金 9時から18時
土・日・祝祭 9時から16時

会場 STV北2条ビル
札幌市中央区北2条西2丁目

『出会いの書人』 墨人創立記念研究会 京都聖護御殿荘にて

 樋口雅山房でございます。昨年の東京展の時、編集の方から水を向けられ樋口さんの〝来し方″などを話してほしいと言われました。墨人会も創立同人が多く鬼籍に入り、先に馬場怜先生が同人を退かれて、辻先生のあとはこの樋口が古株に入るということでご指名されたと思いますが、正月早々大事な結成記念研究会で貴重なる時間を頂いて大変恐縮に思います。

 今回は、テーマを「出会いの書人」とさせてもらいました。青年は未来を思い、壮年は今日を思い、老年は過去を思うと誰かが言いましたが、私もはやくもとりかえしのつかない六十六歳の老人になってしまいました。日暮れて道遠しの感を持つ年令で、この機会を頂いたことは一層感慨ひとしおです。

 今日お話する「出会いの書人」は私が皆十代の青春時代に出会った三人の恩師、先達です。皆様もよく知る先達も当然入ります。私に(書というもの)を、教えてくれ、(書と私)を真剣に向き合わせてくれた、かけがえのない三人とのめぐり会いから出発したいと思います。この私にも眩しき青春があった訳です。まず、はじめの加納守拙先生は、私の書のルーツです。一人恩師といえる人です。郷里の札幌東高校の書道の先生であり、当時の北海道の新しい書をリードした書人で、私に「書の大道」というか(書という道)の意味を伝えてくれた人でした。

 二番目は当然、墨人での出会いです。その中で、私の書の青春の最大の憧れの書人井上有一です。同時代を生きてきた皆さんも同様の方が多いでしょう。ご存知の通り純粋な書作家として一生を全うした稀有な個性の書人でした。有一からは、(書作一筋の生活)そのものを教えてもらいました。誠に(書即生活)の人でした。

 最後は森田子龍です。皆様もそうと思いますが私にとって子龍は、書の羅針盤、道しるべそのものでした。森田子龍からは書を哲学すること、思索することの大切さ、(書とは筆において自己変革する場)であることを心ふかく教えられました。

 このように、とりえのない私ですが、〝書″とつながりをもてたお陰ですぐれた恩師や先達とめぐり会った者はそういないと思います。人生での私の大きな宝です。しかし、その恩に報いられない非力を反省する者です。

 加納守拙 森羅万象悉師

 私は、1941年、昭和十六年に札幌の時計台に近い街の小さな薬屋の次男として生まれ育ちました。ご多分にもれず戦中戦後でイモやカボチャで大きくなり、進駐軍のDDTで消毒されて大きくなりました。「書」というものとの触れ合いは、父親がクスリの看板を筆で書くのを見て育って、戦後の昭和二十三年に小学校に入学した時、近所で小学校の習字の先生のはじめた書道塾に十年間習ったという平凡なものでした。それが、札幌東高校に入学して加納守拙先生に出会って書にのめり込んでゆくのですが、先生に会う前の中学二年の時に「書」における一大カルチャーショックに出会いました。この頃に「書」を自分のめざす将来のものと定めていたのかもしれません。すでに書店や展覧会を自転車で徘徊する展覧会少年になっておりましたが、ある日近所のデパートに出品した北海道子供書道展に出した自分の作品を見に行きました。自分のは手本通りの教育書道で佳作でしたが、その裏の壁に並んだすごい作品群に大きなショックを受けたのです。まるで雑巾か何かで書いた、ふとぶととした力が紙から溢れんばかりのものがズラリと並んでいて、私は生まの書の作品群から初めてガーンと殴られたような衝撃を受けて帰宅したものでした。そして子供ながらに、その作品群を指導している指導者の中味が違うからだと思いを致したものでした。後にはたして、あの雑巾で書いたようなこどもの書の指導者こそ、後に出会う加納守拙先生だったのでした。

 加納守拙先生は、金子鴎亭や桑原翠邦の少し年長で、札幌師範学校在学中から、北海道で早くに古法帖による古典主義書道を教えていた大塚鶴洞に指導され、現代書の父といえる比田井天来、川谷尚亭にも直接益をうけた北海道における戦前からの書のリーダーの一人でした。同時に子供の心と体の発達に則した情操教育としての書道、児童の書、(童書)運動を昭和の初めに日本ではじめて実践したといってよい書教育者でもありました。戦前に旭川師範学校で、中野北溟はじめ多くの著名な書人、教育者を育て、佐藤大朴、塩田慥洲先生も若い頃から童書連動の指導を受けた人々です。又、原爆の図をかいた女流画家・丸木俊さんも旭川高女時代に加納守拙に見い出されてます。

 私は1957年から1960年の三年間、札幌東高書道の授業とクラブ活動で指導を受けます。先生はその昔、極東オリンピックにも出た人で100M114の記録を持った体育系の変り種の人でもありました。私は東高での三年間は、学業はそっちのけで、大げさにいうと夕方迄書道室、時には夜には先生宅へ行く書道少年の生活でした。

 先生は、初めの書道の授業から変わってました。黒板に《森羅万象悉師》と板書して、『しんらばんしょうことごとく師である。すべてのものが先生である。あの雲を見よ、あの草を見よ。この意味が解ったものは、帰ってよろしい』とスタスタと自ら帰って行きました。私は、夜自宅を訪問して、冬、ストーブに薪をくべながら、『道元禅師はこう言っている〝仏道を習うとは、自己を習うなりと。自己を習うというは自己を忘るるなり″と言っている。この佛道を書道に変えて考えなさい』と口角泡を飛ばして十五・六歳の無知な少年に語り出すのでした。私などは戦後復興の落ちつかぬ社会の中で、親からもあまり期待されることが無かったので加納先生の発することばはこの全身に沁み込んで行ったのでした。また先生は通学バスの中でも生徒からの質問にも明るく答える人気の教師でした。展覧会少年であり、又書道少年となってからは一段と街の画廊への自転車での徘徊の度は増してゆきました。昭和三十年頃から書道用品と画廊のある大丸藤井店では書道の本が、急速に出まわって二玄社の書道講座、「書品」そして「墨美」等が並びだしました。私が当時はじめにテキストで最も刺戟を受けたのは上田桑鳩の(書の鑑賞と学び方)でした。古典を感覚的にとらえて見ごとに書き分けている若者向けの本です。しかし同時期に墨美で墨のかたまりのような井上有一の「愚徹」の表紙のサンパウロビュンナレー展特集や自隠禅師の墨蹟特集、そして京大の美学の井島勉博士の「書の美学と書数育」、墨人誌では、表紙が子供がワラ筆で書いたような「荒」の一字の出た号でした。やがて森田子龍の名著(書の歩み)などが出て、その(熱情の書のグループ)墨人会に急速に傾いてゆきました。

 加納守拙先生は還暦をすぎて、北海道を後に、書作三昧の生活に入るべく、富士山麓の山中に移り、最晩年は、逗子海岸で、世に繁栄する書壇の動きとは無縁の独行者の道を進んでゆきました。守拙という号の通り、その書の哲学は禅の心であり、そのこころ根には(子供のこころ)(わらべの心)童書に対する愛と無私の精神の人でした。七十歳を過ぎて東京新宿で《心の書道場》という小さな集まりを開かれ、先生を慕う少数の人々が集まり、二年程でしたが、私も先生の助手として手伝いました。そのころは機鋒増々鋭く『《無師独悟・自力覚他》だ。自分の外に師はいない。本来の自分こそ師匠だ。今一人の自分の力で、他を覚ることだ』と昔に変わらぬ若々しさでした。家に帰っては夜半から朝方迄夜を徹して筆を執り反故の山の住人でした。日本橋東急で先生の総決算的個展を開き、森田子龍、手島右卿、桑原翠邦等の推薦を受け、その書作は骨力の強い、清虚なもので、多くの未知の人々からも感動のことばを頂きました。1991年、平成三年八十九歳で亡くなりました。

 先生は私の卒業時に墨人の熱情、いのちの書に傾いている私に対し、最後に自ら確信する古法を伝えようとして運筆の理-傭仰の理をタバコをもちながら解いてくれました。しかし浅く思い込みだけで墨人に飛び込もうとする新しがりやの少年には残念ながら筆の技の一つとして聞き流してしまいました。三十代に入って森田子龍の古法論に出会うまで、筆の理に鈍感なままよくも現象面をつっ走ってきたもと思います。「大道無門、千嵯路有り、この関を透得すれば乾坤に独歩せん」だ。「制作(実践)と思索は馬の前足とうしろ足だ。両方とも一つのことだ」次々と先生のシワガレ声が今も私を励ましてくれます。

 井上有一 書は生活である

 『井上有一』を初めて知ったのは高校一・二年の頃で、作品「愚徹」が表紙の(墨美)の井上有一・手島右卿のサンパウロビエンナーレ展特集号でした。受験勉強も上の空で貧るように、(書作一途)にいのちがけの男がいることを知り、強く憧れました。高校二年の修学旅行で旅館をぬけて墨美社に森田子龍を訪ねて、その重厚な誠実さに打たれて、自分の道を墨人と定めてゆきます。加納守拙先生は戦前の書道芸術社の同人仲間の上田桑鳩と交遊がふかく、桑鳩が加納宅に一週間滞在の時、私に会うよう要請が有りましたが、私の心は墨人への意志固く行きませんでした。既に北海道書壇では、旭川の塩田慥洲、札幌の佐藤大朴先生などの墨人へ志向する書人達の活動と加納先生のおかげて我々東高書道部との交流も強くなった頃1959年、墨人会が旭川の全国合宿の為北海道にやってきました。途中、札幌で森田子龍・井上有一の講演会が中学の母校で開かれました。井上有一は表紙に〝雑草〟と筆書されたノートをもって壇上に上ったことを憶えています。

 我々は加納先生に引率されて書道部十数名がその旭川研究会に参加しました。旭川東高の運動場に一人一人の墨人の兵物が陣を取って夫々に黙々と制作しておりました。井上有一はここで有名な(骨)を書きました。まるでブルトーザーの如き筆力で、皆の熱い視線の中で静けさを湛えて誕生しました。忘れられない感動でした。臨書は当時墨美で特集した白隠を書きました。後日、井上有一から加納先生宛の加納先生の生徒を導く無私の心を讃える子供の書のような筆致の手紙が貼り出されました。私は自分の書は自分の写から始まることを直感しました。

1960年、私は札幌東高を卒業して、東京の薬科大学に通うため上京してやがて薬剤師となります。現実的に前衛書道では、将来食べられないので、親から薬屋を継ぐべく強く希望されていたので、やむなく受験しましたが、しかし結局、書がやめられず、二足のワラジの人生となった訳でした。その夏の炎天下、茅ヶ崎海岸にあった自分で整地した木造平屋のアトリエ兼住宅の井上有一宅を訪ねることになるのでした。井上有一は四十五・六歳になっていた頃です。

 私が墨人会の存在を「墨美」で知った時は、墨人会は既に結成七年目で、今思うに、夫々の創立会員達は疾風怒涛の制作で理論と一つの完成の域に達していた感があります。森田子龍、井上有一、江口草玄、関谷義道がまだ健在でした。辻太、大沢華空そして今岡徳夫、篠田昭二、高橋蒼玄、塩野松雲がいたのでした。私は同じ北海道出身の中森君や大塚長栄さん等とともに井上有一宅での墨人サークルの研究会に、そしてあとに村木享子さん達が加わる頃には関東墨人になってゆきます。アトリエの板壁は背丈の高さまで墨の飛沫で、日々の質素な生活と「書作一筋」の緊張感が毎月の研究会で痛感したものでした。今思うに有一宅での研究会は、夏は冷たいソバ、冬は三日煮こんだオデン鍋でした。こまやかで江戸っ子気質の気さくでシャイな人柄とあの鋭い眼光のその底に造形への鋭い感性と気迫の「書作一筋」の生き方、(書は生活なり)の厳しい生き方が常に体から発言していました。それが集まる我々にいつも無言の教えとなって伝わって来ました。生活費の他は殆ど制作費につぎ込んだと自ら記録していますが、この凄まじい生き方は六十六歳で亡くなるまで一貫したものでした。六十代の晩年は、不幸にも肝臓癌を宣告されて、日々絶筆の精神で筆を執り、病と真正面から対決して、臨書顔氏家廟碑、宮沢賢治のコンテ書や、長年あたためたみずからの体験した東京大空襲を題材の(噫々横川国民学校)などが続々と生まれます。やはり井上有一は単なる書家では有りませんでした。(書作)が同時に自ら(記録)として(証言者)として歴史に刻むのだという強い意志を書作に持ち続けた書人であったと思います。若き日に画家を志し、書に転じて1945年東京大空襲にあって仮死して、そこに蘇った生命力は文字通り戦後日本が生んだ井上有一となったのでした。

 晩年、肝臓癌になって一文字作品を一千枚二千枚と追究した大作はじめ、数十年の作品を亡くなるまで整理する日々がありました。どんな気持だったか、家のうしろに大きな穴を掘って、焼却するうしろ姿の写真を見ると今も泣けて来ます。死後、京都近代美術館に自選した作品群が所蔵されました。
 結局、戦後の現代書人で井上有一程、枚数を書いた人はいないと私は思います。膨大に量産してゆく制作の中で自らの(底を抜く)という永遠の今、今の永遠に突入してゆくという作品通りの「愚徹」を生き切った書人といえると思います。あの鋭い眼光にすくみながらも井上有一に死ぬ迄ついて行けたことは今となっては大きな幸せでした。

 私事をひとこと。晩年の月例研究会で、やはり批評作品の殆どが井上有一による評価に傾く中で、たまたま私が異をとなえて別の一枚をもどして推薦した事がありました。その理由を述べたあとに、『なる程、樋口君が言わなかったら、この作品を見落す所だったなあ』と、その作品を改めて井上先生が評価してくれた時がありました。私はこの時、心の中で長年、井上有一の眼の中で、そして、手の中に依存して生きて来たというしばりから、何故か解放された思いが致しました。それから間もなく井上先生は亡くなりましたが、私は拙いながらも井上先生の死後自らの足で進むという姿勢が出来たと思います。それだけ私には井上有一は大きな存在だったのです。井上先生の生前にこの出来事があったおかげで、亡くなった時に精神的に狼狽というか揺れることがなかったことは大きな幸いでした。

 森田子龍 書は生き方のかたちである

(書とは生命の躍動である)(書は生き方の形である)と我々後進に書そのものの核心を示してくれたのが、森田子龍でした。大きくいえば先程も申したように戦後の現代書の、一つの羅針盤的存在が森田子龍という書人でありました。私は、高校時代、加納先生から『今、いのちがけで書いているのは、京都の森田子龍と茅ヶ崎の井上有一だろう』さらに、「森田子龍が書く時は頭の髪が逆立つのだ」と聞いた頃、私は、札幌大丸藤井店で、森田子龍が発行編集した書の月刊誌(墨美)の井上有一、手島右卿号を手にし、同じく次に江戸時代の自隠禅師の墨蹟号に夢中になってゆきました。又森田子龍の墨美社は、京都大学の井島博士の《書の美学と書教育》という理論誌を出して、書道クラブ皆で読んだものでした。私は、高校二年の秋、京都への修学旅行で、加納先生の紹介状を持って、夕方旅館を抜けて、椹木町にある墨美社を一人訪ねました。ズングリムックリとした小柄な男が出てきました。これがかの森田子龍でした。北海道からの来訪に驚いたようでしたが、私は京都のお寿司を喉をつまらせながら食べて、帰ったのでした。奥からハタ織か何かの音が聞こえる事務所で、淡墨の「寒山」という作品の横に摩周の「摩」を書いた植物線維の大筆が吊るされていたのが思い出されます。沈黙の多い一時間余りの訪問でした。森田子龍はプリントの通り、1952年(昭和二十七年)に、書の革新を目ざして、師匠の上田桑鳩の元を出て、墨人会を創立します。井上有一や江口草玄ら五人で、自立する書作家集団をつくつた人です。視る目(古典観、臨書観の是正)、作家生活(因襲の打破)書制作(創作)を提唱して、同人誌(墨人)、月刊誌(墨美)を創刊し又「書教育」誌を主宰し国際的世界で作家活動をつづけていました。NHKから『書 生き方のかたち』や『書と墨象』という本でなじみの人もいると思います。先に述べたように森田子龍、井上有一が北海道に来た時には、墨入会は結成して夫々に、作品と理論ともどもやがて完成に近づきつつあるときでした。お配りしたテキストのように、漆で処理した巨大な作品(沖)や(龍)や(龍は龍を知る)記念碑的作品が国内国外美術館に収蔵されます。やがて森田子龍は墨人会十周年記念の時に、筆(書の美しさ)というテーマで研究発表をしました。(書の美しさは筆のはたらきの美しさである)また(墨の美しさである)そして(紙の美しさである)とときほぐして(書はいのち生命の躍動のあらわれである)こと(生き方のあらわれである)こと(書は境涯の美しさ)であることを結論づけました。若き日から、《書は生命のあらわれだ》と確信して、《書は千年も後の人をも打つことが出来るラジウムの如きものだ》と志しての十年目の研究発表でありました。さらに時を経て七十代に入って、世は豊かな時代に入って書壇の隆盛とともに個性だけがむき出したり、技の多様さだけの作風がひろがって不易なる書の本質の衰退を森田子龍は見て取って行きました。そこで今一度墨入会の内外に対して、書の《古法》の伝達と後進への教化に着手してゆきます。現代書の父、比田井天来が、かつて提唱した《古法》を(古典)を貫く(理)を、感動の筆で自らのものにする道を後進のために拓いたのでした。そして自らは、『書を書くということは、つまり筆をもって書くということは、筆に縛られることのない自分に自分が変わってゆく、その自己革新への道程であること』と生涯、新たな自己創造を八十六歳まで貫きました。墨人会のこのような森田子龍、井上有一などの創立会員達の火の出るような精進のあとを私も金魚のフンのようについて行ったのです。

 私が若い時には、森田子龍が上京した時は、上野の宝ホテルが常宿で夜などよくごちそうになりました。NHK婦人百科の講師を担当した後にまとめた本、(書 生き方のかたち) や岩波哲学講座のゲラ刷りを見せられ、その感想を求められたり楽しい思い出もありますが、そのきびしい言行一致に貫かれ、こと書作や書に対する考え方では巌の如き重い自信と眼力と綿密な書作への真聾な態度、どんな人へも変わらぬ真正面・真正直な態度は接した人なら何人もその深き人柄に脱帽したものでした。「墨美」の徳富蘇峯号の取材の頃にカメラの重さが体に障るので助手として同行したり、古筆の写真どりに同行させてもらいました。なつかしい思い出です。

 私は二十四歳の時に、自分の書作にとって一つのエポックを迎えていました。墨人の求める精神の一端を制作の中で、ささやかながら心身で体験しました。《紙に向かっている筆が、同時に、自分の内側に向かって書いている》という実感を得ることが出来たことです。そして更に書くということは、自分の内側が書き変えられる》(自己変革)ということに気づかされました。《書くということは、自分の内側が書かれることだ》と痛感しました。この体験でそれまでの外側の偶然性に頼っていた自分を大きく反省させられました。そんな内面の出来事を早速森田子龍に手紙を出し、励ましの手紙をもらったのでした。作品(び)というひらがなの作品づくりの時でした。その作品が秋の京都展で新人賞までもらったので忘れられない思い出でもあります。当然、書の古典を貫く古法の蓄積もうすい時でしたが、それでも愛情ふかく啐啄同時といいますか、卵の内側からカラを破ろうとする力、精神を外に導き出してくれる力を森田子龍にも見たのでした。私はしかし、作品で恩がえしもできず、親の心子知らずで大きな失望や心配をかけたまま、森田子龍は亡くなってしまいました。この前の発表でも森田子龍を取り上げましたがプリントにその一例を出しましたが、森田子龍の歴史的業績は必ずや深い文化的地下水となって永く歴史を拓く力になるに違いないと確信するものです。

 終りに 久松真一博士の存在

 ところで今回、出会いの書人として井上有一と森田子龍という墨入会をつくつた二人を取り上げてみて、この戦後の書道界でも極めて対照的な、森田子龍という比田井天来からの書の古典主義を土台とした書入と井上有一という戦前に絵画的な造形を土台とした書人が墨人会結成の原点で集結して短時間で制作と理論で歴史的成果を挙げたことに改めておどろきます。世界大戦で日本の敗戦を機会にそれをバネにした生命への深い自覚とつよい気概に襟を正す思いです。そして、かつてなかった若い書作家グループとして四面楚歌孤立無縁の状況の中で世界に舟出したわけです。しかし、志は同じでも、戦いに勝った欧米の文化思潮が戦後は一段と強く日本中を席倦する中では、アメリカからのイサムノグチや書を賞讃した長谷川三郎や具体派の吉原治良も墨人の書に、むしろかたちの上でも現代絵画に同化するよう書の抽象造形化(絵画化)を促していたように思えます。初期の墨人の中でもα部で、広い造形への試行があったのを見ると実際色々な方向で模索した訳です。しかし、やがて、森田子龍・井上有一の創立会員達が最も精神的支柱としたのは、京都大学の美学の井島勉博士であり、さらに重要な支柱は禅の久松真一博士だと思います。書の理論では井島博士でしたが、より深い精神のありようにおいては久松真一博士であったと思います。鈴木大拙とならぶ禅の行と学の人であり、茶人・書人でもあった久松博士は、書をふかい東洋精神の発露としてとらえて、私ごときではとても到りませんが、自ら行と学から、書に(形なき自己のはたらき)(無相の自己の自覚)に立つ書の境涯を墨人に深く期待したのでした。森田子龍はその深い哲理を真正面に受けて、自らを顧みて、境涯の書(自己変革としての書)を強く決断して書こそ世界に無類の人間の営みであることを改めて確信したのだと思います。その証として1954年の作品(蒼)1955年の(灼熱)などが生まれます。そこにはそれまで彼の作品と全く異なる白熱した精神が叩きつけられた、しかも不易な書の美をふかく湛えた熱い超大作で墨人の往くべき道をすでに示しておりました。

 一方、井上有一も久松真一博士に出会い、その文で「謙虚、柔和その中に蔵する毅然たるもの……(久松)先生からうけたその感じは、革新運動に激する我等にとっては、それは何よりも有難い教えであった」と書いていて、有一にとってもその出会いは極めて大きいものであったと思います。サンパウロビエンナーレ展用に制作した(愚徹)など(文字)に還ったのは
1956年ですが、それまでは、エナメルで非形象のアクションペインティングに明け暮れていたのでした。自らの可能性をひろい造形世界に求めていたのでした。もちろんすでに、早くから「芸術は所詮は心の表現だ。技術はその手段なのだ」(1950年)と率直に有一らしく自己宣言して進んで行きますが、(文字)に還ってから出会った私などおのれの耳にしたことは「己の底を抜くことだ」ということばでした。今から思うと、より次元の高い境地を既に目ざしつつあったのだと思われます。私は井上有一がエナメル(非形象)から文字を書くことに還っていった過程には、やはり森田子龍と同様の久松博士との根源的な出会いが大きな契機としてあるように思います。

 そして、そこで、森田子龍と井上有一という対照的な書人が、特異な戦後という時代状況の中で墨人に集まっただけでなく、久松博士から根源から励まされたことで、〝時代″を共有する以上に世界にも発信できる東洋芸術の大きな根としての(書)で時代を超えた精神の深みにおいて互いに通底したものがあって、それだからこそ互いに信ずる書に切磋琢磨して行ったと思われます。

 森田子龍が、久松先生の死後、墨入会活動において、久松真一博士がいかに大きな存在であったかを、次のように印しています。「書の革新運動を無底の底から指導してくださったのは、実に久松先生だったのである」(墨美
294号)と述懐しています。

 今日は、墨入会が、1952年(昭和二十七年)に結成した一月五日の結成記念の日ですが、私の拙い発表のしめくくりとして、墨入会に森田流に言えば無底の底から指導してくださった久松真一博士の二つの文章を引用、朗読させて頂いて、いまふたたび墨人の原点・墨人の根に思いを致して、そしてさらに新たなる我々墨人の出発の力としたいと思った。次第です。

 1959年(昭和三十四年)墨人展に期待しての文章から読ませてもらいます。

 「いまの前衛芸術、アブストラクトの美術、そういう点から見ても、この書の傾向は面白い。欧米のアブストラクトの絵には、無限の静けさ、さびというようなものが出ていない。だから墨人の書のようなものが、われわれの奥底にあるような東洋独特の禅的なもの、禅といっても何といってもよいが、とにかく非常に底の知れぬ深いものに目覚めて、それがいろいろの形をとって出てくることになれば、おそらく外国の人では真似の出来ないものが出て来るのではないかと思う。……墨人の書が、深いところに関心をもちつつ、自己をどこまでも掘りさげ、それが自然に発露してくるようになれば、これはとても西洋には見られないような、書であってしかも一面、絵として見ても非常に面白いものが出て来るであろう。」

 又、1962年(昭和三十七年)の文では、「私はこの墨入会の新しい運動に対し、心からの共感を大きな期待とを持ち続けて来たのであるが、早や十年後の今日、新しい書道としてのみならず、独自な東洋的抽象芸術として、数々の名作を創作し、遠く欧米にまで高く評価されるに至ったことは、まことに驚嘆に堪えない。これは全く同人諸氏の全身全霊を打ち込んだ血の出るような真剣な鍛錬と、内外の広汎な文化の豊かな受容とによるものであろう。私は墨入会が、将来ますます芸術の独特な領域を開拓され、世界文化に大なる寄与をされんことを念じつつ、墨人に対する頒詞として、この短文を草した次第である。」 ご静聴ありがとうございました。